服部三智麿師~佐々木信麿師

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5月5日 部屋前の藤

 

服部三智麿『三首詠歌説教』

古書に服部三智麿師の名を見つけた。

 

ちょうど30年前、「節談説教の風土」(『体系日本歴史と芸能 第五巻踊る人々』日本ビクター・平凡社 一九九一年六月刊)を書いた折、お話をお聞きした佐々木信麿師の話に語られていた伝説の布教師である。

そこでは次のように書いた。

 次の代に荒川徳照・長谷大玄・川岸後稠各師がいた。荒川師は稲垣徳秀師・滝岡徳汁師と共に能登の三徳といわれた。聴衆の多さで本堂の床板が抜けたところから「ネダゴボサマ」と呼ばれた師もいる。
 この頃、一世を風靡した説教僧に服部三智麿師がいた。富山県高岡市で桃中軒雲右衛門を指導し、布教先では、ちょうど興行をしていた市川団十郎の芝居を見、団十郎切腹する場面で「大根役者」と野次っておいて、後で説教を見にきた団十郎の前で、針をさした中啓を用いて実際に血を見せて驚かせたとか、「ひよどり越えの逆落し」の因縁話を行った時、咒字(しゆじ)袈裟を右ひざへかけて馬を駆る姿を演じたら、満堂の参詣人が一斉に腰を浮かし、馬を駆る動作をした、などという数々のエピソードを残した和上である。
 長谷大玄師が二十一歳の時、同じ在所で服部三智麿師の説教とかち合ってしまった。はじめのうちは余ったものが来ていたが、長谷師も三智麿師に劣らぬと評判となり、名が一度に知られるようになった。 

 (『とも同行の真宗文化』二〇二〇年六月十日刊、Ⅰ真宗の風土 土徳の里  十八頁~十九頁)

 

私にとっては、幻の説教僧だった方。まさかその人に触れることが出来る著書があるなんて…驚きつつ、すぐ注文した。

その時、話してくださった佐々木伸麿師も大変な和上で、全国にファンも多い。

  ※和上は大布教師の尊称。「わじょう」という。

佐々木師を紹介した文があるので、紹介する。

なんと、もう四五年来、佐々木師は毎年のように正覚寺報恩講に出続けておられるという。正覚寺門徒にはすっかりお馴染みだ。
佐々木師は髪の毛こそ真っ白だけれど、背筋のすっくと伸びた、若々しい、りりしいお坊さんと思った。だが既に七十歳を越えているという。いや、そんな高齢にはまったく見えない。身振り手振りもてきぱきしていて、立っているだけですがすがしい。佐々木師はもう五〇年以上、北海道から九州まで全国で説教しておられるという。「真宗吉本興業」とすら呼ばれる佐々木師の爆笑説教は、いまも全国で引っ張りだこだ。シーズン中は北から南まで全国にスケジュールがぎつしりつまる。
 正覚寺本堂正面にホワイトボードが運び込まれてきた。どうやら「黒板説教」らしい。文字を書きながら説教する、戦後に一般化した方法だ。例えば、
「ししゅのねんぶつ」
なんて言っても、音だけで文字が分からないと、意味がピンと来ない。これを「四趣」と書けば話が早い。江戸時代は庶民の識字率が低く民衆説教はむしろ落語や講談に近かった。というよりお説教が元になって落語、講談、浪花節など日本の話芸が生まれてきた。その大もとが冬場の農閑期に村々の説教所を巡回した、報恩講説教にあるのだ。
 かつての説教は「親の因果が子に報い」などという「因縁話」が多かった。だが戦後は仏教学的にきちんと裏の取れた話をするように方針が変化した。実は因縁話には差別表現が少なくない。それらを注意深く避けるようになったのも戦後のことだ。
今日の佐々木師のお説教は親鸞聖人二十九歳、法然上人との出会いの段から始まった。続いて三十五歳での流罪、いわゆる「承元の法難」のくだりになる。

「で、ご開山さまは越後の国の国府に流される、いまで言う直江津ですわな、ここで僧侶でもない、俗人でもない、『非僧非俗』の生活を始められたわけだわね」
 名手の説教は、突然話が飛ぶ。ところがそれを不自然に感じさせない。聞き手に実感の湧きやすい具体例を繰り出す。いわば「脱線」だが、これが絶妙なのだ。
「『非僧非俗』の生活を始められたわけだわね……ある坊さんが……聞き分けのない孫を連れてタクシーに乗っとった」
 親鸞聖人三十五歳とまったく関係ない「ある坊さん」の話にジャンプした。
「すると、タクシーの運転手さんが『これからお仕事ですか?』と聞いてきたというんだが、こういうところで『いや、お寺の坊さんで』なんて言うと、話が面倒になるので(場内笑)、だいたい世の中はお寺とか坊さんというとエラく儲けとると誤解しておるからね(場内爆笑)」

 説教の名手の話は聞き手を絶対置き去りにしない。逐一みんなの目を見、語りかけながら、話だけはどんどん脱線してゆく。学校の授業でも同じだろう。教科書の内容はさっぱり忘れてしまっても、脱線の話題だけは覚えていたりする。
「……それでその坊さん、あー、とか、うー、とか適当に答えていたら、今度は『景気はどうですか?』と聞いてきたっちゅうんだね……まあ、おれら坊さんには景気の良い悪いはあんまり関係はないわな、景気が良くなってもお布施がわっと増える、なんてこともないし(場内大爆笑)、少しばかり景気が悪くなっても、いきなりお布施が減る、ちゅうこともないし(爆笑)。で、その場はむにゃむにゃ言って誤魔化したら、タクシーを降りるなり、孫が真っ赤な顔して泣いて怒ってる。どうした、と聞いたら、『お爺ちゃん、ケーキはどうですか?(ここで爆笑)って聞かれたのに答えなかったから、ケーキ貰えなかったじゃないかって』(大爆笑)......」
真宗の吉本」佐々木伸麿師の面目躍如だが、こういう普通のギャグ、文字にしてしまうと伝わりにくいのだが、実にツボにはまって絶対に滑らないのだ。
一通り、爆笑ギャグの連発で座を沸かせたあと、説教はいきなり親驚聖人の生涯に戻る。 

 『笑う親鸞 楽しい念仏、歌う説教』(伊東乾著、2012年5月20日河出書房新社刊、22頁~25頁)より

 

三智麿師と伸麿師

佐々木師の父君が、長男としてお生まれになったご子息に、大和上「三智麿」師を越えるような布教師になって欲しい-との願いで、「伸麿」と名付けられたと聞いている。

その佐々木師は、当寺へは20代の時から布教にお越しになっておられ、当時のお参り(春勧化・祠堂経・報恩講)期間は、いずれも1週間~10日だったため、その間、お泊まりになって御布教をなさった。そのため、記憶では、小学生の頃から部屋(御堂座敷)に押しかけては、いろんな話を聞いたものだった。

若き頃の佐々木師

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1960年(昭和35)頃の佐々木師。29歳か30歳のはず。

春日中学校(緑丘中学校に統合。手前体育館、正面二棟校舎は無く、同地に飯田小学校校舎が建っている)への登校坂。春日坂といっていた。中学校へは高下駄履きで通った。右の小屋は自転車小屋。

ついでに書くとー春日中学校は上戸(二クラス)・飯田(二クラス)・直小学校(一クラス)の生徒が集まっており、同級生は200余名。この坂・整備中のグランドあたりは当寺の華山で、山号臥龍山に校舎があったことになる。

 

 

佐々木師は元気だが、数年前85歳を迎えられたのを機に、遠いこともあって当寺への御布教をおやめになっている。

 

服部三智麿師は、明治3年(1868)~昭和19年(1944)の方なので、佐々木師も直接、三智麿節の語りを聞いたわけではないのだろうが、随行に付いた上野慶宗和上からお説教の伝統、師・随行の流れを聞いてこられたのだった。 

 

『三首詠歌説教』 服部三智麿 大正2年4月25日法蔵館発行

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三首詠歌は、御文第4帖4通目に載り、この御文を「三首御詠歌」の御文と言っている(『真宗聖典』(大谷派)817~8頁)。394頁の著書で、服部三智麿口述、瑤寺晃・田中慈辨筆記とある。鬼の念仏絵は服部三智麿師。

 

先学・藤原松陰師と蓮如上人御絵像・イブキ杉

古書を購入したのは、先に書いたとおりだが、同書には元の持主の印がある。また布教用に学ばれたのであろうー書き込みがあり、メモもあった。

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購入した古書店さんが南砺市

先学は「加賀國能美郡板津村字能美 正賢寺 藤原松陰」とある。

どちらも身近な土地だ。しかも、正賢寺はどこかで見たことがある。

記憶を辿ったら、すぐに思い出した。

蓮如さん 門徒が語る蓮如伝承集成』(加能民俗の界編著、1988年・昭和63年10月25日、十月社制作、橋本確文堂出版)で取り上げたお寺ではなかったか…。

確かめると、扉の「蓮如上人御絵像」が小松正賢寺蔵だし、本文でも「イブキ杉」(75頁)が載っている。

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蓮如上人御絵像(小松正賢寺蔵)。『蓮如さん 門徒が語る蓮如伝承集成』より。

 

イブキ杉  [小松市能美町]

能美村に刀鍛冶の藤原将監家次というものがいた。家次は刀匠国次の子だという。寛正六年(一四六五)、比叡の山僧が大谷本願寺を破壊した時、家次は京に馳せ参じ、本願寺のために働きがあった。大いに喜ばれた蓮如さんは、家次の求めに応じて性賢という法名を授けた。
文明二年(一四七〇)五月二十八日、性賢が郷里に帰ることになると、蓮如さんは、日付けを記した寿像一軸と正信偈を与えた。
翌年、吉崎に来た蓮如さんは、性賢に乞われて能美村を訪れ、家次の庭に杉の小枝をさすと芽を出し、年経るごとに枝葉が繁茂した。

その葉の形がイブキに似ているのでイブキ杉といい、一名お花杉という。また、性賢は一刀を鍛えて蓮如さんに贈った時、真筆六字の名号をいただいたという。(藤原正麿談)

[解説]
性賢の子孫は、代々刀鍛冶をしていたが、貞享年間、六世家次の時、帰農して道場をつくり、性賢寺と称し、明治十二年(一八七九)十二月六日、許可を得て正賢寺となった。

お花杉は昭和六十一年(一九八六〉同寺の火災で焼失したが、その前に苗木取りしたものが現本堂前にある。

蓮如さんの遺物は、本文中の寿像と正信偈、真筆六字の名号のほか、一枚起請文、御文(現在の五帖御文の→帖目十五通のもの)、御遺骨などがある。

            『蓮如さん 門徒が語る蓮如伝承集成』(75頁)より。

 

藤原松陰・正麿のお二方の名を確認出来たのだが、『蓮如さん 門徒が語る蓮如伝承集成』発行の年に迎えた一向一揆500年からからも、すでに33年。

現在、正賢寺さんは同地に存在しないようである。

蓮如上人御影は、現在石川歴史博物館が所蔵しており、正賢寺は廃寺と記されている。

 

法縁が「こころ」に染みる。