FB 2月16日(土)より   春勧化 御消息 天明7年11月18日 

2月16日(土)

「春勧化」拝読御消息

かつての手紙類を整理していたら、名古屋の羽塚孝和さんの便りに、名古屋(尾張)では、御座とか御消息は死語になっています、というのがあった。
蓮如上人500回忌お待ち受けの時、金沢別院でお話ししたことがあったが、その時のテーマーが「講」の復権だった。
その時、三河出身の本山担当者も聞きにこられ、三河には、門徒宅を回るような「講」(相続講)がないので、どういうことをするのか知りたいから参加したとおっしゃていた。...
こちらからは、「在所御座がない」ところがある方が不思議だったのに、現今の変化は、夜、御座があることが珍しくなっている。

これもだいぶ前だが、本山から声明指導においでた方に、大先輩(故人)が、御消息の最後に、漢字が並んでいるけどどう読むのかとお尋ねになられた。
その講師の方は「御消息」って何ですか?見たことないので分かりません…だった。
その時、私は、教義を門主名で出すのが御消息だから、ご本人がおいでる本山に「御消息」があるわけがなく、すなおにお答えなさっている、と思った。
先輩が質問した漢文の読み方を知ってはいたが、その人は当地区の声明の指導者でもあり、よく勉強しておいでるからこそ質問をなさったのである。
当時はまだ若く、若造が物知り顔で説明するのもどうかと思って黙っていた。

このような伝統は、どこかで活字化しておかないと、なかったことになってしまう。
ちなみに吉川弘文館の『日本民俗大辞典』を見ても「御消息」には全く触れていない。
近くの語の見出しである「御真影」は、天皇だけの説明になっている。
親鸞聖人「御真影」のあるところが「本願寺」で、吉崎には8世住職蓮如上人がおいでたにも関わらず、吉崎本願寺でなかったのは、吉崎には「御真影」がなかったからである。
仏教においての、「眞影」は極めて重要なのだが、決定版の民俗大辞典に説明がない。

話を戻して、御消息の漢文とは「右如蓮如上人文可有信心決定事肝要也」とあるもので、蓮如上人の「御文」そのままを「御消息」にした、いわゆる「御文御書」の決まり文句である。現在、大谷派が発給する御消息はすべて御文御書である。

それに対して、当寺の「春勧化」で用いてる御書は、御文御書に対してお巧み御書と呼ぶもので、その時々に作成された教義文面の御書である。
この御書の内容が、すごくいい。
発給年月日は乗如上人代の天明7年11月18日。
この日からほぼ70日後、天明8年1月30日の京都大火で本願寺も焼失。復興の歩みが,詰所、歓喜光院殿(乗如上人)御崇敬につながっていく。

再興にかけた門信徒の情熱が、この御消息から窺える歴史的な御消息だと思っている。
このような教えが、津々浦々に「御消息」を通して行き渡っていたのであれば、全国各地から本願寺再建に向けて人々が駆けつけたのは、まさに宜(むべ)なるかな―である。

「乗如上人御消息」本文

わさと筆を染さふらふ、
しかれハ、そのもとにをいて連々講をとりむすはれさふらふよし、
またく法義相続のもとひと神妙におほえさふらふ、
抑、当流聖人の勧化のをもむきは、信心をもて本とせられさふらふ、
されハ、わか身は造悪不善の凡夫なれとも、
不思議の誓願力によりて、やすく浄土の往生をとくるなりとふかく信して、
さらにつゆ・ちりはかりも本願をうたかふこゝろをましえす、
一念帰命したてまつれハ、弥陀如来ハよくその機をしろしめして、
无碍の光明におさめとりてすてたまハす、
この世のいのちつきのれハ、あやまたす浄土におくりたまふこゝろを、
すなはち南無阿弥陀仏とはまうすなり、
また経にハ、光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨とハのたまへりとしるへし、
さてその信心といふは、
すなハち弥陀如来の御かたよりさつけまし[繰り返し記号]たる他力の大信心とおもふへきなり、
なをこのうへにこゝろうへぎやうハ、かやうに弥陀に帰命する一念の信心によりて、
往生治定のうへには、行住坐臥に口にまうさんところの称名は、
われらか一大事の後生をやすくさためたまへる
弥陀大悲の御恩を報尽まうす念仏なりとこゝろうへきものなり、
あなかしこ[繰り返し]
天明七年十一月十八日釈乗如(花押)
専光寺下能州
珠洲郡飯田町
西勝寺
十四日小寄講中※原文読点なし。

※父の代のある時期まで、拝読し終わると「ギョメイギョハン」と言って、左右の手をさっと交互にして、聴衆に「釈乗如(花押)」を見せたものである。
いかに講宛の(本物の)御消息を受けるにいたるまで苦労があったかを物語るもので、本物に間違いないことを示す所作だった。
そのあと文字面を向こう側にしたまま、両脇をしめ、御消息が衣の袖にとどまるようにしたままの状態で、巻き戻していく。
左右ではなく上下の動きの巻き戻しである。
「ギョメイギョハン(御名御判)」作法はやっていないが、巻き戻しは伝統に則って続けている。
文の文字を向こうに向けるのは、息を吹きかけない為だと聞いたが、
巻き戻しの短い時間ではあるが、当時の素晴らしい書を皆さんに感じ取っていただきたいのと、
天明七年から230余年、
しわぶきなどによって文字がにじんだりすることがないよう、「息をかけない」という言葉で語られているのだろう、と私なりに解釈して、この作法は続けている。

この文はhttp://d.hatena.ne.jp/umiyamabusi/20170225/1487982604
=2017年2月25日のブログ記事「春勧化 御消息」を元に少し書き直したものです。
[写真]
「春勧化」拝読「御消息」。乗如(歓喜光院)上人、天明七年(1787)11月18日発給。
京都大火で本願寺が焼失するおよそ40日前に届いた「御消息」。

写真の説明はありません。
 
  • 金剛圭樹 今はもう御講も葬式後の御座も無くなりましたが、こちらでは『ゴメイゴハン』と言って見せてました。巻き戻しは巻いてる間、間が空くので係りの方が下げてから控室で巻いてました。葬式の終わった夜に必ず御座があり、それが苦であり、喜でもあった頃が懐かしいです(笑)やっぱり自宅で通夜、葬儀をしなくなってから無くなりましたね〜
     
  • 西山 郷史 「御名御判」ですね。地域間、一カ寺ごとに風習の違いがありますね。葬儀でいえば隣の組のあるお寺では、49日間七日ごとに御座があり、お説教がありました。これだけでも年から年中、御座お説教です。絶えず勉
    強してお話しだけを担う人(布教僧)が必要でした。金剛さんのおいでる口郡(口能登)には426、私の住む奥郡(奥能登)には406の村があったのですから・・・特に葬制は谷ごとに違うといわれているくらい、違いがありますね。