FB 2月11日(月)より   あすありとおもふこころの・・・碑文物語

2月11日(月)休日

明後日夕刻から、志賀町で「御崇敬」についてお話しすることになっている。対象は僧侶の方々。

御崇敬を担ってこられた同行の方々のお顔を思い浮かべていると、「明日ありと・・・・・・」の和歌が付かず離れずに浮かんできた。親鸞聖人出家時の歌として名高いこの歌については、『妙好人千代尼』においても、

 「多くの伝親鸞作の中でも名高いのが、九歳の出家の折に詠んだとされる...
  明日ありと 思ふこころの あだ桜
     夜半(よわ)に嵐の 吹かぬものかは
でしょう。

この場面を、『親鸞聖人御一代記図絵』(一八六〇)では、出家を決意した範宴(=親鸞、はんえん)が、伯父(おじ)・範綱(のりつな)に伴われて粟田口(あわたぐち)青蓮(しょうれん)院の慈鎮(じちん)の元をたずねたとき、慈鎮は、まず俗体で九カ年のあいだ学問に勤め、その上で学業試験を行います。よく出来て答えが速やかなときは官に申請し、出家得度の許可証である度牒(どちょう)を受け、その後、剃髪(ていはつ)することになっています。けれども、幼い身での殊勝な志に免じ、明日髪を剃り落としましょう、と得度を許可しました。

 範綱は、その厚意に深く感謝しますが、親鸞は「明日ありと…」の歌を懐紙(かいし)に認(したた)め、範綱の前に置いて、老少不定(ふじょう)、生死(しょうじ)無常の世の中ですので片時も早く剃髪(ていはつ)したいのです、と願います。

 慈鎮はこの和歌を見て感嘆し、その場で得度式が行われました。同書には、養和元年(一一八一)三月十五日のことです、と記しています。

この歌は、高田本「御文」(高田本誓寺十帖「御文」)第四帖第十三通、文明七年(一四七五)二月二十五日条に

  あすみんと おもふこころは さくら花
       よるはあらしの ふかぬものかは

と書き込まれているのが古く、

 『御絵伝教授鈔』(一七七三)、『御伝鈔演義』(一七七四~九)、『親鸞聖人絵詞伝』(一八〇一)などの諸本には、少しずつ違った和歌が紹介されています。『釈教玉林和歌集』には、

  あす迄と 思ふ心の あだざくら
      よるはあらし のふかぬものかは

とあって、和泉式部作となっています。

親鸞の先に生きた人で、無常を知り、明日ありと…と詠めるほどの歌人は、和泉式部をおいてほかにいない、とされていたのでしょう。」

と書いた。

 昨年珠洲にお越しになり、一緒に旅をした本願寺派勧学・林智康師からは、間もなく、林智康「蓮如上人と御詠歌」(「真宗学」93号)、土井順一親鸞聖人の出家得度時の詠歌」(「龍谷大学論集」第452号)、中路孝信「親鸞聖人出家得度時の詠歌の形成」(『日本浄土教の諸問題』)などの抜刷を送って下さった。こんなに立派な論が出ていることを知らなかったので、いつか私なりの問題意識でじっくり読みたいと思っているのだが、今、同行さんとの関わりで記すのは、

戦前、青蓮院にあった「明日ありと・・・・・・」碑文の数奇な運命である。

 結論から言えば、供出されて軍需品になるはずだった銅板歌碑が、中能登町高畠に聖人像と共に飾られているのである。http://d.hatena.ne.jp/umiyamabusi/20060713/1201088094=明日りと・・・・・・碑。

「あ寿阿りとおもふこゝ路の阿多佐くら
よ者にあらしの布かぬもの可は」

歌碑の由来(文) 

「宗祖親鸞聖人は 高倉天皇の承安三年四月一日 
藤原氏の一門日野有範卿とお后源氏の吉光女との長子としてこの世に世を受けられ
幼名を松若丸と称した 
然し 幼少にして父君とは生き別れ 
八歳の時に母君とも死別の憂き目に遭われるのであった 
遂に九歳の春出家得度を志し 
伯父範綱卿に導かれて粟田口の青蓮院の門を叩くこととなったのである 

時は将に春の夕刻であった
深く頷きつつも明日改めて出直してくるようにと諭された慈鎮和尚様に対して 
今を盛りと咲き誇る境内の桜を指さして詠まれたのが 
この歌だったのである

果てしなき無常の嵐が吹きすさぶ人生の荒野 
その荒野のただ中で真に安んじて生きることのできる道を開顕せられた
わが聖人の御教えは 
いつの世にも 
いかなる世にも 
光となって輝いていくことであろう 合掌

当碑は 御得度地を記念して
青蓮院の境内に建立されてあったが 
太平洋戦争末期にこの銘板が兵器製造に処せられることとなり 
国家に強制没収された
まもなく敗戦を迎え 
偶(たまたま)幸いにも難を免れて返還されたのであるが 
青蓮院には既に代りの碑が建立されてあった為に 
江州中郡詰所がこれを譲り受け今日まで護持するも 

今般故あり
同詰所の依頼によりこの地に移転 
安置する運びとなった次第である

 平成十四年十月
       真宗大谷派宗議会議員 壁屋一郎
       徳照寺住職 釋 欽恵 記述之」

壁屋さんがおなくなりになり、石見亮吉さんが、あとを継がれた。

 『妙好人千代尼』の後書きに、真継伸彦さんのことを書いたあとに、石見さんに触れている。

「同行の長老・石見(いしみ)亮吉」さんも平成二十六年にに帰って行かれました。門徒研修会の締めの挨拶に、「今日の午前中、初めてウグイスの声を聞きました。ホーホケと鳴いて、三度その声を聞きましたが、三度目もホーホケ・・・・・・で、ホーホケキョと鳴けないのです。

 それを聞いておりまして、私のお念仏も、南無阿弥陀、のままでとどまっておるのではないかと、思いました。この年になるまで、聞いても聞いてもホーホケ、南無阿弥・・・・・・。

 これからも・・・・・・陀仏とうなずけるよう、聞法して参りたいものと思っております。」といった挨拶を、柔らかな笑顔のままなさる方で、私は妙好人をこの方に見て来ました。」

もったいない出会いが、次々に浮かんで来る、父の命日の午後。

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