人身受け難し


 

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「人身受け難し」には盲亀浮木のたとえ、一握りの砂などの喩えがあるが、身近なところで我身がこの世に存在する、そのことを語ることで、譬喩になるし、かろうじて身が引き締まる。

父が大谷大学の学生の時、学徒出陣で兵役に就いた(はず)。

配属先が戦車隊で、戦車そのものがなく戦地におもむかないまま、8月15日を迎えた。

祖母の関係で、すでに当寺の養子になっていた。

 

ここから「たられば・・・」

戦地に行っていたら、私はこの世に生を受けることがなかったかも知れない・・・・・・人身受け難しーとほぼ完結していた。

 

ところがこのところ、違う身近な話が浮かんで来る。

伯父が戦死していたら、父が七尾の実家を継いでおり、飯田へ養子にさえ来ていなかったのではないか・・・という思いである。

 

小さな頃、伯父がお説教に来ると、たいてい弟と一緒に3人で風呂へ入った。

伯父の体には、あちこちが引っ込んでおり、そこへちっちゃな指を入れては遊んでいた。

その穴が何であるのか聞かされた頃、私はその意味が理解出来る年になっていたのだろう・・・。

通信兵だった伯父は、大陸の浜辺を自転車をこいで別基地に伝達する仕事についていたそうで、ある日、一機のグラマン?があらわれ、伯父をめがけて爆弾(銃弾)を落して通り過ぎた。

伯父は、砂浜に身を投げ出して伏せ直撃は避けることが出来たが、爆弾の破片が何ヵ所かに刺さり、その後も体内に破片がいくつか残っているーとのことだった。

 

母の実家へ里帰りしていた時、輪島で進駐軍ジープを何度か見かけたが、伯父との出来ごとが、多分、私の最初の戦争と結びつく記憶だと思う。

 

こういうことを書き出したのは、昨日、旧制静高出身中曽根氏康弘氏が101歳で亡くなられ、あの人の人生に戦争の悲しみがあったとコメントされる方が多く、そこから、『地のさざめごと』(静岡高校戦没者遺稿集)を思い出し、いろいろ広がってきたのだ。

この本には中曽根氏が関わっている痕跡は見えなかったが、多くの同級生の顔写真・遺稿が載っているはずである。

タイトルは旧制高校の寮歌の出だし部分で、二番までの歌詞を本に書き込んでいた。さらに3番が別の字で書き加えてある。

仲良かった井出の字だ。

彼と一緒に呉服町を歩いていて、本屋・江崎書店?に寄った時、彼は1冊の本を示し、この本に「俺の名が載っている」と言った。

知人の名を普通の書店で見るという最初の出来事。目の前に本人がいる、たとえようのない不思議な時が流れた。

 

遺稿集へ戻って、「きけわだつみこえ」など手当たり次第に読んだが、最も影響を受けたのが『わがいのち月明に燃ゆ』(林尹夫)だった。

チボー家の人々』の翻訳本がなかった時代の学生だった林氏は、フランス語辞典片手に全て読み切るなど、膨大な読書生活を送っていた。学生になりたての私は、勝手にライバルに仕立て上げ、同じ本を読み尽くそうと思ったものだった。遺稿集のあちこちに出てくる、「慧眼がシャリニ生死無し」を、その頃、よく用いたりもした。

 ※なんとなく生死にこだわらない、という意味で使っていたが、確かめてみると「慧玄が這裏に生死なし」だった。

妙心寺開山無相大師関山慧玄禅師が生死の問題で悩む修行僧に向かって喝破した慧玄が這裏に生死無し。わしのところには、生だの死だのというものは一切ない

 

で、「人身受け難し」をいただいている私は、

これから、門徒さん宅報恩講

午後は、中能登町能登部下カルチャーセンター「飛翔」で今年最後の講演「能登の宗教風土と謡曲「鵜祭」」。

ウタイだから能登の歌を唄ってくる。

 

そろそろ動き出さなくては、しばしさらば「Les Thibault」(レ・チボー=チボー家の人々)・・・だ。

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「地のさざめごと」.この寮とは関係がなかったが、出だしの部分を歌える。曲と共に旧制高校生の袴に下駄、白だすき姿で太鼓を叩いているシーンが浮かぶ。大学祭か何かで何度か見たのだろう。