千代尼の改悔・領解句-新たな展開-

23日(土)、千代尼の地元・白山市で、長年千代尼句の研究を続けておられる千代尼研究の第一人者、また、「風港」同人として俳人としても知られる山根公さんからお便りが届いた。

 かつては同じ国語教師でもあり、加能民俗学会でも親しくさせていただいており、懐かしく、何十年ぶりかで電話口でお話しさせていただいた。

その山根さんが送って下さった「蕪城」7号(昭和60年8月刊)に「改悔文」の刷紙写真が載っており、そこには千代尼の改悔(安心・報謝・師恩・法度)4句が添えられている。

私が『妙好人千代尼』に書いた句と比較すると、

安心の「木の実」が「此実」、

報謝「五月雨や」「五月雨の」、「しげきなかにも」「しげきがなかにも」、

師恩「幾たびも」「何(いか)ばかり」

法度「重くとも」「をれるまで」、「こらえてもてや」「堪(こら)えてこぼせ」

の違いはあるが、同意の句である。

「蕪城」紙の中野白墓氏の文によれば、この一紙(19㌢×28㌢)は当時の松任市の某家にあったものといい、

ほぼ同版の版木が秋田県象潟町・象潟海岸に流れ寄っていたという。(「千代尼と領解文」参照)。こちらの方は「領解文」だそうだからお西で用いられていたものである。

東西両本願寺門徒に盛んに用いられた「改悔文」「領解文」の教義的(真諦・俗諦、安心・行)な解説、それをさらに生活、平生業成の身近なテキストにすべく、千代尼の四句を加えた一紙版木が存在していたとは・・・・・・、

象潟からの問い合わせは、千代尼は布教師ではなかったのか?とのことだったらしいが、まさに、法座の中心に千代尼があった・・・・・・、ことを物語る資料である。

内容・大きさから、おそらく仏間のどこかに貼れるように作られたものなのだろう。

 

本を書いたときには、流布の間の変化を考えず、伝承の句ではあるが決まった句だろうと、どこかで読んだ句をメモ書きにしていて本に用いた。

それが、刊行してすぐ、高校の同級生から手紙が届きバリエーションがあることを知った。

外浦・大谷で熱心な門徒であった父に千代尼句を子供のころから聞かされて育った同級生の川口君の知っている句。

現在・名古屋別院内にあるらしい信道会館版の「千代尼のおもにかげ」に載る句は、それぞれ微妙にことなっている。

そして、今回の「刷り物」。

今後も、仏壇の曳出しなどから見つかる可能性もある。

誰が版木にまでしたのか?

門徒という広い範囲をカバー出来る刷り物は、富山の薬売りあたりまで視野に入れて考えなければならない。

千代尼伝説は、教えと結びつき、より大衆化の新たな展開を見せ始めた。

 

[以下写真]

1枚目、改悔文・千代尼句一紙刷り物

2枚目『妙好人千代尼』「領解文(りょうげもん)・改悔文(がいけもん)」(西山郷史法藏館・2018年1月刊)引用P168~174

3枚目 山根公著『千代女の謎』桂新書12 2012年5月刊

4枚目 絵葉書 絵・西のぼる氏

5枚目 絵葉書 句解説・山根公氏(「千代尼四季俳画帖」千代女の里俳句館)

6枚目『千代尼のおもかげ』「千代尼をかたる」信道会館(名古屋市中区)、昭和9年刊、118~9ページ

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妙好人千代尼』「領解文(りょうげもん)・改悔文(がいけもん)」(西山郷史法藏館・2018年1月刊)
 真宗における信仰の在り方を示すために作成した「領解文」(浄土真宗本願寺派)、「改悔文」(真宗大谷派)と呼ばれる伝蓮如作の文があります。
 四文構成で二百数文字しかない文で、それぞれが「安心」「報謝」「師恩」「法度(はっと)」の要を表しています。説教を聞いたあとなどに声高々と唱和し、たいていの人は暗記していました。
 僧侶が、報恩講の時に一年を振り返り、祖師親鸞の前で、領解・改悔を述べることを、特に「改悔(がいけ)批判(ひはん)」といい、その時、必ず「安心」~「法度」について了解を説きます。
 その場で用いられてきた伝千代尼作の句があります。 
    安心
    開くとき木の実を結ぶ梅の花   [刷り物] ひらくとき此実(このみ)をむすぶ梅(むめ)の花(はな)
        報謝
  五月雨やしげきなかにも咲くあやめ   五月雨(さみだれ)のしげきが中(なか)に咲(さ)く菖蒲(あやめ)
        師恩
  幾たびもお手間かかりし菊の花        何(いか)ばかりお手(て)の(「ま」と読んでいる)かゝりし菊(きく)の花(はな)
        法度
    重くともこらえてもてや雪の竹    をれるまで堪(こら)えてこぼせ竹(たけ)の雪(ゆき)

 特に師恩の句は、多くの師のおかげによって今がある御恩を、「手間」とはいわずに「お手間」と詠んでいるところによく表れているとか、国民文学作家で「親鸞」「宮本武蔵」「新・平家物語」などの作品がある吉川英治(一八九二~一九六二)は、この句が好きで、結婚式の挨拶でよく用いていたなどの話が伴い、親しまれてきました。
  千代には、「安心」の句
  ともかくも風にまかせて枯れ尾花
「決定心」「真如平等」 などの句があるのですから、これらの句があっても不思議ではありませんし、あって当然だとも思えます。
 法座での語り、説話を作ってきた人々は、今で言えば一流の作家、詩人たちでした。その人々が、教えを求めている人々と向き合う中で伝えようとした願いは、時には妙好人千代尼の句として表現される事があったのかも知れません。

 

高校同級生・川口嘉夫氏より
父が残してくれた短冊を取り出して見てみると、次のように少しは違っていたけど間違いなくこのことだったのです。
  咲くときに 木の実を結ぶ 梅の花
  五月雨の しげしきなかに 咲くあやめ
  幾たびか お手にかかりし 菊の花
  折れるまで 耐えておれや 雪の竹
父は、よく寺参りをした人で、お説教で聞いて覚えていたものと思います。
お経の冊子に「改悔文」が載っているかと見ても見つけられず、そのままになっていたのです。
ここの部分を読んだ後、最初から読み出しました。本当にわかりやすく、「感謝」の一言です。
文学としての俳句の本ではなく、難しい仏教の本でもなく、「千代尼」の句を通してひもとく信心家の心とその周りの人々や民俗的な時代背景を探れる本のように思いました。
 
父が好きだった句に次のようなものもありました。
 「 花咲けば 葉も棄てられぬ 鬼あざみ 」

 

千代尼と「領解文」中野白暮(「蕪城」蕪城吟社発行・昭和六十年八月十五日  第七号)
 千代尼と領解文というタイトルに、何か勝手のちがった印象をもたれる向きも多いのではないかと思う。これまで千代尼の信仰心について触れた文章はなくはなかったが、仏教の教義に直接係わるふれ方をした記述に出会うことは殆んどなかった様である。
 領解文は蓮如上人の作といわれているが、上人の没後相当年を経てからの発見ときいている。文章は真宗における自督安心の次第を説いたもので「もろもろの雑業雑修自力のこころをふりすてて」に始まる僅々二百字程の短文がその総である。本文を本願寺派では領解文と呼んでいるが、大谷派では「改解(かいげ)文」と称している。
 ところが最近加賀千代尼の句と銘の入った同文の領解文と、改悔文の刷り物が発見された。改悔文は私の友人が、市内の某家から手に入れたもので襖の下張りに使ってあったものらしい。縦約一九センチ、横二八センチの一枚ものに改悔文と題し、本文を四節に分けて書き、その余白に俳句を四句載せ、最後に加賀千代尼と銘が入れてある。紙の裏には朱墨で仏法に関する書き込みがあり、あまり汚れてはいない。
 もう一つの「領解文」となっているものは、松任聖興寺へ、秋田県象潟町教育委員会より送られたもので、文も版の大ききも全く同一のものだが、表題と文字の彫りに若干の違いが見られる。象潟町教委からの書面によれば、この刷り物は、数十年前に象潟海岸に流れついた版木によって刷ったもので、発見されたのは領解文の版木だということと、この版木の所蔵者は千代尼は俳人というだけでなく布教にもたずさわったのではないかということで、同寺へ照会してきた訳である。刷られた文面を見る限りでは、文字も刷り滅った感じはあまりないようで、海から漂着したものにしては意外と傷みは少ないようであった。この二つの刷り物の書体等からみて、殆ど同時期の開版ではないかと思われるので、同書の印刻流布の経過を仏教大辞彙(竜谷大学編)などを参考に見てみると、最も早い開版が万治二年(一六五九年)刊行の改悔私記巻上に掲載されており、文章には現行本と異なっている所が少くないという。その後明和元年(一七六四年)に慶証寺蔵刻本というのが出、更に高田派が天明二年(一七八二年)に印刻流布しているということが伝えられているが、現行の領解文は、千代尼が没して十二年後に当る天明七年四月に本願寺派本山において印行流布したもので、本文の終りに西本願寺十七代法如上人の署名花押があり、次に十八代の文如上人の「右領解出言の文は信証院蓮如師の定めおかせらる、所也云々…」の跋語を加えてあるのがそれで、広く同門下に頒ったことが付記されている。従って一般の信徒の目にふれるようになるのは天明年以降になるのではないかと推察される。そこで前記の加賀千代尼の銘の入った領解文・改悔文の印刻開版は誰が、どうゆう目的でいつこれを行ったかということになるが、版木所蔵者のいわれる千代尼が布教のために自身で開版したのではないかという想定は、前記の領解文開版の経緯からみて年代的に不可能と考えられる。またこのような千代尼と布教に係わる資料は、現在百数十通に及ぶ尼の書簡中からも窺い得るものは殆んどなく、千代尼関係の著作物からも信仰心が厚かったこと、寺への参詣の事蹟は書かれているが、真宗にかかわる布教に結びつくものは皆無なので、千代尼の手になる開版ということは先づないと考えてよいのではないかと思う。
 次に考えられるのは、本願寺派が印行流布の必要性を生ぜしめた「安心」に係わる論議の高かった北陸地方における真宗本山の積極的な指導教化の一つの便法として、用いられたのではないかということである。本市内の一般民家からの改悔文の刷り物が出てくることも、このことを裏付けるようである。千代尼の俳人としての名声は晩年になって特に高まり、死後もその勢は衰えなかったといわれている。領解文はその全文を通例安心・報謝・師徳・法度の四科に分けているが、千代尼の句も左記のようにこの四科を頭書にして夫々一句宛書かれている。(写真参照)
安心  ひらくとき此実をむすぶ梅の花
報謝    五月雨のしげきが中に咲く菖蒲(あやめ)
師徳   何(いか)ばかりお手間かゝりし菊の花
法度   をれるまで堪えてこぼせ竹の雪
                   加賀 千代尼
 ここに用いてある句は千代尼句集や、俳譜松の声その他にも出ていない作品だが、この句を千代尼の作品として領解文と併載することによって一般人への布教の効果を考えたものではないかと推察されないものでもない。
 なお別記二句目の五月雨の句については、栗田天青著の「千代尼の句と人」に"五月雨のせわしき中に咲く菖蒲"があり、四句目のをれるまでの句では同書に「掟にとて」と前書をつけて"重くともこらえて暮せ雪の竹"があるが、これが原句となっているのではないか。いずれにしてもこの版木の開版は、千代尼が真宗王国といわれる松任の生れで、俳譜では全国的にその名が知られていたということによるものと考えるしかない。
  

 

『千代尼のおもかげ』「千代尼をかたる」信道会館(名古屋市中区)、昭和9年刊、118~9ページ

 本願寺八代目の中興蓮如上人が、『改悔文』(領解文ともいふ)を作り、法義相続の領解
の次第を、佛租の御前で改悔して申陳べる亀鑑としてあるが、それは短文ながら、安心、
報謝、師徳、法度の四綱目について述べてある。この四綱目を揃えて、うつくしく領解す
るものでなければ、信心沙汰には聴聞なほ不足として、互に策勵する風習になつてゐる。
つまり眞俗二諦なる他力信心の四つのカテゴリーなのである。千代の句も、そのカテゴリ
ーに當てはめたりする傳説がある。
安心
ともかくも風にまかせて枯尾花
師徳
幾度も御手にかゝりし菊の花
法度(掟)
重くともこらへて暮らせ雪の竹
報謝の句を失念して思ひ出せないが、安心の枯尾花の句の代りに
のびるほど土に手をつく柳かな
手に持ちし團扇をすて、蚊帳の内
などの句を以てすることもある。ともかく、かやうに配當して、田舎の布教信などが、これ
を疑ひなく千代の名句とし、随喜しながら理屈のところに力を入れて説教するのである。
これらは、いづれも句集にも見えす、後人の附曾したものに相違ない。
菊咲いて今までの世話忘れけり
(前掲)の此一句は慥かに千代の句である。それ故、この句意を逆に、菊そのものから「幾
度も御手にかゝりし菊の花」と捏造して傳説となつたものであらう。

 なお、信道会館本の序に、「この些事、讃仏乗の縁転法輪の因ともならば、望外のさひはひなりけらし。」と、「和歌は狂言綺語観」を克服した白居易の論が引用されている点でも意欲的な書物

である。