『同朋』4月号

添付と、文章を合わすことができないのでそれぞれに載せていきます。

 

※タイトル=句集『春暁』部をクリックしてください。

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月報一面。すごい標語が載っている。「こう考えている限り」とお書きになり「かぎり」に変えておいでる。直接お会いしたことがないわたしでも、おそらくそこから平野師にであっていけるのだろう。、

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引用の原典『平野修選集』第一巻の月報「一一のはな」を探した。なんとご本人自筆を載せたものだった。

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松本梶丸著書。松本さんには歴史学者の金龍静さんと一緒に松任の御自坊におじゃまし調査した際、お話しを窺ったことがある。

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母が俳句を詠み、『同朋』に投稿しているので『同朋』を取っている。

 

 

 本文

今月号では次のことばが、今朝のわたしの理解ごころに響いた。

「真実に会えば、人は目覚める。人はやさしくなる。この道理を 南無阿弥陀仏という。」平野修

(『平野修選集第一巻』月報「一一のはな」)

 

 

「泥の中から 蓮は花咲く そして 宿業の中から 僕は花咲く」(岩崎航「日付の大きいカレンダー」)

 

『生命の見える時-一期一会-』(松本梶丸)の引用にも頭が下がった。

 

もう一つ「我が子の死」(『西田幾多郞随筆集』岩波文庫)。

とらえ方はおいておいて、このような文がある(見た)記憶がなかった。本はあるのでサーと読み直したが、哲学的だった。

その中のワンセンテンスをとらえ、いいと紹介する筆者(今手もとに『同朋』がないので、著者名がかけない)の感性がすごい。

 

それで、『日付の大きいカレンダー』と『生命の見える時-一期一会-』を古本で注文した。