桜、虎石墓、神鏡石ー輪島・安町ー
20日(水)7組小組(山五ケ寺)追弔会のため、安町照福寺さんへおじゃました。
その折々。
照福寺の桜
白モクレンと桜
(平成6年4月1日刊「季刊能登」を飾った桜と木蓮)
墓虎石
このお墓は、照福寺住職家のお墓の一部で、いわゆる竿部に「墓虎石」と刻まれている。墓域の最奥部にある。
石休場の地名からして泰澄伝承(泰澄腰掛け石)にいろどられ、山岳宗教の重要地である鉢伏山(神田山)・高洲山の懐に上野山照福寺が存在しているところから、このお墓のある地点を修験者が入れる場所と一般人との結界と見、ーすなわち、白山・立山・金峯山などに名を残す「虎(とおる・とうろ・とらんに)」という遊行比丘尼と女人(庶民)結界を示す石の存在を突き合わせ、虎名の結界石ではないかと考えて書いたのが、次のブログ・新聞記事である。
→「四門と虎墓」。
近くでは,能登町瑞穂今蔵神社に虎伏石があり、間島に虎御前の墓がある。
もう一つ考えられるのが、京都・本願寺の虎石である。
親鸞聖人は750年前、「押小路南万里小路東」の禅坊(善法坊、現在御池中学校地)で息を引き取られた。→聖人京都伝承の地
「見真大師(親鸞聖人)遷化之旧跡」碑2007年10月8日撮影
この坊に聖人が愛でた「虎石」があり、入滅の折には涙を流したと伝えられている(虎石町の町名由来)。
虎石は、後に東大谷(真宗祖廟)に移され、宝永6年(1709)に祖墳上に置かれた。→
この虎石と安町の「墓虎石」が似ている。
照福寺からは、藩政期末頃に何人かの学僧を輩出しており、本山との交流があった。となれば、聖人の愛でた虎石と祖廟を上野山にも写しとして取り入れられたとも考えられる。
いずれにしろ、重要な石である。
神田川(じんだがわ)
『能登名跡志』に「往来より少し山手に石休場村と云に、昔泰澄大師七村山粉川寺へ山上の時石に休み給ふ腰懸石有り。今も小名にわけて石休場と云也。亦此村領の内に神田山と云あり。黒滝とてあり。川中に俎板岩・俎箸岩・岩包丁と云あり。
山神此所にて鮭太郎と云物を料理するといへり。
其外此神田山は昔長者ありて寶を納しとて、金の鶏のうたふ事有り。此声を聞ば仕合せよしと云り。惣じて此辺は鄕士の筋目とて数多あり。」
とある。
滝、俎板石などがある川の雰囲気を見てこようと、天気もよかったのでフラフラと神田川沿いに車を走らせた。
鉢伏山道。
狭くて泥道だったが車を進めた。
ダンプと出会う。やっとすれ違い、登っていくとまた出会った。
ズーーとバックして、鉢伏に行けるのかどうかを運転手さんにたずねた。無理だとの事。
そこで引き返す。
神田川ダム湖
神鏡石
神鏡石のいわれ。
「能州鳳至郡石休場村の神田川という瀬中に石あり。
此石に障る者あれば怪我する事あり。
里人あまりに不思議に思いて、明和二年の春此石を掘穿ち見るに、表に紫の筋あり。其の模様五輪の如くにして臼形の所梵字あり。
里人恐れて、遙の氏神の境内へ数十人して運びて神鏡石と号して松が根に建あり。」
とある。明和2年は1765年。
この文は『能登志徴』に引用する「能登誌追加」とほぼ同じ。五輪陽刻板碑のことを書いているのだが、堂内にある石は別物である。
昔の神社だというから、旧ご神体の可能性がある。
石休場の小字本村、大水上
同じく向坂、平野山か。
鵠巣公民館(元深見小学校校庭)。