蝦夷錦ー御門徒交流史に向けてー

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「西勝寺」は16ページ。県立郷土資料館(現在の石川歴史博物館)紀要。資料館は元四高(現在・近代文学館?)にあった


いつだったか、どういうときだったか、歴博学芸員さんと話していて「蝦夷錦」の話題になった。当寺の寄進札に「蝦夷錦」の文字があったのでそれを伝えておいたのが、ものはともかく寄進札だけでもと、その方面の専門の方とお二人で調査に来られた。

このような時とか、門徒さんなどにもお渡しできるように西勝寺年表の下書きを作っていたのを、今度の「真宗文化論」サイズに合わせてA5の持ちやすいのを作った。

 

当寺は

元暦元年(1184) 飯田城主を大旦那としていた光福庵開基慈寂が没したところから系譜(安永八年1779、圓意の記録を写しておいた記録)が始まり

宝暦10年(1760)ごろには12世住職圓祐の弟円空松前箱館浄玄寺を開き(箱館別院の前身)、

その頃、13世権律師圓旭が正親町三条家24代實同(さねとも)の猶子(猶子の如し=義理の親子)になっており、

文化頃には、初期の飯田郷代官で後、今石動の代官になった篠島頼太郎家(2500石)12代頼太郎の妹・添が嫁ぎ14世圓護および治を産み育てている。

このことはかなり早い時期に、歴博学芸員だった亀田康範さんが、紀要論文に篠島家文書をお書きになっていたらしく、当時の石川県立郷土資料館の研究室で、興奮したように篠島頼太郎の妹が西山さんのお寺にお嫁に行っている…、とおっしゃった。

この紀要(紀要第八号「加賀藩人持組篠島家文書」昭和51年6月刊)が出たのは私がまだ20代の時だから、初任校の羽咋工業時代の話だ。野球部部長時代で加賀藩???・・・のころだ。

大体が、父も養子、その前もその前もその前も跡継ぎがいなかったか早世しており、何か行事をやるにも椀まで御門徒宅から借りなければ出来なかった、と聞いていたから、耳に留まる話ではなかったのである。

ただ寺紋の連翹紋は珍しく、これは篠島家の紋をいただいたのだろうと民俗をかじっての「嫁の紋」説でそう考え、そう語っていた。

ところが、これは正親町三条家ゆかりの戸田家の紋だった(正親町三条は転法輪三条家と区別するため、後に嵯峨姓を名告る)。

というように・・・・・・、

なかなかのロマンのある歴史や法宝物を有している。

いつかちゃんとした「西勝寺史誌」のためにだ。

 

本堂の寄進札は何度か調べているが、打敷・七条類を核に見るのは初めて。

蝦夷錦」は3点の寄進があり、その他にも「猩猩緋」「緋羅紗」「赤地錦」などの高級な赤地錦打敷が寄進されている。

本山の紋刺繍もあるが、龍の図柄が多い。

山号の「臥龍山」からだと思うが、この分野の研究が進んでいるわけではない。

様々な仮説と背景を考えなければならないのだろう。

寄進なさっている地は、江指、室蘭、箱館、小樽、江戸、大坂、京都など。

年号が入っていて最も古いのも、享和2年(1802)江戸住亀屋からのもので、幕末の大変な時期の寄進でもあるのだ。

調査をなさりながら話しておられるお二人の見解を聞いていると、知らない世界が、次々に広がる。

 

頑張ってください、と頭を下げながら見送った。

 

umiyamabusi.hatenadiary.com

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