FB 2月24日(日)より  一寺庵の歴史・文化

近くの御住職が91歳で還帰なされた。お弔いにうかがった。
私たちの所では、お寺同志のお弔いは、「正信偈」舌々(ぜぜ)、短念仏、回向(えこう)。
哀悼の思いとかの個人的なことはおいておいて、初めておじゃました元道場の本堂ー民家と変わらない造りなのだがー安置の法宝物を見て驚いた。
親鸞聖人真向きの御影ー遠い昔、厨子にお入れして地域を巡った可能性がある。
顕如上人画像、蓮如上人あるいは実如上人六字名号、いずれも大幅。...
お勤めしていると、御代さまたちと距離が近いため包まれるような感覚と、東西分派以前の道場があるとすれば、これに近いのかも知れないとの思いを抱いた。
顕如上人は本願寺第11代で、次の教如上人、准如上人の時から東西本願寺に別れている。

能登北部には、一山(いっさん)と呼ばれる3カ寺体制があり、このお寺は天和三年(1683)に寺号を名乗っている。それまでは、賀信坊・加茂坊と称したという(昭和53年刊『珠洲市史第2巻』個別寺院誌より)。

一山(いっさん)体制

すぐ側に、主寺(おもでら)とか本坊と呼ばれるお寺があり、その山号が「仏石山」であり、このお寺も仏石山の一坊(寺)とみればいいはずだが、一山の意味・歴史が分からなくなり、市町村史などでは山号なしとしている。

私は、今、いわゆる神仏分離令が発令されたとき、公務・声明・法話をそれぞれに担う三カ寺体制を作り、出来るだけ廃寺を少なくしようとしたのではないか、そして、そのまとまりを一山と呼んだのではないか、と考えている。明治8年信教の自由によって、一山寺院以外も全て残ることが出来たが、その経過を物語り、その仕組みが濃密に残っているのが、藩政期の奥郡(鳳至、珠洲郡)だったのではないだろうか。
教区議長をしていた時、門徒戸数問題に取り組み、3戸門徒、0戸門徒寺があり、月参りやお墓参りなど実質的な門徒さんとのふれあいはそういったお寺のほうが濃密だ、と説明したことがあったが、口郡の方々は、どうしても理解出来なかった、と今でもおっしゃられる。
一山の意味は、その後も考え続けてたどりついたもので、また明治以前についても、ある見解を持っているのであるが、
それはそうとして、まずこれらの法宝物が「珠洲市史」に載っているかどうか確かめてみた。

同じ2巻に「歴史考古資料編」があるのだが、載っていない。多分、元道場ははじめから調査対象から外れていたのだろう。
載っていれば、写真を転載しようと思ったのだが出来ない。
昨日、お寺に入るなり、エエッ!と声が出るくらい驚いたのも全く表に出なかった法宝物だったせいでもあったのだ。

いい御姿に出会わせていただいた。

私のところは、今日から「春勧化」。