たずねびととの出会い。白峰~小木、板谷みどりさんの思い出。
※タイトル=板谷みどりさんの「おもいで」部をクリックしてください。
かつて白峰村西山の望岳苑を拠点に講演をしたり、信仰の道や文化財巡りの講師を務めたことがあった。
そのころ、新聞紙上で「他力本願」論を書いたりしていたこともあって、白峰の地蔵菩薩散策の折、一緒に歩きながら、真宗の教えを訪ねられた、確か金沢からおいでた方がおられた。
その頃の私は、若くて健康そのもので多くの仕事を次々引き受け、生苦・人は悲心の器(往生要集)にまで深く考えることをせず、カラカラとした対話を続けてお別れした。
その方(かりにAさんとしておく)は、まもなく福井県の勝山か大野あたりに移り住むのだ、とおっしゃっていた。
その後、私は僧として様々な別れに出会い、教えを聞き、たとえばハンセン病だったご夫妻と一泊研修などをする中で、白峰でのAさんの問いが、沈んでいたり浮かんだりしながらだんだん胸の中に広がり漂い続けるようになっていった。
そして、あの時私が話した内容は違うというか、もっと様々な観点から問わなければならない、その喩えをいくつか用意出来るようにもなっていた。
なんとかもう一度お会いして伝えたいと思うようになった。
が、残念なことに望岳苑は別な組織となり、当時のスタッフはもうおいでない。
私は『妙好人千代尼』を書く機会に恵まれた。
そのかなりの部分を、Aさんに伝えることができればと考えながら書いた。書かなくてはおられない何かがキーを打ち続けた。
Aさんは、おそらく私の名を覚えておいでるだろう。
Aさん!あなたの問いを問い続け、今、わたしはこのようにいただいています・・・と書いたのだ。
もし、本を目になさることがあれば、連絡が取れるよう、連絡方法のすべてを載せておいた。
発刊から1年以上経ったが、連絡はない。
一方で、研修の企画をたて、参加者一人一人の手を取るように案内され、一緒に山に登り、飲み、時にはテレビ・携帯を離れた時を過ごすために望岳苑に泊まった私たちに、親身になってお世話をしてくださった―背戸さんが、望岳苑が別組織になってから、どこへ行かれたのか分からなくなっていた。
白山を目の前にした自然の中で、多くの時を共に過ごした背戸さんには、Aさんとは別の意味で『妙好人千代尼』をお渡ししたかった。
ひょっとしたらAさんの情報を少しでもお持ちかも知れないし、
飯田高校の卒業生でもあり、すぐ分かるだろうと簡単に考えていたのだが、
白峰のどこで聞いても、文学風の決まり文句で言うなら「杳として行方知れず」だったのだ。
それが、この7日(日)に
を通して、「去年小木公民館においでましたよ」との情報が 入ったのだ。
公民館が開く火曜日電話を入れたら、電話口に本人が出られた。
信じられないので何度も質問を変えて、ご本人であることを確かめ、すぐに公民館に向かった。
Aさんは青山さんという方だったことも分かった。
元気にしていれば、この先どこかで会えるかも知れない。
思い出話に盛り上がっていると、公民館を訪ねてきた2人組の女性の1人が、ニシヤマサン?といった。
私も、すかさず○○?といった。
高校1年の時の同級生だった。
俺たちはノキャというのに、小木の子はニャーというんだよなとか、15歳に戻って盛り上がった。
よかれと思って行動することが、その通りに受け入れられて広がる笑顔、
よかれと思ってやることがいやがられることもある、娑婆
その分かれ目は、蓮如上人がおっしゃる語れ語れの世界があるかないか、なのだろう。
語る世界が広がれば、争いはなくなるはずだ。
ひとはみな、「悲心の器」(同志)なのだから・・・。
はじめの引用は、ナビで公民館を調べるために止まった九十九湾口。
近くに故板谷みどりさんの家があるはずだ。
家には気づかなかったので、このあたりだと思えたところで、こころの中で手を合わせ通った。
その板谷さんの思い出の記事。