二つの芭蕉句碑ーその二・白丸芭蕉句碑

 

長浜吟行句会のメンバーが聴講の多くを占めておいでになった講義「宝立の月」(2月25日木)。

昨日のブログに書いたように、芭蕉百回忌を記念してと言われていた能登最古の芭蕉句碑「名月や北国日和さだめなき」(門前黒島)が、一〇〇回忌では無く、九〇回忌の時のものだった。

となると、100年関係の碑がないだろうか?と訪ねてみたくなる。

出会いとはこういうものなのだろう。


月を詠んだ句では無いものの、宝立公民館館長民山(みんざん)さんに通ずる「民山」とある句碑があるので、話すことがあるかも知れないと思い、その句碑について見直した。
なんと、その句碑が芭蕉没後百年の碑だったのである。

 

『伝説とロマンの里』(石川県立飯田高等学校百周年記念)には次のように書いた(217~8頁)。

四章 12 芭蕉(ばしよう)句碑
能登町白丸「やすらぎ能登教室」敷地内
『内浦町史』第三巻に、「鶴の巣も見らるる花の葉越かな はせを」さらに芭蕉と刻むとあるが、下五が欠損しており、刻まれているのは芭蕉翁の文字である。書体・刻みの深さが同じなので、芭蕉翁だけだった可能性がある。

この碑は、新村川原の石垣に積まれていたのを、初崎寅松・大形岩蔵氏たちが宮崎観音堂境内に移した。昭和十五年(一九四〇)には俳句愛好会である白丸雅友が発足し、その句碑に参拝したという。

裏面に「寛政甲寅(一七九四)初夏富来住凡内民山」「三波」とあり、数奇な経過をたどったにしては、欠損部以外の傷みもなく、いい句碑である。

この宮崎の地には江波神社があった。明治四十年に菅原神社に合祀され、跡地に北の向出にあった観音堂を移した。その後、白丸小学校の敷地拡大によって観音堂は菅原神社そばの小山に移転したが、碑はそのまま元地近くに残り、現在白丸公民館の上、校舎(「やすらぎ能登教室」)右に建っている。

牧孝治氏は、「続虚栗(みなしぐり)」の「鸛(こう)の巣もみらるる花の葉越哉」を指摘しておいでる。

 

この碑について、もう少し詳しく見ていこう。

『内浦町史』第二巻 近世・近代・民俗編(昭和57年10月刊) 979~980頁

芭蕉の句碑
白丸新村と長尾の境の川より上がった芭蕉の作と言われる句碑がある。
「鶴の巣の見らるゝ程の」までは刻まれているがあとはわからない。
ある人は「葉越えかな」「茂み」とも言っている。

○『内浦町史』第三巻 通史・集落編 文化と俳諧(牧孝治・石川県俳文学協会常任理事執筆)昭和59年・1984年10月刊・635頁
当町には芭蕉の碑が二基あって、松波万福寺庭園内の一基。

もう一つの句碑は、白丸小学校の校庭に建てられており、もと新村と長尾の境の川なかにあったもの。
 鶴の巣も見らるる花の葉越かな はせを(さらに芭蕉と刻む)
裏面に「寛政申((甲))寅初夏富来住凡内民山」「三波」とある。台座を付すも碑面に欠損がある。
大正五年(※1916)、白丸観音堂からここに再建された。由来などは不詳である。
『続(ぞく)虚栗(みなしぐり)』には「鸛(こう)の巣もみらるる((ゝ))花の葉越哉」とある。 

 2冊の内浦町史に拠ると、句そのものを、牧氏は「花の葉越かな はせを(さらに芭蕉と刻む)」と書いているが、私が書いたように、下五以下は、欠損で失われていた。ただ、私が見たのは2012年のことで内浦町史刊行から30年も経ってからのことである。町史執筆の頃には欠損はなかったのでは、とも考えられるが、私の見たのは「芭蕉」ではなく「芭蕉翁」であり、翁を見逃すはずがない。それに前年に地元の人が書いた文には「鶴の巣の見らるる程の」までは刻まれているとあり、以下は欠損していてなかったことを示唆している。
これはここまでとしておくが、

町史には碑が「川なかにあった」「台座を付す」とある。イメージが涌かない。私の文には

新村川原の石垣に積まれていたのを、初崎寅松・大形岩蔵氏たちが宮崎観音堂境内に移した。昭和十五年(一九四〇)には俳句愛好会である白丸雅友が発足し、その句碑に参拝したという。 

 と、極めて具体的に書いている。

 

そこで新たな疑問。
町史以上に参考となり、参考にした資料があったのだろうか。

 

昭和60(1985)年3月に『白丸小学校百十年史』が坂下喜久次・高塚隆両教諭が編集主任となり、碑を当地に移した初崎寅松・大形岩蔵氏の特別協力の下で刊行している。10年ほど前の話なのでよく覚えていないが、この本に、碑移動の顛末が書かれていたのだろう。

25日講義のあと、26日に、その時お聞きになっていた「長浜吟行句会」の有志さん達と、白丸の碑を訪ねた。
前に調査したときは、危なくて後ろの文字をじっくり見ることは出来無かったが、今行って見ると、様相が一変していた。
数奇な碑の変転が、その後も続いていたらしい。

じっくり見ることが出来、写真も撮れた。碑文は以下のようになるだろう。 

 

[表]
靍の巣毛(も) 芭蕉
見良類ゝ(らるる)[欠損]

 [裏左(裏から見て)]

     富木住

       凡内民山

寛  甲寅初夏

[裏右]    三波【欠損か】

[註] 芭蕉没後、「寛」がつく年号は、寛保、寛延、寛政があるが、甲寅は寛政六年しか無い。寛政六年は1794年、芭蕉没後100年である。

「三波」は藤波・波並・矢波。

[石の大きさ]

縦 119㎝ 横 52㎝ 奥行き 63㎝

上から見て△状の碑石である。

 

以下写真で変遷を辿る 

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1982年昭和57年『内浦町史』第二巻980頁。三巻に「台を付す」とある台が、この石組みの台なのだろう。かつてこのような形で大切にされていたとは、想像も出来ない。次の写真にあるような窮屈な時代を経て、今は、のびのびとしているように見える。

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2012年(平成24年)7月13日撮影。この時、「白丸のキャーラゲ」をまとめるお手伝いに行っていたはず。

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同。白丸小学校の敷地が宮崎公園だったことを示す碑。今思うと五輪が江波神社や観音堂がこの地にあったことを物語っていたのだろう。今は碑と並んで存在を主張している。

 

以下、2021年(令和3年)2月26日(金)

 

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現在の句碑。芭蕉100年記念碑、白丸宮崎公園芭蕉句碑、さまざまな呼び名が考えられるが、ともあれ現在の句碑。最初の文字は「靍(つる)」だと思うのだが、鸛(こう)なのかも知れない。「靍の巣毛(も) 芭蕉翁 見良(ら)類(る)ゝ[以下欠]だろう。

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[裏面]下部 富木住 凡内民山 [その左]甲寅初夏

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[裏面・左]寛[以下欠] 下の甲寅初夏に続く。寛政 甲寅は1794年。芭蕉没後100年である。

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長浜吟行句会の方々。2012年の二枚の写真が一堂に。

吟行句会の方々と共に、というだけで文化人に混ぜてもらえたような

豊かな気分になる。

次に向かった西谷記念館、羽根万象美術館でも美術の鑑賞の仕方を学んだ。