「舞台」―能登の土徳―
2018年(平成30年)6月25日(月)北國新聞夕刊「舞台」
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原文・下書きは次の通り。
「能登はやさしや土までも」を、土地の少年の笑顔、教養に驚き初めて紹介したのが、元禄九年(一六九六)の浅香久敬(ひさのり)の旅日記でした。その後も果実、菜根、風俗の質朴さ、篤実などが「やさしや」として紹介されます。土もやさしい、あれもやさしい、これもやさしい、そのすべてを包み込んだことばが「土徳」です。
里海の塩田、里山の棚田。土地を愛し、すべてが庭のように手入れが行き届いている光景を届けてくださった先人。そこには、生かされていることに報謝し、すなおに「おかげさまで…」と手が合わさる教えの日々がありました。いのちの輝きのある土地は、全てが土徳の郷なのですが、特に能登には、自然と教え・営みのやさしさが凝縮されています。
今年も、仏の慈悲の象徴である月光が、分け隔てなく梅の露を求めて宿り、小さないのちを育む、梅雨(露)の季節を迎えました。土徳が積み重なっていきます。
制限字数の関係で、青色部分をカット。
私が民俗学的手法で「能登」の素晴らしさを再認識し、書きまくったのは、裏日本、灰色、どんよりした空、何もなく誇りを持てないとされていた時代と、その頃の風潮に対する、異議だった。
このところ能登を誉めすぎ、他は?となってもまずいので、この文にはカットとなった「いのちの輝きのある土地は、全てが土徳の郷」を入れたのだが、まぁーいいか―だ。
ところで、舞台は字数が短くなり、書いている人の会社、地域、イベント宣伝のようになっている。
なら、『妙好人千代尼』が真宗入門であり、人と自然が織りなす「土徳」の一典型を書いた……と書いてもいいような気がしたのだが、そこまでは、ずうずうし過ぎるかな、と自己主しきれないところがある。
鵜川地区相続講(7~80名)では、組長さんが、千代尼でと言ってくれ、プリントまで用意したのに、寺役でキャンセルせざるを得ず、まだ、まともに宣伝仕切れていない。
一方、あとで読み返すと、こんなことを書いていたのか、と驚くことがある。
読み返すことが出来るように、『妙好人千代尼』のあとがきに書いた、論文を一冊にする、そのことを進めねばならない。
「舞台」の変遷
1986年(昭和61年)から書いている。12月27日
「正月箸」
日本民俗学会会員、県立飯田高校教諭
「珠洲焼の歴史を担い」
1996年(平成8年)5月1日、
珠洲焼資料館館長
「交流―ふれあい―」
1997年(平成9年)11月19日、
珠洲焼資料館館長
「移り行く行事の日」
1998年(平成10年)3月30日、
珠洲焼資料館館長、
西勝寺住職
「昔=民話」の力
2002年(平成14年)2月9日、
珠洲焼資料館館長
「伝統行事が育てるもの」
「秋、「塩の道」を歩く」
2007年(平成19年)10月9日、
観光ボランティアガイド「きらり珠洲」会長
「鈴から珠洲へ」
「あえのこと」と「あいのこと」
「一筋の線―横川巴人と中村禎雄」
2009年(平成21年)、
能登を知る会会長
「能登を知る会~秋の散策~」
2009年(平成21年)10月3日、
能登を知る会会長
「江戸初期の在家仏」
「能登はすごい」
2016年(平成28年)1月5日、
「加能民俗の会」会員
「能登国1300年」
2017年(平成29年)6月17日、
加能民俗の会会員
能登立国、能登の境界・範囲?など、ここからの疑問が今年立国1300年を迎え続いている。