神仏判然期における民衆の仏教護法(一時避難)の動き
『真宗教化論ー習俗・民俗・文化ー』の項目を大筋作った。
その中には、調べたいことも入っている。
それらを調べていたらキリが無いので、今後の問題として一括とりあげれば・・・と取りあえず考えている。
その一つに、神仏判然令の動きがある。
これは明治元年、○慶応4年
など、人によってバラバラな用語が用いられており、
終息が明治8年、その間仏教は教部省下にあって、僧がおらず?(このあたりはチャンと調べはてはいないので思いつき)
大浜一揆をはじめとする護法運動が各地で起こった。
私が問題にしたいのは、民衆が関わった行事や、法座に具体的に何が起こっていたのかが、ほとんど問題にされてこなかったのではないか?ということである。
このことについては、かなり以前から
①権現系の祭りに変化のあったことを資料として用いてことがあり、
②盆踊りを調べている中で、説教因縁話(節談説教)が段物の踊りとして中身を変えて生き延びようとしたのではないかと考えられる例。
③最近報告された神社の絵馬に、親鸞伝絵が描かれている例など
いわば、お寺がなくとも別の場で教えを伝えようとした民衆の知恵があり、そのいくつかの活きた動きを知ったので、何らかの形で、仏教が最も混沌とした時期における動きを伝えておかなければ、と思っている。
もう一つ重要な変化に
④報恩講満座相撲と神事相撲の呼称における変化問題がある。
江戸期の口上は山王権現のいわれを詠み上げ、明治以降は高倉比古神社の由来が語られている。
この指定に当たっては、私が論を書き、狂言の出演者が多くなって調節がつかなくなった時、狂言の由来を書き、それを読み上げる役を作って乗り越えるなど、深く関わったことがある。
存在する資料は全て手元にあるので、視点を変えて整理することが出来る。
②は、「はいや音頭」という踊りが、門前町道下(とうげ)で踊られていた。出だしこそ「神国おさまる御代に・・・」だが、中身は節談説教の代表、長太ムジナ話である。
古い「長太ムジナ」の話しを神仏分離の頃に変えたものといい、この歌詞を見た時驚いたが分析はこれから。
ただ長太ムジナ話成立由来は、本に収めるので、何らかの形で触れることになる。
③は県歴博の戸澗幹夫氏が小松市史で絵馬調査をしていて、親鸞伝浄瑠璃の「華和讃新羅源氏」の絵馬を見つけられ、「加持祈祷排除の真宗なのに、どうして神社拝殿に真宗関係の絵馬があるのか?」の疑問と共に抜き刷りを送ってこられた。私は神仏分離の親鸞伝避難の一形態ではないかとお返事したのだが、①②④と共に考えれば、面白い問題提起報告になるのではないかと考えている。
これらは「今後」の一つとして一頁は割かなければならないだろう。