サノボリ、青二十日-中島西谷内-

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西谷内・国造山

     左手建物の上あたりに国造神社があるそうだ。

 


今日は4月8日、花祭り

その日に当てたというわけでもないが、「十組同朋会推進員会」の新役員の方々と、おそらく十組だけ勉強会が続いている経過、内容、勉強会準備(テーブル・椅子運び)、案内の仕方などについて話し合いを持った。

4月は蓮如忌があるので、勉強会は休みにしていることについて、4月・5月は田・畑仕事があってその方がいいとのことだった。花祭りで白象を引いて、昔々三千年・・・を歌って町を歩いたこと、甘酒をもらえることが楽しかったことなど

少年少女にもどっての話が続いた。

田仕事関係で、「青二十日」について書く。

相続講を調べていて、中島町史資料編上』(平成7年刊・P816)に
「田休み期  六月二十四日は釶内(なたうち)地区の大御講、昔はいわゆる青二十日の二十日ないし二十三日に行われていた。」と書いている。

書いた自分が「青二十日」という語を初めて見た、と思った。

書いたのは私だから、初めてのはずはないのだが、どういう日なのか見当がつかない。

『年中行事辞典』東京堂出版)を見ると、

「石川県鹿島郡で旧暦五月二十日。この日虫よけを行う。」

と出ている。

中島の虫送りは、「足がヒョイヒョイしてならぬ・・・」と唄われる国指定民俗文化財「熊甲二十日祭」の太鼓と同じリズムの太鼓だが、その頃・虫送り頃のことを青二十日といったらしい。当然田休み・御講日に相応しい日だ。

これらの様々な要素をひとまとめにして「青二十日」という語がある。

本当に、昔の人の知恵に感心する。

町史では、この日は「サノボリ」の日と書いた。
サノボリは西谷内・国造山と関連する行事で、しょっちゅう 西谷内におじゃましているのに、その国造山を思いつきもしなかったた。それが、この3月18日、西谷内におじゃまし「青二十日」について和田先生にお聞きした折、見送りに出られた先生が、あれがコウクウゾウ山だとおっしゃった。

中島のサノボリ行事については町史に虫が峰(釶内山)の例を写真入りで載せたため、西谷内国造山の行事については記憶から飛んでいた。

それが、急にしかも目の前に個性を持った山として現れたのだ。

 

 

 サノボリ 中島町史資料編上』P775
 田植後の五月上旬に行われる町屋地区の穀造祭、西谷内地区の虚空蔵(国造)山で行われるコクゾウ皐月上がり、別所の山登りなどがあり、注目される。
町屋の穀造祭りの例でみると、全戸数田植終了後の日曜日に虫ケ峰(釶打山)に登り、山頂で五穀豊穣祭を行ったあと参加者全員による宴を行っている。雨天の場合は白山神社内での宴会となる。
これらの山行き行事は、サノボリ(サナブリ)と呼ばれる田の神送り行事の典型で、田植を見届けた田の神をムラ人がこぞって山に登って送る、いわゆるムラサノボリの行事である。このような古態をとどめる風習が中島において現在も続けられているのは特筆すべきことといえよう(虚空蔵信仰については、第四節参照)。

虚空蔵菩薩  P825
 虚空蔵菩薩は、福徳・知恵増進・災害消除の仏として、また山中他界観と結びつき、年忌ごとに安置される十三仏の最終仏としても信仰されてきた。弘法大師空海が知恵増進を念じた求聞持法が知られているように、密教と深い関係にあり、石動五社権現の主仏でもあった。漆工関係者の信仰も厚く、中島町では、石動信仰・木材関係者を通して信仰されてきた痕跡が窺える。
豊田日吉社虚空蔵菩薩が祀られていたが、神仏分離令により、明治七年十一月に同地の真宗徳照寺に移されている。
 西谷内国造(虚空蔵)山国造社には、鎌倉後期に作られたとみられる石造虚空蔵菩薩坐像があり、寛政十二年(一八○○)閏四月には、五穀成就・万民豊楽を祈願し「五大虚空蔵秘法供」が奉修されている。この行事が現在田植が終ってから行われるサナブリ(サノボリ)行事に引き継がれている。晴れた日は国造山でサナブリ行事を行い、雨の場合は服狭雄神社社殿で行っている。このことについて、

「藤津比古神社文書」に、

「慶胤の城跡は西谷村の東の山の間にあり。祖先は重仁親王の由にて城跡より西南に、国分祖山親王塚と云へる、重仁王の塚なりと云ふ。五月には国分祖祭りとて繁盛なり」という記載があり、「安泉寺文書」に「庚戌夏城郭既に成し城内第一鎮守門、祖神素戔嗚尊を乾に安し妙剣と称す 第二鎮守山王宮を艮てす、第三鎮守大将軍社を巽て置れり。城外親王塚の頂に元祖重仁王の宗廟を女、是国分祖神と祭り奉つる」と記す。

このことを示すように服狭雄神社が元妙剣堂だという伝承があり、神社のある山を国造山、サナブリを国造祭としているが、国分祖・国造いずれも虚空蔵のことである。
 町屋地区では、田植を終えた後の五月上旬の日曜日に全員が虫ケ峰に上り、山頂の白山神社で五穀豊穣祭を営み宴席を設ける。これを田休み祭りとも穀造祭ともいっている。かつて虚空蔵秘法供が行われていたこともあったのであろう。
 河内菅原神社は大己貴命を祀る国造神社を合祀しており、笠師地区の春・夏・秋祭りはいずれも十三日に行われているが、この日取りは地区に十三小社があることによるものだという説がある。嘉永四年の書上には十二社、明治十年には十四社が書き上げられており、小社数には若干の増減があるものの、十三社前後であることは間違いがなく、現在は十三社になっている。虚空蔵信仰の痕跡が辿れる地域圏にあることからも、虚空蔵に関わる十三仏信仰との関係を考えてみる必要もあるであろう。
P825~6