今朝の「中日春秋」(北陸中日新聞)を読んでいたら、「リリパット国」の文字が飛び込んできた。
倉本四郎氏の週刊ポスト書評、ポストブックレビューをまとめた1冊に、リリパットが使われていて、書庫を通るたびに、リリパットを目にしていた。
そのリリパットは、今まで、リリパット君(ディズニー漫画のピノキオのような少年)がいて、その少年が楽しげに本の空間を遊泳しているイメージのタイトルぐらいに思っていた。
リリパット国(中日春秋)
子供の頃、ガリバーは読んだ。大きなガリバーが砂浜かどこかで、大勢の小さな人間たちに動かないようにロープか何かで留められている絵だけが、記憶に残っている。幼なかったころの私には、もの悲しい場面だった。
巨人・ガリバーから、一語一語に厳しかった四郎さんが、ことば狩りが一つの文化のように席巻していた頃、
「こびと」がダメなら、なぜ「巨人」が許されるのだ、とつぶやいた。
「狩る」のでは無く、「ともに!」にの強い思いを、「つぶやき」に聞いた。
そこには、サトシ(郷史)! 国語の教師だろう?、どう思う?
の声にしない「声」もあったはずだ。
この本には、四郎さんが金沢まで、ポストの担当・大和氏と取材に来てくれて、ブックレヴューに載った三頁書評が再掲されている。
『都市の民俗・金沢』で一緒だった「あなたがた」は、小林忠雄、砺波和年、宮山博光、梅田和秀と私の5人だった。それから37年。
今日は、四郎さんが初めて家に来てから46年目。
あの時、伯母の明石さんが、
門徒さんや親戚に、今、売り出し中の倉本四郎です。平凡パンチなどで書いています。と紹介したはずだった。
若い全国区のひとを見て、皆、びっくり。
四郎さんは、30歳ごろだったはず。
リリパットも三千大千世界の一つ。
その国に生きとし生きるものも(スイフトのこころによって命を吹き込まれた存在であっても)、すべて仏性を有し(一切衆生悉有仏性)、弥陀に願われている。