「たこつぼ」か、それとも? 尖底形製塩土器

13日(土)小木公民館で「市之瀬、越坂の生業と歴史」と題して講演してきた。

高校の同級生男女1名ずつ。西谷啓治さんが能登で最も仲良くしていた従兄弟石岡さんのお子さん。それに真脇遺跡縄文館館長・高田氏などが聴講に来てくれた。

石岡、高田氏は飯田高校、宇出津高校時代の教え子で、このところの西谷啓治氏調査、越坂製塩土器を知るために合い、13日の講演のする旨を伝えていたのが、顔を出してくれたのである。

小木、市之瀬、越坂を含む内浦町エリアで、戦前の文化財は松波城しか知られていなかった。

それが戦後、越坂並びの新保(遺跡)が昭和27、8年に行われた九学会の調査地に選ばれ、その時調査主任だった東大教授・駒井和愛氏は『座談会 能登の実態』で

古墳時代以外の土器では、東海岸というか飯田附近の越坂とか新保というようなところに包含しているものに、先つポのトガつたような妙な土器で、土地の人が、蛸つぼではないかというのがあります。

これは能登というか、奥能登では、その辺だけにしかない、他の県へ行つてみて調査もしたのですが、どの時代のものか良くわからない。けれども非常に珍らしいもので、これは氷見洞窟のやや上の方からも出ているようです。氷見の洞窟は縄文式の頃からあるのですが、その新しい層から出ております。それから瀬戸内海あるいは、渥美半島それから伊勢湾などでも出ているとのことです。

これは何か日本では、今云つたような区域であつて一種独特なもので、どういう目的で先のトガつた妙なこの土器が、おそらく土師(ハジ)器の時代か、その前後の時代に使われていたらしく、一ケ所から非常に沢山出て来ます。あれはちよつと発掘しただけでも、山盛りになつて出て来るのですから、かなり沢山使つていたらしいのです。そういう面白い問題で、土地の人が「蛸壺の問題」といつておりますが良くわからないのです。

 それからもう一つ面白いのは須恵(スエ)器と呼んでおるものが、案外能登半島の奥ではがなり後まで作られておりますし、また使われておりますことです。例えば、我々が泊つたお寺の開山の和尚さんは足利時代の貞和三年(一三四七)になくなっておるのですが、その人の骨壺が出てきた。それを偶然見たのですが、須恵器の非常に退化したものです。

と語っておられ、

 

北陸総合学術調査(昭和三十六年~三十九年 北陸中日新聞・中部日本新聞本社 考古学班。珠洲焼の生産・交易、古代土器製塩など)の折、昭和三十七年に、越坂製塩遺跡群、越坂A~E、Aコウカミ Bトクボ Dソデバマで試掘している。

これらに中心となって関わった高堀勝喜氏は『能登半島学術書』(石川県昭和四〇・一九六五年七月)に 

その附近(能登の古墳)には必ずといってよいほど、製塩に従事したと考えられる遺跡が発見され、能登式土器とよばれる、特異な形態をもつ粗製土師器が大量に出土している。[以下遺跡解説省略―庵遺跡、森腰遺跡、柴垣遺跡、小浦遺跡] このように能登式土器は台底、棒状尖底、平底、丸底に大別されるが、伴出する須恵器によって年代を考証すると、七世紀から八世紀すなわち古墳時代後期から奈良時代にわたって用いられたと考えられる。
能登式土器類似の土師器は、瀬戸内海、紀伊半島知多半島若狭湾岸などで発見され、製塩の煎熬用に使用された煮沸容器、すなわち塩土器であるとする説が、学界に認められつつある能登式土器は台付形が七尾湾岸に、棒状尖底形が珠洲内浦海岸に、平底形が羽咋市滝から志賀町志賀浦海岸に特に濃密であり、中でも珠洲郡内浦町海岸には二十四の遺跡が連なっている。

やはり製塩土器と深く関わり、石川の考古を幅広い層に広め、学会をリードしていくことになる橋本澄夫氏は、『北陸の古代史』「若狭と能登の土器製塩」(橋本澄夫著、昭和四十九年・一九七四・十一月 北陸中日新聞社)において、

能登式製塩土器の発見

 昭和二十六年三月、まだ冬の気配が残る石川県内浦町新保の海岸近くで、一つの発掘風景が見られた。それは昭和二十四年夏、清水隆久泉丘高校教諭(現県教委職員)によって発見された新保縄文遺跡の調査だった。発掘に参加したのは秋田喜一、高堀勝喜、沼田啓太郎、上野与一ら石川考古学研究会の主カメンバーだった。

この時の発掘調査で縄文中期初頭の標式的土器(新保式土器)が認定されるなどの成果を収めているが、それにもまして関心を集めたのは付近から表採された奇妙な土器片の一括であった。それは土師器に似た素焼土器の小片で、全体の形がわからないほど細かく破砕していたが、”鬼の角”にも似た棒状の底がある異形の土器だったらしい。細片となっている薄い胴部破片も二次的な火熱を受けたらしく赤く焼けていた。後日、秋田によって「能奥式尖底土器」と命名されたこの種の土器を出す遺跡は、能登半島内浦沿岸で相次いで発見された。その用途については”タコ壺説””祭祀説””ガラス生産説”などとか論せられたが、これが古代の製塩用具であることが明らかにされたのは昭和二十九年ごろになってからである。 

と書いている。

 

新保遺跡(長尾・越坂)が選ばれたわけ 

 ここまで話していたら、どうして新保が調査地に選ばれたげね-?

と、質問する人がおいでた。

私もどうして新保(長尾・越坂)なんだろうと、レジメを作っていて思ったので、そのあたりを、メモしておいた。

昭和15年紀元2600年の戦前史観に触れると話が長くなるので、足下を見ていく教育の中でということにして、

 昭和二十四年、清水隆久(泉丘教諭)先生が、鵜川出身の生徒・河合仁君と能登の遺跡探訪の旅に出かけ、仁君の親戚・小木中畠中勗校長宅に泊まった。その時、同校川淵功教員が新保の畠で縄文土器らしきものを採取したという話を聞き、翌日出かけて数片の縄文土器を採取した。旧内浦町域では、松波城以外で初めて世に出た遺跡となった。この時、後に町史・考古編担当となる高堀勝喜氏は発熱のため同行できず、翌年夏現地を訪ね若干の土器片と石槍1点を採取。
 26年3月25・6日、24年春に発足していた珠洲郷土史研究会メンバー(中野錬次郎、和島俊二、塩梅俊夫、川淵功)と石川考古学研究会(高堀、副会長秋田喜一など5名)による約4坪の新保遺跡発掘調査を行った。

25日は川淵教諭宅に泊。その時高堀氏の宇出津小学校・泉丘高校の教え子である数馬酒造の数馬嘉平氏などから酒の差し入れがあり、新保縄文土器や海岸で採取した土師器についての談論に花が咲き、それがタコツボ論争に発展していった。

( 『内浦町史』第一巻 昭和五十六年 「第一章 内浦町の考古学研究の足跡」高堀勝喜氏より。「第四章 内浦町の土器製塩遺跡と製塩土器」は橋本澄夫氏担当)

 

高堀氏が宇出津小学校で教えていたことは、共に『能都町史』に関わった折にも、聞いたことが無く、親しくさせて頂いた故・数馬嘉雄氏の父君の名にここで出会うとは、それだけで、今回の話をお引き受けした甲斐、というよりあまりあるものがあった。

 

この棒状尖底能登式土器製塩は、『ドライブ紀行 いしかわ遺跡めぐり・能登編』 橋本澄夫(一九九一・平成三年一〇月 北國新聞社)にも、
 古墳時代前半期(四・五世紀)台底型土器、古墳時代後半期(六・七世紀)尖底型土器、平底型奈良時代(八世紀)以降
 昭和二十九年(一九五四)、福野潟学術調査。高堀氏 謎の土器が小浦遺跡から採集されていた。昭和二十六年、新保縄文遺跡、秋田喜一先生が新保海岸から採集された奇妙な土器片。①大量にある ②海岸地帯のみ ③二次的な高い加熱。秋田氏はタコツボ説。尖った部分に紐を結びつけて海に沈める。別に工業生産説、祭祀土器。→タコツボ論争

 などと紹介されているが、高堀さんが世を去り、橋本さんが前線から身をひかれてから、しばらくして開かれた「日本海域の土器製塩」シンポ(2010年3月『石川県埋蔵文化財情報』第23号)には、

能登地方では製塩土器の形態が脚台→丸底→平底へ変化したと考えられており、…(所長 湯尻修平) 

 とあって、『能登半島学術書』の「能登式土器は台底、棒状尖底、平底、丸底(高堀)」の、棒状尖底が脚台に含まれたのか、無視されている。

 その辺りを縄文の研究でも第一人者である四柳嘉章氏(輪島漆芸美術館名誉館長)に訪ねたら、

『ヤトン谷内遺跡 能登における古代製塩遺跡の調査』「尖底製塩土器制作技法の復元」(四柳嘉章 一九九五年・平成七 中島町教育委員会)があるとおっしゃる。

その頃中島町史の調査を一緒にやっていて、この報告書は頂いていた。尖底土器研究の到達点なのだろう。

 

 素人判断ながら、尖底土器は狭い浜に最も効率的に煎熬しうる形状ではないかと思える。

 四柳氏論文をふまえ、今一度、分布と予測される自然景観と、棒状尖底土器の位置づけを問い直す必要があるのではないか、と思うのだが、どうなのだろうか?

 

姿を見せた尖底製塩土

高田氏は、「最も原型に近い形で出土した極めて貴重な」尖底製塩土器を、講演の場に持参して下さった。
これも、聞けば長い間、石川県埋蔵文化財センターで展示しており、センターの財団化にともない、出土地の内浦町に還り、(日の目を見ないでいたのが)最近真脇遺跡縄文館に保管されることになったのだという。
高田氏に本を届けに、講演の前に資料館へ寄ったのが、聴衆の方がたとともに、土器を目の当たりに見ることにつながった。

出会いの不思議さ…。

歩かなくてはならない。

 

なお『座談会 能登の実態』で、

それからもう一つ面白いのは須恵(スエ)器と呼んでおるものが、案外能登半島の奥ではがなり後まで作られております… 

とある須恵器は珠洲でも他地域と同様に姿を消しており、ここで言う須恵器に似た黒く堅い焼き物は、昭和38年に「珠洲焼」と命名された別の古陶のことである。

珠洲焼は「須恵器に似て、須恵器にあらず」から研究史がはじまった。

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内浦長尾遺跡出土製塩土器 昭和28年出土 「この種の製塩土器の殆どが細片化している中で、最も原型に近い形で出土した極めて貴重なもの」(『能登町文化財』)。

小木公民館2階、講演会場で(3月13日・土)

高さ23・2㎝、横(口部径)15・5㎝

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塩土器を含むレジメ資料2-2

製塩・レジメ

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塩づくり、製塩レジメ2-1

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塩づくり・製塩レジメ2-2