中能登町高畠にある「明日ありと思ふこころのあだ桜…」碑


親鸞聖人は、数えの九才で御出家なさった。
本願寺上人伝絵」では、このいきさつを
「九歳の春の比、阿伯従三位範綱卿ー時に、従四位上前若狭守、後白河上皇近臣、聖人養父ー前大僧正ー慈円、慈鎮和尚是也、
法性寺殿御息、月輪殿長兄ーの貴坊へ相具したてまつりて、
鬢髪を剃除したまいき」( 『真宗聖典』p724 )と記す。
 

伝絵の第一図に青蓮院前の桜が描かれており、
第二図の「青蓮客殿」「得度剃髪」の場面の解説( 『親鸞聖人伝絵ー御伝鈔に学ぶ』東本願寺刊 )では、
「本来なら稚児のままでしばらく手習い勉学すべきところを、
折しも咲き乱れる庭前の桜花にことよせて、
松若麿は、『明日ありと思ふ心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは』とお歌いなされ、
今日のうちにもぜひと薙髪をせがまれたので、
僧正も感ずるところがあり、式は今宵すぐにと承諾なされた。」
と記している。
私がどこかで聞いた話は、
伯父が慈鎮和尚の元へお連れ申したのが夜だったので、
まだ幼い聖人に明日になってからでも、髪を剃ろうとおっしゃったのに対し、
聖人が詠んだのが「明日ありと…」だった。
その為、得度は、現在でも夜の雰囲気を醸し出すため、
戸を締め切って行うのだという。


ともあれ、聖人の得度といえば、
「明日ありと…」が浮かぶくらい名高い歌であり、
伝承なのだが…、
御伝鈔には載っていませんね…
という疑問から、
この話ははじまる。


中能登町壁屋家に、この歌のエッチングがある。
当主は参事会議員をなさっている。
歌碑は、変体仮名そのままで記すと

あ寿阿りとおもふこゝ路の阿多佐くら
よ者にあらしの布かぬもの可は

とあり、下部の由来には、
次のように書いてある。

「明日ありと…」歌碑由来

歌碑の由来 

宗祖親鸞聖人は 高倉天皇の承安三年四月一日 
藤原氏の一門日野有範卿とお后源氏の吉光女との長子としてこの世に世を受けられ
幼名を松若丸と称した 
然し 幼少にして父君とは生き別れ 
八歳の時に母君とも死別の憂き目に遭われるのであった 
遂に九歳の春出家得度を志し 
伯父範綱卿に導かれて粟田口の青蓮院の門を叩くこととなったのである 
時は将に春の夕刻であった
深く頷きつつも明日改めて出直してくるようにと諭された慈鎮和尚様に対して 
今を盛りと咲き誇る境内の桜を指さして詠まれたのが 
この歌だったのである
果てしなき無常の嵐が吹きすさぶ人生の荒野 
その荒野のただ中で真に安んじて生きることのできる道を開顕せられた
わが聖人の御教えは 
いつの世にも 
いかなる世にも 
光となって輝いていくことであろう 合掌

当碑は 御得度地を記念して
青蓮院の境内に建立されてあったが 
太平洋戦争末期にこの銘板が兵器製造に処せられることとなり 
国家に強制没収された
まもなく敗戦を迎え 
偶(たまたま)幸いにも難を免れて返還されたのであるが 
青蓮院には既に代りの碑が建立されてあった為に 
江州中郡詰所がこれを譲り受け今日まで護持するも 
今般故あり
同詰所の依頼によりこの地に移転 
安置する運びとなった次第である
 平成十四年十月
              真宗大谷派宗議会議員 壁屋一郎
              徳照寺住職 釋 欽恵 記述之

数奇な変遷ののち、
能登の地に安住した「あすありと…」の銘々碑。
故ありと記してある詰所は、
この頃、詰所としての長い歴史を閉じている。

もう1枚の写真は
「江州 中郡詰所沿革略記」とあり、
昭和30年9月に詰所の由来を記し彫ったものである。
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