田の神様・「あえのこと(アエノコト)」画像の謎

神さまの画像は、
柳田国男が田の神様の画像があることを知っていたのに用いず
それがあちこちで引用されているのはなぜなのか?
という問題提起。


『奥能登のあえのこと』の巻頭にその写真が載る。
キャプションには
「両度のアエノコトに、この絵像の前に種籾俵を供えて饗応する」とあり、
本文には「 」…
あれ…?
画像の前であえのことを営む梶家が載っていない。


『神々の原影』では、
「稲の神々ー日本人の労働観ー」
「稲荷信仰の普及」のところにこの画像が載っている。


この書で、それまでに紹介されている画像は、
若い神(稲荷神)が前後に稲藁を担いでいるものが多く、
この画像は老人である点での違いはあるが基本構造は同じである。

『神々の原影』[本文の引用]

三橋(健):先生=西田長男=のお話しのように、
今まで見てきた「稲荷神影」と全くおなじものなのですが、
「田の神様」と呼ばれています。
西田:どこの「田の神さま」ですか。
三橋:いずれも奥能登の「田の神まつり」であるアエノコトにかけるものです。
※以下、三橋氏は小倉学氏の教示によって、絵像を掛けてアエノコトを行う輪島市里町梶家のアエノコトを見てきたこと。
行事の様子を語り、
「このアエノコトに掛けられる「田の神さまの絵像」が、前にもいったように、
老翁系の稲荷と全く同じものであることは注目すべきだと思うのです。」と結んでいる。


ここに見られるように、梶家では、いつからか田の神様として「あえのこと」には飾ってきた。
そして田の神の具象イメージというと、この老神が浮かぶくらい広く知られるようになり、
「あえのこと」を知る人のかなりが思い浮かべる画像となっている。
ここまでが、
私たちが知ることの出来るこの画像の全てである。


この写真を最初に報告した四柳嘉孝氏のお子さん嘉章家には、
どのような新たな資料が待ち受けていたのであろうか…。


柳家に、
嘉孝氏が調査した時に手に入れたこれと同じ写真があり、
その裏に、嘉孝氏の字で次のように記してある。

宮城県岩沼郡
竹駒稲荷神社(東北における本江)
いなり彦の神

南志見村字里
梶氏所蔵
昭和二十六年十月十一日
わじま 松下写真館

 
全てはこれで判明する。
宮城の神社から、「田の神」と聞いて手に入れた稲荷神影を、
梶家では「あえのこと(アエノコト)」の折に飾っていた。

柳田は、元々能登のものではないので、あえて取り上げなかった。
それだけのことなのだ。


と、さりげなく書いたが、
この写真の裏に書いてある文字群を見たときに走った衝撃はすごかった。


始めは、東北の稲荷神なのか、ぐらいのことだったのだろう。
それが、いつの間にかすごく重要な画像となって一人歩きし出した。
なのに、誰も事実に触れることがないまま、
稲荷神と同じですね…とか、
目に見えないはずの田の神が祀られていた、とかいうようになっていった…。


祀られているものを裏返してみることもなされなかったろうし、
梶家の画像に、手に入れた由来がかかれているのかどうかもわからない。


そうだったのだ、こんなこともあるのだ…
呆然とするほど衝撃だった。


この、有名になった画像は現在どうなっているのだろうか?
梶家ではアエノコトは…?
そして、
宮城には、同じ画像が各地にあるのだろうか?


新たなロマンが広がっていく…。

「あえのこと」神画像が飾られてきた梶家の里

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今年の夏8月24日の里の里
ー里という地域。梶家はこの里にあるー