北西弘先生満中陰(3月14日)―臼井元成、石橋義秀氏と共に、西田幾多郞、笠池ヶ原へも―

14日(金)北西先生の満中陰法要にお参りに行ってきた。
私が知らない頃の話だが、学長をなさっておいでた時の文学部部長臼井元成氏、寮監か何かの役職に就いておられた石橋義秀氏もお参りにおいでるというので、内灘町の北西先生宅へタクシーを使うにしろ、遠く道もややこしいので、金沢駅まで迎えに行った。
13日は、めずらしく雪になり、朝七時に出発したのだが、尾根筋に道がついている里山海道・穴水までは0度で凍っているところが続き、しばらくおっかな運転で、金沢に向かった。
 北西・光明寺御住職は、午後の蓮如忌参り合わせに出かけられることになっており、
法要後は、お食事をいただき、しばし弘先生の思い出話で歓談し、臼井、石橋両氏を近くの西田幾多郞生家跡へご案内した。
 臼井・石橋お二方とも大谷大学名誉教授で、西田幾多郞もかつて、大谷大学で教えておられる。
拙著『妙好人千代尼』(法藏館)52ページに「 戸坂、三木の師である西田幾多郎もこの年の六月七日に世を去っており、昭和二十年(一九四五)は、哲学界にとっても喪失の大きな年になりました。
 西田の生家は、石川県宇(う)ノ(の)気(け)町森(現在かほく市)の真宗大谷派長楽寺の隣で、藩政期には加賀藩の十(と)村(むら)(他藩の大庄屋)役をしていました。
 西田は、最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」の最末尾に、「娑婆(しゃば)が浄土

を映(うつ)し、浄土が娑婆を映す、明鏡(めいきょう)相(あい)照(てら)す」(鈴木大拙『浄土系思想論』法蔵館)をふまえ、「私は、此(ここ)から浄土真宗的に国家というものを考え得るかと思う。国家とは此土(このど)において浄土を映すものでなければならない」と結論づけています。
 この三人が、「治安維持法」のない時代に、親鸞を自由に語り合えたなら、北陸と播州龍野の真宗風土が響きあう、希有(けう)な親鸞像が描かれたはずです。
 ちなみにこの三人は、真宗大谷派の宗門大学である大谷大学で教鞭(きょうべん)を執(と)っています。」
と書いた、生家跡、墓地などをたずねたのある。
 臼井さんが公民館に幾多郞関係の資料がないか尋ねられたので、「西田幾多郞記念哲学館」へも行った。
 
お二人が見学なさっている間、見知っている受付の方に「西田幾多郞」って振り仮名無くても皆読める? と聞いたりしていると、「イクタロウ、と読む人がいます」というので、同じ名で「イクタロウ」いう有名な人もいたからね・・・。「西田キタロウに清水イクタロウ」。
清水幾太郎って、そんな人がいたのですか?、初めて聞きました」というので、
 一冊岩波新書で著書を持っているような記憶はあるのだが、突然、その名が浮かんできたので口にした程度で、説明できる何ほども持っていはなかった。

引き続き、一向一揆の拠点・鳥越弘願寺跡を通り、笠池ヶ原・蓮如上人お手植えの銀杏、蓮如井戸、蓮如上人のお説教を聞きにおいでと鳴らしたと伝承のある「デンデコ太鼓」をうち鳴らす石像観音堂前広場などを案内して、金沢駅に向かった。

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かほく市森。幾多郞生家すぐ側にある森公民館前で。臼井元成氏(向かって右)、石橋義秀さん

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笠池ヶ原蓮如上人お手植えの銀杏前で。臼井元成氏(左)、石橋義秀さん(右)
f:id:umiyamabusi:20190317063614j:plain笠池ヶ原蓮如上人お手植えの銀杏前で。臼井元成氏と私―石橋義秀さんのFBより―>
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石橋氏監修、『歎異鈔略註』2008年刊
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『常照我―法話・随想集』。いただく。

 私は翌日、七尾で四組合同坊守会出講、図書館で太宰春台を調べることなどがあるので、金沢郊外に泊まった。