「あえのこと」における「田の神」のイメージ

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「奥能登のあえのこと」所収
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「神々の原影」p221


若い人が書いた「あえのこと(アエノコト)」の書物に次のような記載があった。

民俗学研究所に届けられつつも使われなかったアエノコトの写真は、
野本家(註・写真で最初に紹介されたアエノコト執行家)の六枚目の写真の他に、
実はもう一枚ある。
それは四柳(註・四柳嘉孝氏、この人の調査によって「あえのこと(アエノコト)」のかなりが知られるようになった。
この書物が出来た2001年頃は、ご健在だった)が報告書と共に提出した、
鳳至(ふげし)郡南志見(なじみ)村里の梶家の田の神様を描いた掛け軸の写真である。
稲藁を担いだ老人像。
目に見えないはずの田の神様には、
実は現地においてすでにヴィジュアル・イメージが与えられていたのだ。
少なくとも柳田(註・柳田国男)自身は確実に見ているはずのこの写真は、
なにゆえ表に出ることがなかったのだろうか。(註)。
ここで、柳田が土門拳(註・写真家)に与えた警句を、
もう一度思い出した方がいいのかもしれない。
「そこにまだ考へる余地がありはしますまいか」
「そこには自分を慰める態度がありはしませんか」


不思議な文だ。
この本の書評を頼まれたが、書けなかった。
というより、読めば読むほどイヤな気持ちになって、
書評を書くことによってどんな本だろう?と興味を持ってもらったら困る…
とまで思ったのである。

確かによく調べてある。
若さの持つ元気さも見える。

だが決して書いてはいけないことを書いている。
「若い人」と書いたのは指導者がいたようで、
その指導者が、こういうことは書いてはいけないと指導すべきなのに、
それが全くなされていない。

特にひどいのは、
「許されるなら…」と前置きして
あえのことを報告なさった研究者に対するたとえ…。
「人参を与える柳田国男と、
飛びつく民俗学徒」。
である。

許されるわけがない!

自分は研究者で、
地域で頑張ってきた先輩たちを学徒と表現するなど…
研究者という存在のいやらしさに溢れている…
それで、本を閉じてしまったのだ。

この本が出たとき、
四柳さんは病気がちだったがご健在だった。

その少し前まではすこぶるお元気だった。
「なぜ柳田国男は、四柳氏から届けられた写真の内、一枚を使わなかったのか?」との疑問を持ったのだったら、
ご本人に聞けばすむことだ。

先生(報告された頃は、輪島高校の先生だった)、
どうして『神々の原影』(1983年:西田長男、三橋健:平河出版社)や
『奥能登のあえのこと』(昭和53年:原田正彰:奥能登のあえのこと保存記録編さん委員会刊)の巻頭を飾るほどに注目されるようになった写真なのに、
柳田先生は表にお出しにならなかったのでしょうか?


と、聞かなくちゃならなかったのだ。


四柳先生に習った生徒たちが、
この本の文章に出会ったらどう思うだろう。
私も人格高潔・衆望を集めておいでたお姿を存じ上げているだけに、
腹が立ってならない…。


なぜ、写真が使われなかったのか?
明日のブログで検証する。
「あえのこと(アエノコト)」ー歴史民俗博物館と田中家
あえのこと執行家巡り