蓮如忌準備 資料
内容
蓮如忌資料 西勝寺 二〇一九年(平成三十一年)四月二十五日
西勝寺往昔本尊(写真) 文明十四年辛丑三月廿五日 方便法身尊像 能州太田郷飯田町 願主釋尼祐
蓮如上人鏡の御寿像 小松釋良誓(西勝寺) 祐玄 祐應 円誓・専光寺寺務補佐 祐信遠劫ノ宿縁ニヤ当寺第八世
蓮如上人六十七歳之尊像※文明十三年(一四八一) 吉崎ニ御化導ノ上人ニ御対面ノ思ヒヲナシ・・・
伝蓮如上人筆和歌二首
我なしときかハやかてもみな人ハ南無阿弥陀仏とたれもたのめよ
命なからう
八十まてみてる命の老らくの月の長夜をまつや彼岸
・朝の名号
御文 蓮如上人 実如上人 円如上人 証如上人 証如版「御文」
句仏上人(第二十三代、彰如、号愚峯)句
聞法に貧者は尊し 御講凪
勿体なや祖師は紙衣の九十年 散る時が浮かぶ時なり蓮の花 口あいて落花眺むる子は仏
慧琳弟子書
横川巴人書画 巴人(~昭和四十四年)の甥、中村禎雄旧制飯田中学校初代校長
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蓮如さんが吉崎にいたころ、金津に与三次という農民がいた。夫婦ともに蓮如さんの教えを受けて、無二の信者となり、毎日吉崎へお参りしていた。与三次の老母はこれを心よく思わず、ある夜途中の谷に隠れて、息子夫婦が吉崎から帰ってくるのを待った。
ところが、その夜は嫁だけが念仏をとなえながら、先にひとりで帰ってきた。老母は神社から持ち出した鬼の面をかぶり、白髪をふり乱してとび出し「われこそは白山権現のお使いである。お前ら夫婦は蓮如という坊主にだまされ、野良仕事もかえりみず、母親のいさめにも逆らい、毎日吉崎へ通うという悪事をおかしている。われは白山権現からお前たち夫婦をこらしめるようにとのお告げをこうむり、ここへ来たのだ」と言おうとしたが、嫁は鬼の姿を見ただけで恐れをなし、老母がまだ口を開かぬ先に逃げていってしまった。
嫁をおどすことに失敗したので、今度は息子をと思い、また谷に隠れていた。待つ間は鬼の面を脱いでいようと面に手をかけたが、どうしたことか、顔の肉が鬼の面にしっかり食いついていて、ひっぱっても取れない。
これはほんとうの鬼になってしまったのかと、老母はなんともしようがなくただ泣くだけであった。
そこへ息子の与三次がもどってきた。谷で女の泣き声がするので、怪しく思って近づき、わけをたずねた。老女は「あさましや、わたしはお前の母である」といって、涙ながらに事の次第を話した。
話を聞いて与三次も涙を流し「この世はそれでもよいが、永い未来はどうなさるか。弥陀の本願は悪人の済度にあるのだから、ただちに上人にお目にかかって教えを受けなさい」とさとして、母をつれてまた吉崎のお堂に引き返した。
老母は蓮如さんの教えを聞き、前非を悔いて念仏をとなえたところ、面は落ちた。しかし顔の肉は、先に無理に面を取ろうとした時に破れて、醜い顔になっていた。蓮如さんの御文に「極楽に参りて美しき仏になる」とあるのは、この老女に下された言葉である。
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五 女人と御文 『蓮如上人と伝承』
(前略)本願の促しの道を歩むのに、たとえ命が狙われようと毅然と有り続けたい、と決意なされたこの頃、当時、最も仏法から遠いとされていた女性の参詣が、際だって目立つようになってきた。
この年の三月には、吉崎の繁盛ぶりが、とりわけ「信心」が説かれることによる、と伝え聞いた高貴な女性たちが、吉崎に出向いて「信心についてお聞きしたい」と願い出た。聴聞を終え、「まさに女人を目当てとでもいうべき弥陀の本願でございますのに、今まで信じてこなかったあさはかさ…。今後は、如来の方から御助けがあったのだと信じ申し、その後の念仏は、仏恩報謝の称名であると心得て参ります」と、有難さの余りに涙を浮かべながら帰っていった、という話が、御文の第一帖目第七通に載る。
同じ月の二〇日には、有名な「嫁脅し肉付き面」譚が起こる。夫婦そろって吉崎詣でに出かけるのを快く思っていなかった老母が、嫁が一人で帰ってくることを知ったその夜、在所の白山神社から持ち出した鬼面をつけて脅そうとする。「喰めば喰め、食らはば食らへ、金剛の他力の信はよもや食むまじ」の歌を残して嫁は逃げ去り、鬼の面は老母の顔にくい込んで取れなくなってしまう。『歎異抄』第一条の「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに」と通じあう「喰めば喰め…」の和歌を、恐怖のただ中にありながらとっさに詠じた女性と、鬼となり他の神仏を利用してまで聞法の人を妨げようとした老母とでは、その心根はあまりにも隔だっている。この老母に対して、上人は厳しい自覚を促す法話をされた。それが、第五帖目第七通の御文になったといわれている。
さらに、先に登場した高貴な女性たちは、白山の比咩神と他の神々であったという伝承があり、白山神社の面をつけることができた立場の老婆をも合わせ考えると、これらの伝承は、女人が救済されていく話であると同時に、在地神と深い関わりを有する女性たちが、一挙に真宗門徒となっていった様子を物語っている話とも見なせるのである。
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肉付面 『奈良県吉野郡昔話集』
あれは、信州の方と違うかな。牛に引かれて善光寺参りとかゆう時、そんな話あったような気しますな。お寺さんで聞くんやね。説教師が来られた時にね。お嫁さんと。その仲の悪いお嫁さんがね、信心家でお寺に参っとって。ほして、来たら道帰ってくるのを脅かしていたらもう縁は来ない、と思って、隠れて出てったら、お嫁さんが脅かした。その罰に面が顔に付いたんが取れなんだんて。肉付面ゆうてな、その面が引っ付いたんやってゆうことは、お寺さんでオッショさんに聞きましたよ。 (天川村 森脇スエ)大字栃尾 明治27年10月10日 栃尾出身
肉付面
あの、なんのなあ。越前のあれは聞いたけどなあ。越前の国のお寺、永平寺か。そこで、嫁さんが信心してお寺参りするのに、そのお婆さんがそうゆうの嫌いで。そしてあの、お寺参り参って。で、嫁さんが寺へ参んの邪魔しようと思って、鬼の面被って脅したってゆうたなあ。そしたら、それが取れないんで、それ肉付いたら剥げて、それで肉付の面てゆうて、永平寺にあるってゆうことは聞いたけど。越前の永平寺ってゆう所(とこ)。(天川村 中谷よしえ) 大字坪内 明治35年1月6日 坪内生
『蓮如さん 門徒が語る蓮如伝承集成』
嫁おどしの伝説には二つの型ある。一つは、夫婦ともに信者で、老母は夫婦が吉崎から帰る途中でおどかす。『二十四輩順拝図会』や『越前古跡拾集記』それに吉崎の西念寺の縁起はこの型である。本稿は『越前古跡拾集記』による。
もう一つの型は、夫や子供が死に嫁だけが残って無常を感じていて、老母は嫁が吉崎に行く途中でおどしている。吉崎の願慶寺および山十楽の浄林寺の縁起はこの型に属する。
『二十四輩順拝図会』では、老母が嫁をおどしたのは文明四年(一四七二)三月二十一日(二〇)のことであると言っている。浄林寺の縁起では、夫の与三次は文明三年(一四七一)九月十四日死亡、行年三十九歳、嫁おきよ、丹波の人、三十三歳、老母はおもと、樋山の人、七十歳と記している。樋山は現在の金津町である。
蓮如上人は、後世の戒めのために、その面を願慶寺の祐念に与えたといわれ、さらに吉崎寺にももう一面の般若面が秘蔵され、ともに本物の嫁おどしの面として信者たちに見せている。
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