NPO能登ネットワーク発行『能登国三十三観音のたび』と『伝説とロマンの里―北能登の風土と文化―』

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日本の美術は文化庁が監修、次の文で休刊。

独立行政法人国立文化財機構監修 昭和41年創刊。 国立博物館文化財研究所、文化庁などの最前線の研究者たちによる、 各号1つのテーマを取り上げた書下ろしの月刊誌です。平成23年9月刊、第545号をもちまして休刊となりました。

高い評価の美術書の『No.77塔婆・スツーパ 石田茂作編』の表紙を飾ったのが、能登国三十三観音巡礼札所第一番明泉寺の石塔五重塔だった。

この号は昭和47年10月15日発行。昭和47年は1972年だから足掛け50年前の刊行となる。

 

その後、NPO法人能登ネットワークの依頼・共同作業で『能登国三十三観音のたび』を、平成17年(2005)12月10日に発行した。

依頼があった時の話では、ちょっとしたパンフを考えていたようだが、折角作るのだから、しっかりしたものを残そうと、すでに11種類の御詠歌本を収集していたこともあり、さらに徹底的した調査と、写真を撮った。

能登国三十三観音巡礼札所は明治以降まぼろしの札所化しており、この本を刊行した頃には、

天台宗1,高野山真言宗7、曹洞宗7の15札所が住持職管理、その他、神社7、観音堂(村堂)11、石動山資料館となっていた(4番札所は2カ所のため総34札所)。

 

村堂のうち、8カ所が真宗の寄合行事で、私の父の実家境内にも観音堂があって、物心付いた頃から、能登国三十三観音が身近に存在していたのだ。

 

ともかく記録を残すために、神社では臨時祭礼を開いて貰って奥深く仕舞われている白山本地仏観音像の写真を撮ったり、焼けてないはずだと言い張る雲水さんとともかく開いてみまいけと長い間かかって扉を開け、焼けずに残っていた観音像を発見したり、

結局、ほとんどの観音像の写真を残すことが出来たのである。

 

一方、発行後に能登沖地震が発生し、秘仏がバラバラになったり、火災で焼失、あるいは「民衆の仏」として日常目の前にあった仏さんが、秘仏としてしまわれてしまったものもかなりある。

 

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装幀は西のぼる氏

あとがきをNPO能登ネットワーク理事長(当時興能信用金庫会長、元数馬酒造社長)

が書いておいでる。

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この文からは気づかないと思うが、下の地図で見れば分かるように、能登国三十三観音札所は石動山・邑知潟周辺札所が多く、会長数馬氏の地元能登町(当時能都町)は札所が一ヶ所もなく、私の珠洲でも一ヶ寺しかないのだ。

数馬さんとは能登を知り・紹介したいという思いは一つなので、よく一緒に札所などを巡ったが、いつも奥能登の紹介本が欲しいんだ、とつぶやいておられた。

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私は、まず入り口(能登国三十三観音)をやって、それから奥能登をやろうと言っていたし、その一つの流れが、平成24年(2012)10月21日に飯田高校百周年にあわせて刊行した『飯田高等学校100周年記念誌 伝説とロマンの里』の成果だった。

 

ところが、NPO法人幹部さんたちは個々がそれぞれの要職にあって忙しく、『伝説とロマンの里』も予定していた次の展開に移れず、バラバラになったまま時が流れた。

 

数馬さんは、興能信用金庫理事長職で活躍なさっていたが、あるとき体調が思わしくないとの噂を小耳に挟んだ。

そして、2017年(平成29)10月11日、64才という若さで先立たれたのである。

義雄さんの家族を存じあげない身としては、彼との間の宿題を残したまま、おじゃまする気持ちになれず、いつしか4年の歳月が経っていた。

 

30日。『伝説とロマンの里―北能登の風土と文化―』を携え数馬家を訪ねた。

師走近くの酒造は活気にあふれていた。

今まで、顔を出さなかった失礼を奥さんに詫び、「ようやく約束の一端が果たせそうです」と、2人の間で交わした話をお伝えすることが出来た。

 

こんなに遅くなったのに、恐縮するくらいに喜んでいただき、すこーし荷を降ろした気分で、夕時の海岸道を帰途についた。