善光寺三尊佛と真宗、葉山新善光寺、能登新善光寺

先日、真宗の某要寺の倉を見せていただいた時、厨子に入った善光寺如来三尊像が仕舞われているのに気づいた。

側に、高僧木像も二体あった。

カメラが壊れていたのと、調査が目的では無かったので、ちょっと奇異な印象で立派な善光寺如来像と彩色も綺麗なままの高僧像を目に

焼き付け帰途についたのだが、

御伝鈔上巻8段に

 


御弟子入西房、聖人親鶯の真影をうつしたてまつらんとおもうこころざしありて、日来をふるところに、聖人そのこころざしあることを鑑みて、おおせられてのたまわく、「定禅法橋七条辺に居住にうつさしむべし」と。

 

 

入西房鑑察のむねを随喜して、すなわちかの法橋を召請す、定禅左右なくまいりぬ。すなわち、尊顔にむかいたてまつりて、申していわく、「去夜、奇特の霊夢をなん感ずるところなり。その夢中に拝したてまつるところの聖僧の面像、いまむかいたてまつる容貌、すこしもたがうところなし」といいて、たちまちに随喜感歎の色ふかくして、みずからその夢をかたる。

 

 

「貴僧二人来入す。一人の僧のたまわく、「この化僧の真影をうつさしめんとおもうこころざしあり。ねがわくは禅下筆をくだすべし」と。

 

 

定禅問いていわく、「かの化僧たれ人ぞや。」くだんの僧いわく、「善光寺の本願御房これなり」と。

ここに定禅たなごころをあわせ、ひざまずきて夢のうちにおもう様、さては生身の弥陀如来にこそと、身の毛いよだちて、恭敬尊重をいたす。
また「御ぐしばかりをうつされんにたんぬべし」と云々 かくのごとく問答往復して、夢さめおわりぬ。

しかるに、いまこの貴坊にまいりて、みたてまつる尊容、夢中の聖僧にすこしもたがわず」とて、随喜のあまり涙をながす。

「しかれば夢にまかすべし」とて、いまも御ぐしばかりをうつしたてまつりけり。夢想は仁治三年九月廿日の夜なり。つらつらこの奇瑞をおもうに、聖人、弥陀如来の来現ということ炳焉なり。

しかればすなわち、弘通したまう教行、おそらくは弥陀の直説といいつべし。あきらかに無漏の恵燈をかかげて、とおく濁世の迷闇をはらし、あまねく甘露の法雨をそそきて、はるかに枯渇の凡悪をうるおさんとなり。

おぐべし信ずべし。

 

とある。

重要なのは「本願御房」「生身の弥陀如来」の2語。

御伝鈔からも真宗寺院に聖人の本地とでも言うべき、善光寺阿弥陀像があっったとしても不思議ではないのだが、

実際目にしたのは初めてである。

かつて真脇新善光寺を調べた時の善光寺様式像(似たお姿はいくつかある)と、違いがないお姿だったので、その真脇新善光寺のお姿をここに載せる。

高僧木像は、善導大師・法然上人だろう。

 

善光寺まいり』(五来重平凡社・1988年)「第六章善光寺信仰と新善光寺」には、東海道東山道の、房総の、下野・常陸の、武蔵川口の各新善光寺甲斐善光寺、葉山の新善光寺について書かれている。

五来先生は、新善光寺は「鎌倉幕府の保護が厚く、原始真宗教団との衝突もひき起こされたのであろう。」と書いておられる。

先生が、葉山新善光寺に出会うのは昭和60年のことで、「思わぬところで新善光寺と彫った石柱に出会いびっくりし、さらにこの新善光寺が名越善光寺の後身だったので2度びっくりした」と書いておられる。

 

私は、善光寺三尊像を見て、積んであった本(『善光寺まいり』)をめくっていて、葉山新善光寺の歴史に気づき、びっくり2乗している。

山新善光寺は義兄宅の菩提寺で、何度も行っているし、義兄の葬儀もそこで行われたのだ。

 

一方、真脇新善光寺には巻子本の素晴らしい縁起書がある。それこそページ数の関係で、『能都町史』には載せなかった。

近くに虎御前の墓、百合若伝説の上日寺などもあり、遊行比丘尼の拠る拠点の寺庵であったことは間違いない。

 

一方の、善光寺真宗だが、戦後間もない混乱期に大谷派寺院と善光寺御開帳との間に、ちょっとした軋轢があったこともそれとなしに聞いている。

 

思わぬところから、

次々整理しなければならない仏さまが出現なさったものだ・・・。

と思いつつ、深いところでただただ

感動している。 

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一光三尊善光寺阿弥陀如来立像。舟形光背、臼台座の典型的な善光寺仏。像高27・2㌢。脇侍21㌢


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行基山新善光寺能登町真脇)『能都町史』個別寺院誌で執筆(昭和57年)。

2017年7月19日撮影。