岡崎 土呂、 同行・妙好人

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蓮如上人と伝承』使用写真。1995年(平成7年)10月23日撮影-土呂御堂山


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蓮如上人52歳像、土呂。同日撮影


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『おやまブックレット1 蓮如上人と伝承』西山郷史、1998年12月25日、2001年4月1日2刷、真宗大谷派金沢別院発行、現在絶版


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『信者めぐり』編輯近江国野洲郡小津村字大林・宇野最勝、越中国婦負郡山田村字今山田・竹田順道、大正11年、平成18年9月1日16版、大八木興文堂発行


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三河真宗』昭和63年4月真宗大谷派岡崎別院発行

4日に岡崎に向かうが、『蓮如上人と伝承』(1998年12月25日初版発行)の「8 動物と龍女」のところで「大蛇が女人となって救済される話は、出口光善寺のほかにも、三河土呂旧跡(岡崎市福岡町)などに伝えられており・・・」と書いており、土呂旧跡の「蛇骨」の写真を載せている。

この冊子の元となる「おやま御坊」連載の取材のために岡崎を訪れ、この蛇骨のある「御堂山」や「上宮寺」を訪ねた記憶がある。

ノートを見ると1995年(平成7年)10月23日に逗子から東岡崎で降りて調査し、その日のうちに金沢まで行っている。上宮寺・蛇骨の記憶があり本宗寺さんの「蓮師・如光連座像」写真もあることを思うと、急いだ通り過ぎ調査で、どこへ行ってきたのか周りの風景が消えているのだ。それから24年、今度は泊まりがけでその地に向かうことになる。

 

それとは別に『三河真宗』(昭和63年、真宗大谷派三河別院刊)を見ると、「土徳をおもう」というエッセーもあって、そのころすでに三河でも「土徳」を用いている。

 

仏教が生活になっているのは真宗門徒

仏教を生きた教えとして生活の中に活かし続けてきたためで、そういう人が育たなかったら、かつての仏教国に見られるように哲学か思想、学問の対象としてしか存在しなかっただろう(鈴木大拙師の中国で禅、日本で真宗が仏教を守ったとの説による)。

その仏教に生きた人々の手本を、同行とか妙好人という。

土徳の岡崎にも知られた妙好人がいるはずだ、と調べて見ると

妙好人伝に載る人々には、参州七三郎(「七三郎生涯記」あり)、三州利右衛門、三州その(おその)、三州梅吉がおいでる。三河のお園は著名で『妙好人千代尼』にも3個所にその名をあげた(が、このところ三河より「岡崎教区」で考えていたため結びつかなかった)。

また、播州の三田老人が訪ねた『信者めぐり』には、

三州和兵衛、義蔵、おみせ、おそのの同行、ほかに三河松林寺老師、普元寺老師が載っている。

『信者巡り』は、三田老人が播州の人ということもあり、多くの妙好人を輩出した山陽・山陰の同行を訪ねたのだろうと思い込んでいたので、東の方の同行(妙好人)を訪ねてと書いていて、三河の人々を訪ねていたことを知って驚いている。

この方々とは、帰ってから岡崎・刈谷の光景を思い出しながらじっくり対話しようと思う。