江戸小石川新福寺から能登・姫に届けられた仏像

先日、能登空港でのシンポの際、能登町姫で仕事をなさっていた方々にお会いした。
そのお一人は、最もお世話になっている方のお嬢さんで、その時
江戸小石川から姫に届けられた仏像がある、とお話しした。
大変興味を示されたので、
ここに、再録する。
ほぼ、30年前に書いたものである。
小石川新福寺は、この時と、のちに『能登のくに-半島の風土と歴史-』を出版する際の原稿(写真)執筆の際と
2度調査に出向いている。

江戸小石川からきた仏像

『加能民俗』10ー6No128
平成二(2000)年三月三十一日発行

「江戸小石川から来た仏像」

一、
 鳳至郡能都町字姫中谷(なかや)文雄家に、像高四十二センチメートル・肩幅十四センチメートルの摂取不捨(上品下生)印の木仏像が安置されている。
 浄土真宗門徒宅では普通、方便法身画像を祀っているが、中には本願寺から「木仏免許」を受け内陣に木像を安置してある場合がある。 中谷家のものは大きく、またいわゆる「木像免許」仏とは違った印象を受ける。
 それもそのはずで、この仏像は江戸小石川の新福寺から譲り受けた阿弥陀仏である。
 なぜ、江戸の真宗寺院の仏像が姫の地にあるのか。その来歴は後に回して、まず姫集落および中谷家と新福寺について触れてみたい。

二、
 みやびな名前を持つ姫集落について、『能登名跡志』に
「真脇村の散村に姫といふ所あり。此磯の岩に陰門の形あるにより、姫の名ある由」とあり、姫の名は、女性器に似た岩があるための地名由来と記す。
 『角川日本地名大辞典』では、近代に立項してあるのみで、そこには、江戸初期以降長く真脇村の垣内であったのが、明治二十二年以降真脇の小字となり、昭和二十七年以降能都町字姫となるとある。
 また、明治三十年頃は八十戸足らずの集落であったのが昭和四十四年には百八十五戸と飛躍的に戸数が増加したとも記す。
 しかし近世以前の様子については全く触れられていない。

 『能都町史』第一巻「能都町の集落誌」においても、『能登志徴』の「真脇村之内、元禄十四年五月、土方家臣書付に珠洲郡真脇村枝村姫村。家数十軒。親村より四町四拾間卯の方。右者往古より有之年数不相知。親村高之内にて高分り不申」とあるのを引用し、真脇村同様に、土方・加賀藩領の入会地であったのが、貞享元年(一六八四)に幕府直轄地となり、享保七年(一七二二)には御預所天明六年(一七八六)の御預所加賀藩領の交換が行われたおり、姫も加賀藩領となったとの一般的な歴史からの記述がある程度である。
 ムラ自体は古くからあったようであるが、一八世紀初頭には家数十軒程度で、その他の集落の様子については皆目わからない状態であった。
 親村の真脇村は、寛文十年(一六七〇)の「村御印」によると草高百六十二石、小物成は山役八十七、烏賊役十四、猟船櫂役一〇二・五、網役四八・八、間役二・四、釣役二十一(以上単位匁)となっている。
 うち、烏賊役が二十七匁・釣役が十七匁の退転、猟船櫂役が四二・五匁、網役が十四・八匁・間役が二・四匁の出来となっている(加越能文庫「加越能三箇国高物成帳」)。烏賊役・猟船櫂役の退転がいかにも多く、また『能登志徴』の記載を信ずるならば、姫の分もここに含まれていることになる(但し幕府領分は含まない)。

 ところが、仏像調査の折、中谷家に四十数点の古文書が存在することがわかり、そこには、寛文十年九月の小物成の草稿・寛文十一年姫村肝煎真脇村六兵衛宛願い状の草稿など、年号がはっきりしている江戸期のものだけでも十四点含まれていることがわかった。
 姫・真脇付近には古い文書が見つかっておらず、量からだけでも極めて貴重な文書類といえるが、中でもこの小物成を記した文書からは、当時の姫集落の様子が随分はっきり窺える。
 文書名は「能州珠洲郡姫村小物成之事」で、山役四〇匁・猟船櫂役二二・五匁・網役五匁・釣役三四・五匁・烏賊役一匁となっており、山役の内四匁は明暦二年百姓分からで、猟船櫂役の内二十匁・釣り役の二十二匁五分が出来、烏賊役二匁五分退転となっている。
 文書の終わりに「右之通可納所十村見図リ之上ニ而指引於有之者其通可遣者也」とあり、この文書の性格を窺わせるが、少なくとも退転の記載があることや、同じ年の真脇村より釣役が多いことから独立した一村立てとなっており、それも、寛文十一年以前からかなりまとまった集落であったことが窺われる。
 その他文書には、六人乗り船七捜・四人乗り船一捜、船に関わる人数四六人、烏賊役に従事する者一人などが注記されている。
(※この文書については、当時、県歴史博物館古文書調査委員をしていたこともあり、そこに報告してある-西山注)
 真脇の釣役退転の多さは、姫の出来と関わっているようであり、烏賊役についても同様に他村に再編されたらしいことが推測される。
 船に関わる人数がはっきり示されていることから、『能登志徴』の家数は少ないのではないかと思わせもする。
 ともあれ、姫はもともと漁業を中心として生計を営んできた集落であったらしいことが、この一枚の文書から想定されるのである。

 他の文書は、漁を営む集落らしく漁に関わる資金繰りの苦労や家の盛衰を窺わせる内容のものが多いが、中谷家は極めて大きな経済力を育てていったらしく、藩政期の終わりごろには、師匠寺の宇出津覚照寺と門徒一同にも金銭を貸したり、ユニークなところでは、真脇組頭以下に翌年の三月のイルカ五十本を抵当に六十貫目を貸したりもしている。
 真脇は真脇遺跡とそこに出てきた膨大なイルカの骨で一躍有名になったが、この文書から随分近年までイルカ漁が盛んに行われていたことを知ることも出来る。

 文書の他に、「一念発起妙」、能登国富来赤崎の生んだ頓成の師として、頓成の異安心問題が起きたとき頓成の説得に奔走した開悟院の江戸浅草御坊における「法話」、
 弘化二年(一八四五)の「国々御相続講趣意」、
 「浄土宗ノ安心起行ノコト」、
 山科西宗寺の「蓮如上人御往生地略縁起」などの書写・刊本類や姫村惣同行・本山志納金の受け取りなどもあり、篤信家を輩出する家でもあった。
 屋号を仲屋という。

三、
 江戸小石川の浄土真宗新福寺は小石をあらわす礫川山あるいは日々山を山号とし、小石川の極楽水の通称で知られる寺だという。
 文豪夏目漱石は少なくとも明治一七年頃と、明治二七年頃小石川に下宿しており、名作「こころ」にも小石川の宿が出てくるが、明治一七年の時に下宿していたのがこの新福寺であった。
 このとき漱石は予備門に入る準備をしており『満韓ところどころ』に「橋本左五郎とは、明治十七年の頃、小石川の極楽水の傍らで御寺の二階を借りて一所に自炊をしてゐたことがある。」と記し、毎晩寺の門前に売りに来る汁粉屋の汁粉を食いすぎて盲腸炎になった、といかにも漱石らしいことを書いている。
 なお明治二七年の下宿は浄土宗宝蔵院である。

 新選組隊長近藤勇も新福寺に世話になった時期があり、新福寺にいた勇から本願寺下間富内宛の書状が残っている。
 「(略)江府表寓住新福寺儀、毎々御厚憎ニ相成、萬々報謝候、就而ハ、右新福寺事、咒字袈裟御免相成候様、兼而願居候処、今般是非共上京相願度宿願ニ御座候処、折節病臥罷在、甚以遺憾之至、依而、私より嘆願致候様頼越候間、何卒宜敷御執計奉願上候、尤御宗門ニ者夫々御規則も有之候事奉存候得共、右関東表より頼越候ニ付其儘相願上候(以下略)」とある内容で、要約すれば、以前から世話になっている新福寺住職が咒字袈裟着用の許可を願っているが病気の為、直接本願寺に赴くことは出来ない。
 まあ色々規則もあるのだろうけど、俗な言い方で、私(勇)の顔を立ててわがままを聞いてもらえぬか。
 といった内容で、本願寺は、新福寺祐恭に「右乍不容易、近藤勇より深重歎ニよりて、其身一代御坊外府内限着用御聞置之事」の条件を付けて咒字袈裟着用の許可を与えている。

 この本願寺からの許可が与えられたのは、慶応三年(一八六七)十一月のことで、近藤勇幕臣に取り立てられてから五ケ月後のことになる。
 まもなく鳥羽・伏見の合戦が始まり、五ケ月後に勇は刑場の露と消えていることを思うと、風雲急を告げる中にあって、世話になった寺にせめてもの恩返しをと考えている勇の心情、あるいはそれほど激しく時代の変わることを予測せず、絶頂の頂にあっての勇の男気など、どうとも推察される輿味深いエピソードが新福寺を舞台に行われていたのである。
 少なくとも、恩に対して義理堅い勇の人間像がここからは浮かび上がって来る。
 咒字袈裟を所望した祐恭はもともと病弱な人であったらしく、勇が親しんだのは、この出来事の五年前の文久二年に亡くなった祐照ではなかったか、と寺では語り伝えている。


 祐恭の父祐照は、新福寺第十九代を継いだ。
 法名を瑞華院という。
 この近藤勇と親交があり、心情的バックボーンとなったと目される人物が、姫の仲屋から婿に入った人であった。
 奇縁と言わなくてはなるまい。

 新福寺の伝えでは、十九代が能登からきた人であるとは聞いているが、それ以上詳しいことは分からないとのことであった。
 一方、姫の方では「じいさんのおじさんが長願寺のおっさまになって新福寺ヘムコにいった」との伝承を有している。
 長願寺というのは、真脇にある真宗大谷派長願寺のことで、仲屋の三代前の弟が長願寺の僧という形をとって新福寺の婿に入ったもののようである。

 江戸の風呂屋能登出身者で占めるといわれるくらい能登出身の風呂屋が多い。
 新福寺はその風呂屋さんの精神的なよりどころとなっていた節があり、能登出身風呂屋の惣墓があるという。
 時間の関係で詳しく聞いたり、調べたりする暇はなかったが成功した風呂屋能登から出てきた風呂屋希望者を経済的負担をかけることなく、一人前になるまで面倒を見ていくならわしだった。
 との興味深い話を伺うことができた。
 能登以外には、新潟県蒲原郡出身の風呂屋さんも多いとのことであった。

 以前「近世真宗寺院の唱導」と題して、珠洲市野々江町了覚寺に残る唱導資料を紹介したことがある(『すずろものがたり』第五十一号・昭和六二年刊)。
 ここで取り上げた十一編の縁起のうち、中興の祖・了雄に関わるものが五編ある。
 了雄は本堂建立に生涯をかけた人物で、縁起によれば、布教の傍ら江戸で法宝物を寄進されており、その法宝物を折々に開帳していた。
 これらの縁起には神田小柳町越後屋、新白銀町越後屋、小石川オタンス町が登場しており、これらの地に当時すでに有縁の人々がいたことが窺われる。
 本堂が建てられたのは、文化六年(一八〇九)のことであるから、少なくとも、このころには江戸に奥郡の真宗僧が相当出入りしていたと見なければならない。
 こういった交流の基盤があって、新福寺でも、能登の実直な人物を婿に迎えようとの気運が盛り上がっていたのであろう。

 ところで、仏像の調査に入ったのは、傷みが生じたため修理に出そうとしたところ、胎内銘が見つかったため調べて欲しいとの依頼からであった。
 銘は「延宝九年(一六八一)幸酉卯月 相州鎌倉佛師 感応院宗徳日文□作像」とあり、新福寺に伝来していた仏像だったと思われる。
 祐照が住職となってから実家の本尊にと送ったもののようであるが、残されている荷木札には「戌三月晦日」とあるだけで、いつどういう理由でまでは、はっきりしない。
 戌の年は、祐照の亡くなった文久二年・嘉永三年(一八五〇)・天保九年(一八三八)・文政九年(一八二六)と遡るが、前住職の没年まではうっかりして調べてこなかった。
 しかし、およそ百五十年ほど前に姫に送られた仏像であることは間違いない。
 作者の鎌倉仏師については、一応神奈川県立博物館に問い合わせてみたが、鎌倉仏師自体の調査・研究が進んでいないとのことでわからなかった。

 「江戸小石川からきた仏像」の顛末は以上である。
 一体の仏像から、輿味深い話が次々に出てきたので、紹介させて頂いた。

※2017(平成29年)保存用データー作成

二度目の調査-2002年(平成14年)6月8日-の折、撮影


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日日山新福寺
礫川(こいしかわ)院とも名乗っているようで、扁額があがっている。
姫から行って住職になった方と付きあいのあった近藤勇
夏目漱石が、このお寺に下宿している。
小石川植物園のすぐ側。
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能登から江戸に出向いた、お風呂屋を営んだ方々の惣墓。
能登人と江戸の風呂屋に関しては、哲学者・戸坂潤の出た戸坂家(能登・富来町)に由来が語られている。
これは粟津家の師匠寺で、デザイナー粟津潔氏の伯父君から聞いているのだが、
そのうち記す。
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境内には石仏が。
一帯に多くの寺院、石仏がある。

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小石川極楽水
「こころ」(漱石)に登場する。

「江戸の道、順拝の道-定住する人、巡る人」(『能登のくに-半島の風土と歴史』所収