岡崎 土呂、 同行・妙好人
4日に岡崎に向かうが、『蓮如上人と伝承』(1998年12月25日初版発行)の「8 動物と龍女」のところで「大蛇が女人となって救済される話は、出口光善寺のほかにも、三河土呂旧跡(岡崎市福岡町)などに伝えられており・・・」と書いており、土呂旧跡の「蛇骨」の写真を載せている。
この冊子の元となる「おやま御坊」連載の取材のために岡崎を訪れ、この蛇骨のある「御堂山」や「上宮寺」を訪ねた記憶がある。
ノートを見ると1995年(平成7年)10月23日に逗子から東岡崎で降りて調査し、その日のうちに金沢まで行っている。上宮寺・蛇骨の記憶があり本宗寺さんの「蓮師・如光連座像」写真もあることを思うと、急いだ通り過ぎ調査で、どこへ行ってきたのか周りの風景が消えているのだ。それから24年、今度は泊まりがけでその地に向かうことになる。
それとは別に『三河の真宗』(昭和63年、真宗大谷派三河別院刊)を見ると、「土徳をおもう」というエッセーもあって、そのころすでに三河でも「土徳」を用いている。
仏教を生きた教えとして生活の中に活かし続けてきたためで、そういう人が育たなかったら、かつての仏教国に見られるように哲学か思想、学問の対象としてしか存在しなかっただろう(鈴木大拙師の中国で禅、日本で真宗が仏教を守ったとの説による)。
その仏教に生きた人々の手本を、同行とか妙好人という。
土徳の岡崎にも知られた妙好人がいるはずだ、と調べて見ると
妙好人伝に載る人々には、参州七三郎(「七三郎生涯記」あり)、三州利右衛門、三州その(おその)、三州梅吉がおいでる。三河のお園は著名で『妙好人千代尼』にも3個所にその名をあげた(が、このところ三河より「岡崎教区」で考えていたため結びつかなかった)。
また、播州の三田老人が訪ねた『信者めぐり』には、
三州和兵衛、義蔵、おみせ、おそのの同行、ほかに三河松林寺老師、普元寺老師が載っている。
『信者巡り』は、三田老人が播州の人ということもあり、多くの妙好人を輩出した山陽・山陰の同行を訪ねたのだろうと思い込んでいたので、東の方の同行(妙好人)を訪ねてと書いていて、三河の人々を訪ねていたことを知って驚いている。
この方々とは、帰ってから岡崎・刈谷の光景を思い出しながらじっくり対話しようと思う。