奥能登塾-新聞記事ー

昨日の勉強会の様子が朝刊に載っていた。
私の思いは、今年7月からお引き受けした述べ5組の坊守会講師をしながら、お寺がどうあるべきか、を、
坊守の方々と考えていく、それを当面の課題としながらお話しを聞いた。

いくつかの仕事をつなぎながら、生きていく…一つの仕事が全てだった時代から、いくつかの仕事ー自給自足、昨日の用語では多就業スタイルへの生き方へ回帰するー
夏、お盆に帰ってくる人々がとりあえず安心して帰ってこられる故郷の手入れーを、より強く考えさせられた。
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※下段中ほどは、「能登へ来るまでは~との印象を持っていた学生たちが…」と私には、聞こえた。

太った腹回りに合うズボンがなく、いつか元へ戻るだろうと期待していたお腹まわりも引っ込みそうにないので、午前はズボンを買いにいき、昼食をとらないままで行った勉強会。

腹回りで、アッ!オレだ、とすぐ分かった。

お隣が塾を立ち上げ、東洋大能登ゼミなどの世話をなさっている星野さん。
だいぶ前に空港でお会いしたとき、東京へ行って東洋大の方と会うのだ、とおっしゃっていたが、このような形で結実してることに、驚いている。

その右横が講師の東洋大・高橋副学長。
かつて日本民俗学会50周年大会で、調査者(指導者、学生集団)が地域や伝統を考えず、自分勝手な調査をして行事をバタバタにしたり、地域に迷惑を掛けて去っていく調査公害問題を指摘したことがあったが、
それとは逆の地域に学ぶ形で地域と溶け込んでいる姿が、これほどに醸成している活動があることに、驚いた。
星野さんと高橋さんスタッフのふれあいが、まずあったのだろう。

その右、塾長(奥能登総合事務所長)前田さん。

肩だけ写っているのは、司会・立ち上げ人の一人の高峰さん(株式会社ぶなの森・代表取締役)。

星野さんと話の出来るいい場所に座らせてもらい、藩政期に406ヶ村あった奥能登エリアを中心に話し合うのは、地に足のついた話が出来る手頃なエリアだと思う。
そこから広げるのなら広げていけばいいが、奥郡406ヶ村でもすごい。
まず、方言の魅力を語ればいいかも知れない。

この写真の時は、参加者が順にマイクを持って自己紹介、お話しに対する感想をなどを述べているときで、
私は、一向一揆の経験から、加賀藩主がいったという、

(農民のことは)門跡(本願寺)が重宝重宝…

という関わりが、
正司、刀祢、岡田など士族であっても不思議でない人々を、十村や村方三役、寺院とともに、村経営にあてさせたーすなわち、能登から支配者としての侍の気配を感じさせない政策をとったー経営能力を、見直さなければならない…という思いを持っており、そのようなことを高橋さんの話から、さらに詰めなくてはと思った、というようなことを感想として話した。

講義資料、2013(平成24)年9月13日新聞記事
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遠いところの話だったはずが、見える話になった。

Uターンは知っているが、このIターンという語が分からない。
帰りに、ぶなの森能登事務所に寄って今井さんに会ってきた。
インタープリナーという肩書きでこれも分からない。
聞けばいいのだろうけど、カタカナは記憶に残らないので聞かない。
今井さんは先日までドイツへ行って、そのインタープリナーの研修を受けてきたそうだ。
的確にドイツの里山状況を話してくれた。すごい!

帰り際、車に乗ってからドイツー
ステンチェンーの曲が浮かんだ。
♪グーテナハット、マジョイスリー、グーテーナハット…(忘れた)。
まだ昼だし、この曲は変か?と思いつつ柳田を通って帰った。

落ち葉掃きと、机の前生活の日常に戻るには、
頑張っている人たちに出会いすぎて、脳が興奮している。

もう一点、某大の仏教学科へは行かないで東洋大の仏教学部に行く人が増えている、という話を聞いた。
そして、高校時代毎日のように家に遊びに来て、まるで同級生のように、私たちと仲良くし、私たちがそれぞれの道に進むとき、先輩たちがいなくなって寂しいよー、と涙ぐみ、数年して京都の下宿へも泊まりに来た一年後輩の故・杉本勉君の進学先が、東洋大学だった。

数時間、東洋大学の文字を見ながら、こころの深いところで、波の音のようにずーっと杉本のことも思っていた。