FB 2月4日(月)より  神仏判然令の頃

神仏判然令、神仏分離のころに、廃仏毀釈の動きから一時避難を試みた資料に気づきだしている。説教に語られた「長太むじな」話が、民謡「はいや」となって、神国を全面に出した歌詞に変えて残したりーほとぼりが冷めれば、元の「たのめ!彌陀の本願」に還るはずだし、加賀の方では「華和讃新羅源氏絵馬」が奉納されたりしている。もし寺がなくなっても、村堂で、浄瑠璃場面をみながら、「白骨の御文」場面を語ることが出来るように、後世に伝えようとしたのでは…と考えていくことが出来る。

30年前の一向一揆500年の頃、白山権現廃仏毀釈がよく話題になった。観音・彌陀浄土白山山頂付近の仏像は、下山仏として、白峰・尾添に安置されているが、野辺の地蔵などが破壊された。
それを理論として指導した人物、幕末期の著名な郷土史家の名が取りざたされたのである。...
そんななか、お孫さんかなにかに当たる女性の方が、たしか、家は真宗門徒で廃仏をすすめるような人ではなかったと訴えておられるー、とその方の身近においでる民俗研究者から聞かされた。

一向一揆を語るとき、廃仏に関わったとされる、その人物の名を知っていて、批判めいた口吻で語ることが、一種のステータスだった。
そういう風潮のなかで、声をあげることの出来ない、ご子孫がいる…。こわいと思った。

一方、徹底的に破壊したエリアがある。新政府になったところで、あるいは年号を変えては天災・飢饉を豊穣にしようと思っても、自然は自然の流れを変えるわけがない。
寺院合祀、修験の廃止から数十年で神社も合祀しなければならなく、海外にも開拓地を求めならない状況、言い換えれば、新たな為政者にとって一揆・打ち壊しのエネルギーが、いつ自分たちに向けられるか分からない状況が続く。
 そのおそれがカラダに感じられる地域ほど、目をそむけるために徹底的な廃仏を行った。ええじゃないか、ええじゃないか、ボレ、コワセ、ボレ、コワセ……。だったのだ、と、今は、そう考えている。

その典型の廃仏の地、隠岐へ、大谷へ行って最初の国史研修旅行でついて行ってきた。五来先生が国分寺の歴史などを語ってくださったはずだ。
そのときの仏像が、国分寺に残っていたのだが、2007年(平成19年)2月25日、本堂が焼失し、すべての仏像類、面なども焼失した。
そういえば、研修旅行で撮った写真があるはずだと探しだし、翌日のブログ「能登のうみやまブシ」に載せた。
以下は、その写真である。
私は、国史の先輩や学生たちが写真を撮っているのをまねて研修旅行はとは、こういう写真を撮るのか!と見ようみまねで撮ったので、焼失した仏像類の写真は、皆持っているのだろうけど、ブログで紹介した人はいない。

間もなく、学習研究社から写真を使わせてほしいと連絡が入り、国分寺近くの焼火神社宮司さんからは、神社にある像は見ていますが、写真に撮ったのを始めてみました。私も写真に撮りますとのコメントが、2007年2月26日のブログに入った。

今、ブログの更新が出来なくなって辞典代わりにメモしていた下書きが使えなくなってあせっているが、さらに、ある時に消える、という日が予定されていて、移動しておいてくださいと連絡があったのかも知れない。そのあたりが、分からないので、貴重だと思う写真を適宜こちらに移していく。

神像・脱衣婆は神社。
邪鬼は神社だったか?なんせ39年前のことなので…。

仁王像の次の写真は、学研が『天皇の秘教』(藤巻一保著、2009年2月刊、本体4200円)に用いたページ。写真説明には次のように書かれている。
「廃仏殿釈が激しかった地方のひとっ、隠岐国分寺の仏 像群。

明治2年、庄屋・神 官層によって寺が急襲され、 昨日まで信仰の対象だった当寺の仏像は、首や腕がもがれ、ゴミのように放置されたという。

写真はのちに その一部が回収され、寺院 内に安置されていた様子(昭和44年)。

この状態でそ の後も保存されていたが、2007年の本堂火災でこれら も灰燼に帰した。(撮影= 西山郷史)」

その次の表紙本、背表紙。本棚に、ちょっと異質な本がドーンとある。

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