「能登七尾の港」「七尾港」

 福永武彦『遠くのこだま』の古本を購入し、「貝合せ」を読んだ(ブログ12月1日、富来「湖月館で。…」)。武彦は文の中に古典をほどよく配し、目の前の光景描写など、ほれぼれとする随筆名人だ。
 いつもなら、読み進めることもないのだが、ひかれて読み進めると「旅」ジャンルの終わりに「旅情」という随筆があった。

「旅情」部分
 私は今年の春の初め、まだ雪の残っている頃に、中野重治、伊藤信吉両氏のお供をして能登に行き、たまたま七尾港を過ぎた。
 波止場に立つと烈しい北風が吹きすさび、かもめが空に群れ、飛沫が岸壁にぶち当った。 晴れ間が見えていたのに、向う岸が少し曇ったかと思ううちに雪が横なぐりに吹きつけて来て、私たちの足をよろめかせた。私たちは急いで駅前の食堂にはいり、熱いうどんを啜った。
 私は東京に帰ってから、室生犀星の「能登七尾の港」という詩を読んだが、旅情は、私がその詩を読む時にも、まだ続いていたということが出来よう。

  廃港の夜はかもめさへも哺啼き出でず、
  ともしび山の肌にうつる、
  金沢の旅館(やどり)をのがれ、
  能登のくに七尾に来れど、
  何処にゆかむとする我なるかを知らず。
  あはれ、うち向ふ夕餉に
  いのち断たれし鶏(くだかけ)のこゑの鋭どし。

(室生犀星「鳥雀集」より)
            (昭和四十三年八月「旅情」部分)

 

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『随筆集 遠くのこだま』(福永武彦 新潮社 昭和45年8月刊)

 この文を読んで、真宗文化一辺倒の脳裏に、昔、七尾の港をうたった犀星の詩について書いたことを思いだした。
昭和六十年四月一日発行の『ふるさと文学探訪 鏡花・秋声・犀星』(石川文学の会 能登印刷出版部発行)である。この冊子を出すための会だったか…、そうではない、こういう会があって、国語教師だったわたしも準会員のような形で執筆に関わったのだった。
35年前の刊行、わたしが38歳の時である。七尾の港をよんだ犀星の詩について書いたことは覚えているが、何を書いたかは霧の中。引用する。

七尾港

 明治四十二年十月、「みくに新聞」(福井県三国)に入社した犀星は、相場新聞に文学の理想を執筆し続けて、社長と衝突、わずか三週間で金沢へ舞い戻った。
 二十歳の青年の理想と現実! 
 そのはざまの中で彼は、俳句を愛する一つ年上のおい、小畠貞一を頼り、暮れも押し迫ったころ、七尾へと旅立つ。
 犀星にとって旅は、「つくることなく、わが悲しみの消ゆる時なし。旅にいづればこころよみがへり、あたらしく心勇みいづ」(旅のかなたに)と歌われるものであるが、七尾への旅は、「心勇みいづ」るものとはほど遠いものであった。
 七尾の歴史は古い。能登島と岬に囲まれた天然の良港を北に、南に霊峰石動山を擁する恵まれた立地条件のもとで、港は古代、香島津と呼ばれ、養老二年(七一八)には能登国国府国分寺の所在地として、その姿をあらわす。室町期になると、現在の市街地の東約五キロの七つの尾根を利用した、守護畠山氏の居城が築かれる。七尾の地名はこの城の雅名によるものといわれる。城は天正五年(一五七七)落城。同九年、市街地の西端部に移築され、それ以後に、港も含む一帯が「七尾」と意識されるようになった。港は北前船航路の要として、藩政期の回船は二百隻余を数え、文久二年(一八六二)には軍艦所が設けられる。慶応三年(一八六七)、英国船め入港以来、度々外国船が入港するという出来事もあって、さまざまな意味で活況を呈していた。しかし、明治新政府の、太平洋側重視政策は、この港町を衰退へと追い込んでいく。六隻の艦隊を常備、明治三十年(一八九七)商港指定、翌年の七尾鉄道敷設といった振興策が、次々と実施されたものの、さびれようはおおうべくもなく、犀星をして「廃港の夜はかもめさへも啼き出でず」(能登七尾の港)と歌わせる。
 終着駅…さらに北に向かうには、能登汽飴によらねばならなかったさいはての街、昔日の面影を失った港、黒々と広がる冬の海。これらを舞台とし、そこの青年の失意が加わる時、語るべき相手は、地の底に住む者こそがふさわしかった。

   「七尾の海」
  自殺したる友がふるさとのこの港
  なぎさをゆけば浪もおとなしく
  わがひたひに映りなじみたり
  うれしや雪もうすくふりいで
  旅のこころもあたたかに
  その友としみらにあゆめるごとし
  ともよ女君がふるさとにながれも来たり
  こころしぎりに君をよびさまし
  この荒れたる冬にかたらむとす

 旅が回復力を持ち得るのは、旅するものの傷みを越えた、より深い所に横たわる旅先の状況に対する認識と、連帯があってのことにほかならない。かすかな光明を見出そうと苦悩する犀星の姿をここにみてとれよう。
 今、七尾は能登第一の商業都市として栄える。港も外材輸入港として、LPガス基地としてなど、もはや一青年の苦衷を受け入れた頃の面影はない。わずかに、能登島を結ぶフェリーボートに旅情らしきものを感じさせられたものであるが、能登島大橋の完成でその姿を消した。

『ふるさと文学探訪 鏡花・秋声・犀星』
昭和六十年四月一日発行 石川文学の会 能登印刷出版部発行

 

 

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『ふるさと文学探訪 鏡花・秋声・犀星』昭和60年4月 能登印刷出版部刊

父のふるさと七尾江曽への入り口―七尾港

 父の故郷七尾へは、バス・列車の乗り継ぎではどこかで一泊しなければならないくらいの(心理的、実際も)距離感があり、七尾へ行くには船で行った。

 文学者の七尾とは違って、僕たち兄弟には七尾港は夢の入り口だった。

 写真は飯田~七航路貨客船「藤丸」船上。孫たちは晴れ姿の真新しい制服を着て緊張した面持ち。撮影者は父・外卿。

 昭和32年(私・郷史が10歳、弟・雅秀は8歳)8月6日の写真である。

63年も前。「藤丸」そのものの写真も、そう無いだろう。

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写真裏に「32、8、6 飯田出船 藤丸船上ニテ」と、父の書き込みがある。