いろいろ整理していたら、「ひぐらしが鳴く能登のゆきどまり」の拓本が出てきた。
山口誓子については様々な情報を持っており、推進員勉強会、 蓮如忌法話の補助に使おうかと思ったが、狼煙で生かしてもらうのがいいだろう。
先日の推進員勉強会においでた狼煙区長さんに聞いたらー拓本があるなんて聞いたこともないとおっしゃっていたので、忘れないうちに届けようと狼煙に向かった。
これがその拓本である。円筒の中にあった。
『伝説とロマンの里』で調べると、灯台が出来たのは明治16年。
少年の頃、映画「喜びも悲しみも幾年月」を見
♪ おいら岬の灯台守は 妻と二人で 沖行く船の 無事を祈って 灯をかざす灯をかざす、
と(おおー、何も見ないで歌えた)友と大声で歌い、時に狼煙に行っては灯台守さんの姿を見て、映画の登場人物のような気分に浸ったものだったが、狼煙から灯台守さんが去り、無人化になったのは昭和38年のことだった。
昭和38年というと能登線が松波まで開通、翌年は蛸島までの全線開通、そして東京オリンピック。日本中が浮かれまくっていた頃、
おいら達を励まし続けていた歌の世界は、静かに幕を閉じていたのだった。
珠洲に千人以上の同級生がいた頃、多くが金の卵と言われて集団就職し、学校に残ったものは高校2年生の年だった。
麓の区長さん宅で渡すだけにしようと思ったのだが、句碑がどうなっているか、拓本との関係を見たくなり、できれば句碑と拓本を並べ、自分も入った写真を残せればと、「熱中症に気をつけて下さい」と連日有線が流れている中で、灯台に向かった。
公園というか広場というか久しぶりにたどり着いて、見渡せど句碑が見当たらない。
7月28日夏休みなのに人影もまばら。
曖昧な記憶なのだが、この石畳の真ん中あたりに碑があったような気がしていた。
区長さんに電話して、彼の言うとおりに動いて見つけることが出来た。
次の写真が2007年8月20日に撮ったもので、現在右の鉄塔が無くなっており、そのため通路がずーっと右に寄ったため、かつては句碑の右横面(灯台の歴史が書いてある)が正面のようになったために、句に気づけなくなったのだと判明した。
探し方の下手さもあるだろうが、訪れる人は誓子句碑があることに気づかないで次の目的地に向かうのではないだろうか…。
(2007年8月20日)
句は四角いレンガ塔の向こう側になる。
禄剛崎は(灯台名は禄剛埼)、朝日が海からのぼり、夕日は海に沈む場所として知られる。
下の写真は昭和42年8月。夕暮時。
ウラジオストック772㌔、釜山783㌔、上海1599㌔、東京302㌔の方角・距離案内板もある。若者が見ている方向には佐渡がある。
♪佐渡は49里(江戸期の歌詞は45里)波の上…?
2007年には、次の碑文も建っていた。
暁の蝉が聞こゆる岬かな 前田普羅