旧「能登のうみやまブシ(西山郷史)」から、現「能登のうみやまブシ=西山郷史」への移動
現代のメールではなく、ましてfbやツィターでやりとりすることもない方々との間で、誰でも開けるブログ記事でもって長年情報を伝え続けてきた。
そのブログが、2月から新URLに変わったので、古くからお世話になっているそれらの方々に、新URLを知らせることが出来ないままでいた。メールその他の連絡方法が無い時は賀状に一言添えるのがいい方法なのだが、それまでに日がありすぎる。
時折ブログを開いていたそれらの方が、能登のうみやまブシ(西山郷史)を開いてみると、1月26日から更新がなく、もう5ヶ月も経過している。
さすがに元気なのだろうか?と、さりげないお便りが届くことがある。
勿論、お返事は書くが、文の中に更新のないブログ?を気にしておられることが見えているので、今朝3時に目が覚めたのを機に、前のURLブログを今一度見直した。
かつてのURLと違っている。入ることが出来なかった以前の記事に入ることが出来た。ということは編集も出来るのである。
うきうきとしてURLが変わりましたと付け加えたのがこの記事。
2019-01-26の記事は
※以下が無い現URL記事と2種類存在することになった。
なにはともあれ、よかった・・・・・・。
2019-01-26
天女の羽衣ー能登町・田ノ浦海岸―(地産地消文化情報誌『能登』34号)
※能登のうみやまブシ(西山郷史)はこの日の記事が最終記事です。
次回からURLがhttps://umiyamabusi.hatenadiary.com/となり、タイトルも
能登のうみやまブシ=西山郷史となります。ご迷惑をおかけしますが、これからは
umiyamabusi.hatenadiary.com
をよろしくお願いします。
「天女の羽衣―能登町・田ノ浦海岸―」
34号が25日に届いた。
本文では触れることが出来なかったが、蓮如上人が「正信偈大意」に天与の羽衣の重さを書いておられる。
お書きになっている通りに重さを量ったところ、それが6グラムだった(昨年9月25日、七尾「御祓川」で)。
そのことにも触れながら、能登の天女伝説を書こうと思って書いた、その本が届いたのである。
「能登」34号
切り株だけの衣掛柳
そして、今朝、朝日新聞に「天女が舞い降りた湖」の題で余呉湖が載っていた。
[
「天女の羽衣」の導入に、三保と余呉の天女の羽衣を書いた。
三保は羽衣伝説の代表だし、
余呉は、加賀藩主の祖とされる菅原道真出生伝承と関わる、天女の羽衣だからである。
本文には
また、余呉湖(長浜市)には、加賀藩主前田家との縁を伝える「天女の衣掛柳」がある。
それは、湖水で狩りをしていた武将が菅沢で天女がたわむれているのに出会い連れ帰る.三年経って子が出来たのを機に天女は天に帰っていく。
その子が加賀藩主、前田家の先祖の菅原道真だというのである(『三壺聞書』)
と書いた。
『三壺聞書』は、宝永年間1704〜11に、加賀藩士山田四郎右衛門が著した越登賀の武将・名将の記録。
その余呉湖の天女伝説が、本の届いた翌朝の新聞に載ったのだから、偶然に驚いた。
文を読んでいくと。
余呉湖に残る羽衣伝説は、14世紀にまとめられたとされる「帝王編年記」の723年の条に、記されている。話はこうだ。
昔、天女が舞い降り湖で水浴びしているうちに、男に羽衣を隠される。天に帰れず、男の妻となり子をもうけたが、やがて羽衣を見つけ天に帰る。男は嘆き暮らした―。伝説はその後、男は「桐畑太夫」、子の一人は後の菅原道真、などと広がりを見せる。
「子どもの頃はよく伝説を聞かされた」。余呉地域づくり協議会で伝説の発信などに取り組んできた水上仁昌さん(73)はふり返る。中でも、今に残る象徴として大切にしてきたのが、天女が羽衣をかけたとされる「衣掛(きぬかけ)柳」だ。
衣掛柳は、江戸時代の宝永年間に余呉の庄屋が地元の菅山(かんざん)寺へ伝説を報告する古文書に出てくる。羽衣掛の柳は昔から根元の株が枯れることなく、大きくなっても上へは伸びず、衣が掛けやすいように枝葉が横に広がつている―。
昨年末、伝説の柳を見ようと湖畔を訪れると、切り株だけが寂しく残っていた。聞けば、高さ約18㍍の柳が2017年秋に強風で折れたという。水上さんは当時ショックを受けたが、「絶やしてはいかん」という思いも強まった。そんな折、木からひこばえ(若芽)が出ていることが確認された。
とあって、写真の柳は2017年秋に折れて、切り株だけになっているのだという。
驚き二乗だ。
もうこの柳は無いのだ。
この右下に載っている写真
これは貴重な写真だ。
いつ撮ったのか調べて見ると、2011年4月4日、親鸞聖人750回忌記念展を見るため、長浜付近を旅し、3日に余呉湖畔に泊まった折の写真だった。