塩釜の行方 

1月31日のブログに

かつてこの地(珠洲市真浦町)にあった塩釜が、仙台の塩竈神社境内に移されてあった。
その塩釜に出会ったのは偶然で、テニス部の鳥毛兄弟、同じ日置中出身の机谷・鴨谷ペアたちと仙台インターハイに行った折、試合後、松島・瑞巌寺塩竈神社を見学した。その時、塩竈神社境内の目立つ所に、真浦にあった塩釜が仙台の地にあるいわれを書いた説明札と共に展示されていたのである。
数年前、当時の珠洲塩田村館長の横道さんが、塩竈神社へ見に行ったのだが、見当たらなかったとのこと。なら、せめて写真を…と探すのだが見つからない。
塩釜が錆びるのは早く、引率したのは1990年(平成2年)で、もう31年も経っている。
やっぱり写真だけでも…だ。
〈追記〉
1990年(平成2年)8月6日撮影 塩竈神社の写真が見つかった。
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宮城県塩竈神社境内
説明板
煎熬(せんごう)用平釜
 この釜は石川県能登半島 (揚浜式塩田)で 昔使われていたもので 濃い塩水(かん水)を煮て塩をとったものです。
とある。真浦も、真浦観光センターーホテルニューまうらーにも一言も触れていないが、ニューまうらの入り口で見たか、その頃には経緯をたどれたので、説明板に書いてあった、と記憶がかぶさっていたもののようだ。
 でも、写真が出てきてよかった。非常に大きな平釜である。すでに錆による劣化が進んでおり、下の方も崩れていく寸前のようだ。ーどうなったのだろう。

 引き続き、「ホテルニューまうら」を知るため、次のメモを引用した。

【メモ】ホテルニューまうら=1963(昭和38)年開業。北陸鉄道の子会社「真浦観光センター」が運営。地元食材を生かした「あえのこと料理」、「波の花」が見られる海岸近くのロケーションなどが人気を集めた。プロが選ぶ日本旅館100選に何度も入賞した。ピークの91年は年間6万5000人が利用。バブル崩壊能登沖地震、ナホトカ号重油流出事故などで客足が減り2000年12月廃業した。(北陸中日新聞」2020年6月21日より) 

 

このメモの本文が、北陸中日新聞の次の記事である。

往時の姿 追憶誌で後世に

珠洲で38年営業 ホテルニューまうら
2020年6月21日 05時00分 (6月21日 11時07分更新)
 珠洲市真浦町で二〇〇〇(平成十二)年まで三十八年営業し、能登観光ブームを支えた「ホテルニューまうら」の往時を紹介する追憶誌が完成した。ホテルOBらでつくる「まうら友の会」発行。全国から観光客が押し寄せた状況も分かる。編集した元社長の星場与一さん(88)=中能登町西馬場=は「自分を育てていただいたホテルを後世に伝えたい。皆さんの協力で仕上がった」と感謝する。(室木泰彦)
 開業当時、映画「忘却の花びら」で隣接する輪島市曽々木海岸がロケ舞台となり能登ブームの契機に。曽々木と真浦間にトンネルも開通し、ホテルも奥能登の誘客を支えた。
 星場さんは一九八九〜九八年に社長、その後二〇〇〇年まで取締役を務めた。施設改良、宿泊客に定置網の陸揚げ見学を楽しんでもらう企画、十年連続で修学旅行で訪れた愛知県立安城東高校との交流、防災研修など、ホテルの歩みを写真や新聞記事などで紹介している。
 星場さんの社長時代は宿泊者数などの営業実績も掲載。バブル崩壊で観光客が減った厳しい現実もうかがえる。御陣乗太鼓演奏、団体客出迎えや新入社員歓迎式、改装工事、OB友の会(真志会)発会など写真も多数掲載。一八年に跡地にホテルを後世に伝える看板を設置したことも伝えている。
 七〇〜九一年に支配人だった中井敏雄さん(78)=金沢市上荒屋=は八〇年から手書きのミニ新聞を月一回発行した。毎月六百部で百七十五号まで発行。ホテルだけでなく能登全体の観光情報も掲載し、全国の関係者に配布しホテルPRに貢献した。「東京や大阪、名古屋などに行くと新聞を作る人として顔パスだった。反響がうれしかった」と振り返る。中井さんは追憶誌に写真など貴重な資料を提供した。(以下略)

 

記憶が頼りだけのブログ記事を元社長藤岡與一さんに送った。

翌日お電話があり、貴重な『』
藤岡直彦 平成3年6月17日73歳三ツ屋 1965昭和40年~昭和63年1988営業終了平成12年2000年12月1日する直前の4月6日取締役退任。