吉野秀雄氏ご命日【索引】歎異鈔、浅井成海、鏡の御影、念仏、正信偈
もう寝ようかと思った頃に戸城さんのFBで知った。
今朝そのことを思っていて、今日は?
と、作りつつある一覧表を見ると、吉野秀雄氏のご命日(明治35・1902年7月3日~昭和42・1967年7月13日)である。
そう気づいたのだから、読まれる日を待って棚にある『定本吉野秀雄全歌集』をこころして読めばよかったのに、別の本を探すのに時間が取られ、羽アリが作ったゴミ掃除までしていたら、そろそろ夕刻。
たまには、静かに歌を鑑賞しよう。
次の歌集がこころを揺さぶる
寒蝉集
玉簾花
昭和十九年夏、妻はつ子胃を病みて鎌倉佐藤
外科に入院し、遂に再び起たず、八月二十九
日、四児を残して命絶えき。享年四十二。会
津八一大人戒名を授けたまひて淑真院釈尼貞
初といふ
病む妻の足頸にぎり昼寝する末の子をみれば死なしめがたし
幼子は死にゆく母とつゆ知らで釣りこし魚の魚籃(びく)を覗かす
歩みゐて流るる涙のごはねば道辺人(みちのべびと)はいぶかしみ佇(た)つ
をさな子の服のほころびを汝(な)は縫へり幾日(いくひ)か後(のち)に死ぬとふものを
をさな児の兄は弟(おとと)をはげまして臨終(いまは)の母の脛(すね)さすりつつ
息絶えし汝(なれ)の面(おもて)の蚊を追ふと破れ団扇(うちわ)をわがはためかす
亡骸(なきがら)にとりつきて叫ぶをさならよ母を死なしめて申しわけもなし
命なき汝(な)が唇(くちびる)のうごめくと母はつぶやきわれも然(しか)見つ
わが門(かど)に葬儀自動車の止(とど)まれるこの実相(ますがた)をいかにかもせむ
屍(かばね)にもいまは別れむ泣きぬれて歎異(たんい)の鈔(せう)を誦(ず)しまつりつつ
母死にて四日泣きゐしをさならが今朝(けさ)登校す一人また一人
をさな子が母を夢見し語り言(ごと)くりかへしわれは語らしめつつ
念仏をとなへながらに或る折のなまめきし汝(な)が声一つ恋ふ
末の娘(こ)と障子の穴をつくろへり汝(なれ)の位牌に風は沁ませじ
おのづから朝のめざめに眼尻(まなじり)を伝ふものあり南無阿弥陀仏
※一〇一首中。以下「百日忌」「彼岸」昭和二十年「乙酉年頭吟」「仰寒天正述傷心」「寒日訪友」「狩野河畔」・・・と続く。
たらちねの母
昭和二十年十一月二十二日、母高崎にて逝く。
享年六十七。仏法を篤信し、およそなすべき
をなしたるの人なりき
こときれし母がみ手とり懐に温めまゐらす子なればわれは
去年妻をなくしし我をいやましにいとしみまして母は逝きにき
息の緒(お)の絶ゆればすでにみ仏の母に唱ふる称名(しょうみょう)念仏(ねんぶつ)
通夜の酒母のめぐみといただきて酔ひつつもとな涙しながる
白き髭(ひげ)膝に触るまでうなだれてとむらふ父を母も嘆きね
添ひあゆむ母の枢(ひつぎ)に村里の欅(けやき)のもみぢ散りかかるなり
堪へかてにわが敲(う)つ馨(けい)のごんごんとこの世の母は焼けたまふなれ
たらちねの母を焼く火のほのほだち鉄扉の隙に見ざるべからず
上州富岡にて納骨の折に
いだきゆくお骨の母よ枯桑の畑のこの道いま通るぞも
妻の骨けふ母のほねひと年にふたたびひらく暗き墓壙(はかあな)
またおもひいでて
在りし日の母が勤行の正信偈わが耳底に一生ひびかむ