垂水の滝、桜滝
連休明けの好天。
気分転換に奥能登を巡ってきた。
まず
二つの滝、輪島・珠洲境の垂水の滝
門前の秘境・桜滝
漆芸美術館に寄ったので、つい芸術的写真を添付してしまった。
二つの滝の全体像が分からない。
とうことで、その全体像・・・。
に、は消し忘れ。板碑を見た記憶がないのは町史に扱っていないためのようだ。
※『伝説とロマンの里 石川県立飯田高等学校百周年記念誌』より
①20 麒山(きざん)瑞麟(ずいりん)和尚とひろぎ道
珠洲(すず)・鳳至(ふげし)郡境(ぐんざかい)は岩倉山が断崖となって海に迫り、行く手を阻(はば)んでいた。『能登名跡志』に、道三筋、いずれも能登国中一の難所とあってそれぞれの道筋の説明がある。
本道は岩倉越えといい、岩倉寺の腰から越える道で約二・八㌔ある。一筋は蓑捲(みのまくり)越えといい、曽々木の家の後ろから登って山の中ほどを越える。山はけわしく、石山がまるで剣のようで、下から吹き上げる風が激しく蓑(みの)などつけておられない。それで「蓑(みの)捲(まく)り」という。約一・四㌔ばかりである。もう一筋が「ひろぎとて道程六、七町(六百六十~七百七十㍍)ほどあり。ならびなき大難所なり」と記すように国中一の難所だった。
なぜ「ひろぎ」というのか説明していないが、「ひろぎ」は手を広げた距離をいう。手を伸ばして岩の一部をつかみ、足をはわせて、またその先の岩をつかむ。それを繰り返しながら岩場を越えたため、「ひろぎ」道といったのである。そのため、もっとも長い距離の岩倉越えを本道としていたようだが、海蔵寺(曹洞宗・片岩町)第八世麒山(きざん)瑞麟(ずいりん)が、安永九年(一七八〇)から寛政四年(一七九二)までの十三年の歳月をかけ、ひろぎ道開鑿(かいさく)工事を完成させた。それによって、ようやく、ひろぎ道も往来と呼べるようになった。開かれたとはいうものの、この工事で得られた道幅はわずか五寸(十五㌢余)で、片足の幅分だったという。
この時の募財(ぼざい)に協力した人々は、藩郡(こおり)奉行・槻尾(つきお)甚太夫をはじめ、輪島市、金沢、羽咋(はくい)市、志賀(しか)町、七尾東海岸から富山にかけての寺院や船主などで、広範囲の募財(ぼざい)だった。この時の募財帳「募縁序」には、「珠洲鳳至の領境(さかい)に険難(けんなん)悪道有り。衆生此処(ここ)において命を捨つるもの多し。嗚呼(ああ)痛ましいかな…」とある。
あまりの難工事だったため、地元ではある伝承が語りつがれてきた。
『輪島の民話』によれば、工事の完成まであと少しという所で、人の力ではどうすることも出来ない大岩にぶつかってしまった。人々が絶望で悲しみに暮れていたとき、八世は、こっそりとオランダ人を連れてきてお寺の地下室に隠した。それからまもなく、村に噂(うわさ)が広まった。京都の鞍馬山(くらまやま)から大天狗・小天狗がやってきたそうだ。浜に赤い旗が立つ夜には、天狗さまが祭りをするそうだから、家にジーッとしてなければならない…と。赤い旗が立った晩、村に大きな爆発音が鳴り響いた。皆、驚き震(ふる)え上がって布団(ふとん)の中で小さくなっていたが、ソーッとのぞいた者は、見たことのない幕(まく)(マント)が翻(ひるがえ)るのを見てあわてて目をつむった。翌朝音のした工事現場付近に出てみると、大岩が粉々(こなごな)になっていた。工事を始めて十三年。ご禁制(きんせい)の火薬を用いてまで工事を完成させた八世を、いつまでも忘れないようにと、トンネルに「八世(はせ)隧道(ずいどう)」と名付(なづ)け、曽々木側には麒山(きざん)瑞麟(ずいりん)像を安置した。
トンネルの上、ハセのてっぺん部に、きれいな真砂(まさご)が敷かれた平らな場所がある。鞍馬の天狗が休んだ場所だと伝えられている。
[写真2枚]海からの曽々木の険阻、麒山瑞麟石像
平成24年(2012)10月21日刊 西山執筆