なかにし礼氏ー坂下喜久次氏 思い出

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        ※VAIOデスクトップ(後継機種なし)からLAVIEに買い換えたら、うまくできないことがある。写真を小さくすることもその一つ。

 

なかにし礼(本名・中西礼三)氏(82歳)がご逝去なさり、今日の新聞に大きく報じられている。

礼氏のご両親が石川県出身だと知ったのは20年数年前のことである。

私が珠洲焼資料館の館長についたのは49歳の時だった。

その時、最も親しくしていた新聞社の砺波さんがサプライズやな、と言った後、今度はこっちがサプライズや、と口にした。

2ヶ月後、彼は新聞社系列のテレビ局の専務か何かになった。

ひっくり返るくらい驚いた。

記者時代の人脈、取材力を生かし、しっかりした番組を作って行ったが、その一つに

八尾を舞台にした「風の盆恋歌」があった。

この題名での高橋治の小説があり、なかにし礼作詞・石川さゆりの歌謡曲がある。

その頃は、テレビを全く見ない時期だったが、たぶん連絡があって、風の恋盆歌の舞台である八尾や、作品の背景を訪ねる番組を見た。

いい作品だった。

そこに、なかにし礼の父が小松、母が恋路出身だと紹介されていたのである。

北海道関係者は江差の7割が珠洲から出向いた人々で、故郷を訪ねる機運が盛り上がっていたときで、当寺のご門徒箱館根室江差などへ多くの方々が出向いている。「松前行き」という言葉があるくらいで、

高橋掬太郎と組んで「啼くな小鳩よ」(岡晴夫)、「ここに幸あり」(大津美子)、奥能登ブルース(大月みやこ)を作曲した飯田三郎もテイチクレコード会社の記録では、当地・飯田の出身で、それで、飯田姓を名乗っていると聞いた。

なかにし礼もかァー、との感慨と、「今日でお別れ」「知りすぎたのね」などの好きな曲があたまをよぎったのだろうが、それはそこまでだった。

 

のち、内浦町の歴史家・坂下喜久次さんや方言研究家の馬場宏さんたちと親しくさせていただく中で、坂下さんがなかにし礼のいとこだと知るに及んで、なかにし礼が急に身近な方となり、あったことも見たこともない「なかにし礼」を、坂下さんのお顔やお仕事から想像するようになった。

その坂下さんに関するかつてのブログ記事を再掲する。

 

2006-02-21の記事
坂下喜久次氏著『七尾城と小丸山城ー能登の中世戦国史ー』
昨年(2005年)の10月2日、坂下喜久次さん夫妻がヒョイと、まさにヒョイという感じでお越しになった。
前日、飯田町で「おわら」の町流しがあり、そこに奥さんが参加されておられたようで、夜遅くなったので三味線を置いて行かれた。
それを取りに来られたというのが、表向き。

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『七尾城と小丸山城』北國新聞社

このような本を出しました。と、くださった。

エエエ…!!!、という感じだった。
こういう本があればいいなァと思っていた、まさにそんな本。
望んでも、現実に出来ることはないだろうと思っていた内容で、
基本史料がキシッと収められている820p余の大著。

帯には
「1600点の史料が映し出す中世能登の”真実”」。
後書きには、松浦五郎氏と意見の一致を見、大林昇太郎氏の『七尾町旧話』に意を強くした、と書いておられる。
地道に着実に仕事をなさった方々の名を挙げ、
帯に”真実”とお書きになった。
そこに、坂下さんの万感の思い、長年の御苦労が込められている。

推薦文・網野善彦先生
網野善彦先生は、推薦文に
「近年、各地で地域学の確立・発展が盛んに強調されている事実の物語る通り、
それぞれの地域の個性・特質を生み出した歴史を正確に認識することこそ、現代を誤りなく生きるために不可欠であることが、広く世の共通した理解となりつつある。
本書は能登に即して、この課題に正面から応えた文字通りの労作であり、
この地に生まれ育ったすぐれた教育者坂下喜久次氏が長年にわたって力を注いでこられた、能登の中世に関する調査・研究のすべてのまとめ、結晶ともいうべき大著である。」
そして「能登を愛し、その生活の隅々までを大切にして、細部にわたり調べ抜いてこられた坂下氏ならではなし得ない研究成果であり、余人のたやすく及び難い、本書の重要な特質ということができよう」と絶賛されている。
まさに能登を愛した希有の才能が一つになり、結晶となった推薦文だと思った。

この推薦文は平成14年1月20日にお書きになっている。
先生は、平成16年2月27日にお亡くなりになられた。
そして、この本は平成17年9月に発刊されたのである。

umiyamabusi.hatenadiary.com

FB 2月9日(土)より   春のあえのこと

 12月21日

能登町宮犬の坂下喜久次さん宅を訪ねて、
能登国三十三観音のたび』をお渡ししてきた。

突然、お訪ねしたにもかかわらず、
上がっていけとおっしゃるので、おじゃました。
どんな環境の中で、あの大作、労作が生まれたのかを見たかった。
この家で『七尾城と小丸山城』が出来上がったのだ、
と感じるだけで胸が高鳴った。

毎日午前2時までワープロを打ち通しだった、
と坂下先生は語られた。
近くの弥勒院のご住職は、
一晩中明かりがついていた、とおっしゃっていた。

坂下順一郎さんの願い
心血を注がれた本が出来上がるまでに、
悲しい出来事があった。
坂下先生には、
御息子の小木小教諭・順一郎先生がワープロを教え、
また大著の早い完成をめざしてワープロ打ちを手伝っておられた。

網野先生の推薦文が出来てから1年と10ヶ月、
平成15年11月22日、
タイヤの目のないトラックが猛スピードでセンターラインをオーバーし3台の車にぶつかった。
その被害にあった1台が順一郎先生の車だった。
51才。
奥さんと4人のお子さんと、喜久次先生、お母さんを残して、
順一郎先生は還って逝かれた。

あとがきにこう書いておられる。
「(息子・順一郎は)トラックに衝突される交通事故に遭い、残念無念急死しました。
生前賜りました御恩情に感謝を致し深く御礼を申し上げるものです。」

もう、涙で書けないのだが…もうちょっと…
2月1日、免許書の書き換えで珠洲署へ行ってきた。
その時「車社会に生きよう」と題する文集をいただいた。

そこに「息子坂下順一郎の死」と題する喜久次先生の文があった。
「息子の妻が『あんたどうしたが』と尋ねると、
『俺は正しく運転し走っていたが、トラックがセンターラインをオーバーしてぶつかってきた、腹が痛く残念だ』
と苦しそうに答えた。
『でも手術をすれば大丈夫。なおるから頑張ってね』の励ましに、
『うん、がんばる』の一声を残して手術に向かった。
これが夫婦の今生の別れとなった。」

「妻は息子の4人の子供を枕元に寄せ
『お父さん、子供が来ているよ』と声を振り絞り、
みんなで呼ぶと本人は目を開けようとしてか、
まぶたをビリビリと動かした。

『お父さんが何か言っている』と妻が叫んだ。
すでに心肺停止した状態だが最後の別れを告げる奇跡を起こしたように思えた。」

※(2020年12月27日追加 

順一郎さんは同志社大卒業で、グリーメンなら誰もがあこがれる同志社大グリークラブに入っていた。

演奏旅行で学校などを回ったときなど、東海林太郎のまねをなさって人気があったという。この話は、順一郎氏を偲ぶグリークラブの紀要か何かで見たのだが、それがなんだったのかもう思い出すことができない。

喜久次先生は2009年(平成21年)に亡くなられた。

先生亡き後、何か出版した書籍を持って坂下家を訪ねたことがある。

その時順一郎夫人と話す機会があり、そこで夫人は私の宇出津高校時代の教え子だと知った。

話が前後するが、三十三観音の旅を持参して先生をたずねた折に、この部屋に○○ちゃん(令氏のこと)関係(色紙など)が置いてあるとおっしゃった。

その時は、勉強部屋を見たかったので、話題がどんどんそれそうなこともあって部屋をのぞかなかったような気がする。今なら、一等先にその部屋に入るだろうに…などなど。

月日は人を変える。

ここで本文に戻り、

 

網野先生の序から3年6ヶ月。
74才からワープロを打ち続けた坂下先生、
一人一人の願いが籠もった金字塔となる書物が世に出た。

 

 

今日は、多くの地域で「あえのこと」が行われる。かつて、農家では、名ばかりであってもほとんどが意識していたが、門徒宅のように、報恩講や斎(とき)始めがなく、また、親作が小作人と労働契約を結ぶ行事でもあるので(本来、こちらが重要だった)、真宗以外の農家に、しっかりした形で残ってきた行事である。
 昨日の8日(「こと八日」)は像法期の主仏・薬師如来の縁日で、真言檀家などは、仏事を営み今日を迎える。松も8日に山から求めてきたはず。
かつて書いた新聞記事で、今日の行事の一端を考える。
「舞台」2008年(平成20年)9月27日(金)

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舞台2008年平成20年9月27日

北國新聞夕刊記事。「あえのこと」「あいのこと」
[本文]
多くの方言資料を残した馬場宏さんが、
「あえのこと」をあいのことだ、とおっしゃたことがある。
実証的研究で定評のある坂下喜久次さんも「あいのこと」だとおっしゃっている。
 今年の北陸三県民俗学会の共通テーマーが田の神に関連し、発表の機会が与えられたので、それを機に、あらためて「あえ」「あい」の流れをたどってみた。
 昭和五十一年に「奥能登のあえのこと」として国の重要無形民俗文化財に選ばれ、ユネスコ無形民俗遺産登録も視野に入れているこの行事は、『七浦村志』(大正十年間)に「田の神様」として紹介されたのが初出である。
その二年後に刊行された『石川県鳳至郡誌』には「あえのこと」(大屋村)が載った、
[※西山註:「あえのことは間の事の転訛にして、秋季祭と正月の中間に行はるゝが故に名づく」とある。北陸はイとエの区別がはっきりしない4母音地帯と言われている。]
また行事の詳しい様子をはじめて全国に紹介した小寺廉吉さんは、「アイノコト」を用いておられる。
ところが『農村分類語彙』(昭和二十二年刊)にはじまる民俗辞典類は、すべて「あえのこと」が見出しとなっており、「あえ」を饗応(きようおう)の「饗(あえ)」であると説明する。
[※註:このことを決めたメンバーの1人から聞いた話では、その方は「新嘗祭研究会?」にも所属しており、そのメンバーが話し合って、「嘗」の字を当てることにしたのだという。]
 一方の「あい」は、収穫祭と正月という大きな行事の「間(あい)」、神々の「会い」、実りをもたらす「アイ」の風が吹いて欲しいという願いをこめてなど、多様ないわれと共に伝承されていた。
 説明しやすい、「饗(あえ)」が研究者によって選ばれ定着したのだが、その名の奥に、多くの人びとの願い・報謝の思いを込めた言葉がある。そのことを心れず語り伝えていきたい。(珠洲市西山郷史(にしやまさとし)加能民俗の会副会長

 

 馬場さんは、80歳を過ぎても原付バイクで、あちこちに調査にでかけられ、相当高齢になっても泉丘高校定時制生徒だった。汽車に乗り合わせたとき、学割をお見せになり、これで方言調査に出かけるのだ、と楽しそうに話されていた。
作詞・作家なかにし礼の母は、能登町恋路・坂下家の出。

坂下喜久次さんは、なかにし礼氏と従兄弟。研究・調査・執筆の合間に披露なさる三味線・民謡がお上手だった。ご夫婦で礼氏を○○ちゃんと呼んでおられたが、文才に音楽。似るものだと思っていた。