3月3日のブログに、弘法榧、熊野神社舊跡由緒地碑を尋ねたが探す出せなかった旨を書いた。
附に落ちないので、町の文化財担当者と連絡を取ったもののはっきりしない。
直近に見た人はいないようだし、直近の私自身は180度方向音痴なので今一度確かめに出かけた。
榧の方は10年前に撮った写真から、道の上方を探していたのが、ひよっとしたら下方かも知れないと見当を付け、講義会場の様子も知りたいので小木公民館に向かった。
お昼近く公民館出発。
弘法榧
弘法榧は、案内標識が無く道路からは榧があるのかどうかが分からない。このところ大雪による倒木も多いので、榧の存在を示す標識が無いため、もう無いのかも知れないとの思い込みがあったのだが、見つけることができた。
私が場所を説明するとすれば、榧の持ち主吹上家から歩いて小木方面に向かう道を下って30㍍程にあります、となる。これは、今まで道路から巨木が見えると思っていたので、実際に辿りついての認識だ。車からは、榧を見つけることが出来ない。
レジメにも載せておいたが珠洲市と能登町では国・県指定文化財がほぼ同数であるのに市指定82に対し町は313と4倍近くある。これは元柳田村の指定が多いためで、指定基準がバラバラなまま、町指定に移行しているためである。
能登沖地震の後、いつまでも倒れたままになっている文化財を他地区のあちこちで見かけたが、近くで崖崩れもあったという「弘法榧」にも、近年同じようなことがおきているのかも知れない、そしてあまりの指定数に現状把握が出来ていない、と考えても不思議ではない。
ともあれ、熊野エリアの北側・真言木郎結集に対する南側の象徴・吹上エリアのシンボルとでもいうべき榧が、無事に変わらずにあったことに、感動した。
記弘法大師所植瓶花榧之事 天保二(一八三一)年 吹上弘一家文書 『内浦町史』二巻 四九一頁
記弘法大師所植瓶花榧之事 能州珠洲郡表浦海辺有山、濟挙十許町山之半腹有二本之榧樹、周囲一丈四五尺枝葉森々而欝然与尋常之樹木異也、其實大且長殻皮左周旋故世云左巻之榧聞道此地往昔之古伽藍堂塔並甍吾祖弘法大師、亦一夏安居而修求聞持秘法、法成就後植壇上所備之瓶花於此処左右両瓶故有榧二本不改枝葉繁茂古今青翠之色者吾真言秘密教法至末代之数千萬歳守護国家利濟民庶之霊瑞也、鳴呼貴哉不可不仰不可不信矣、傳聞其地面廿間四方従御元祖大納言高徳院殿拝領之来、其地主云越坂村助右衛門此家亦是弘法大師投錫之家云、去文化四年之春故金龍院(※十二代斉泰)殿有尊虜--欲作碁盤-尋榧之大木於国中、宗玄村忠左衛門訴此樹木之巨細於金城之政府、時故金龍院殿尋其樹木之来由、於焉地主助右衛門具認弘法大師求聞持秘法瓶花之家傳来由以上之政府、同年至十月故金龍院殿厳命是此神木也不可敢加斧鉞、堅守護以為国寳焉、今又慎告地主助右衛門令守護此樹永久則非使啻(ただ)国家之武運栄久、抑又汝子孫亦是濟々云爾 天保二年卯五月 前善通寺誕生院権僧正隆鳳謹書 (包紙上書)「榧榧之由来」 菩提所於満泉寺観悟法印
弘法大師一千年御遠忌勤修之御為大阿闍梨御下向當家被持成御一宿候時、御作被成下難有頂戴仕候事
熊野社舊跡碑
もう一つの碑について。市之瀬からの道が四つ角になる地点数㍍のところに碑がある、と2、3年前に行った人がいう。
3日に附近を尋ねた感触では、三叉路に交差している昔の道、と言うべきだとすでに混乱。180度方向音痴なので右側にあるのか左側にあるのかが重要。市之瀬(海)側、乃ち左側にあるはず。道の左側数㍍を確かめる。
3.40㍍行くと、元は広々としていただろうと思われる場所があった。
見つかった。
昭和55年に刊行した『能都町史』に載せた写真ほとんどそのままと言っていい。小さい碑だと取られるおそれがあるのでぼかすのだが、碑高119㎝、台座を含むと160㎝近くもあり、奥行34、幅66センチの堂々たる碑だった。道路から三段、10㍍くらい入った地点にあった。
3~4㍍説に対して、ちゃんとしておかなければと歩数で距離を確かめた。73歩。
今の私の歩幅なら、少なめで一歩50センチくらいか?それでも36㍍にはなる。
13日に間に合うように帰ってから作図。
これで、バッチリ。
昼食を取りに九十九湾越坂地内に新しく出来た「イカの駅つくモール」で食事をしながら、今一度、構想を練ろうと行ったのだが、なんと水曜日は休業日。
次の目的地・西谷記念館を越え、宇出津で昼食。
そのあと教え子が館長をしている「藤波テニスミュージアム」のある藤波台運動公園や
越坂出土の「尖底形製塩土器」の話を確かめるため、やはり教え子が館長をしている「真脇遺跡縄文館」を訪ねたりした。
それらを元に作成したのが以下のレジメ参照写真・図である。
レジメ参照写真・図