2009-03-01から1ヶ月間の記事一覧

中庭のザゼンソウ…

寒さでしばらく前からそのまま。2009年3月23日撮影

あれから一月ぶりの猫、そしてあの猫

飛騨御坊・高山別院照蓮寺蓮如忌(25日)

あちこちのお寺に貼ってあった。お参りが終わってから、記念に一枚もらってきた。別院山門。本堂。ここで法話。左の碑は、開基の嘉念坊善俊上人碑。本堂内部。蓮如忌のお参りは洶五つの重いお勤めだった。1寺40分から3時20分過ぎまでの法話。かなりのお参り…

荒山峠近く・蛇池の白鳥(2009年3月24日)

高山へ向かう途中…荒山峠付近、蛇池の白鳥。2007年10月、2006年10月、同年9月の白鳥

庄川~道宗の道~白川街道~飛騨高山(24日・火)

庄川沿いを上がる。小牧付近。平・下梨方面。赤尾行徳寺。このお寺の開基道宗師は、「一日のたしなみには、あさつとめにかかさじと、たしなめ。一月のたしなみには、ちかきところ、御開山様の御座候うところへまいるべしと、たしなむべし。一年のたしなみに…

お彼岸ーデーター

明け方6時少し前から ウグイスが鳴いているこの頃春彼岸(中日)を迎えた。2月春勧化、3月彼岸、4月蓮如忌と、仏事が季節のリズムを刻む。とはいえ2月22日~28日の春勧化からはすぐのような気がして、本堂裏だけに案内用ポスターを貼っておいた。やはり、とい…

宇出津(うしつ)高校校歌ー千古の雪を遠く見て…

1975年~79年、ここで勤めた。前の羽咋工業の校歌が、作詞・佐藤春夫、作曲・信時潔のすごいコンビだったせいもあってか、宇出津の校歌に対しては、誰の作詞で、誰が作曲したのか、知らない人だ…で終わっていたような気がする。もちろん歌はしっかり歌える。…

直津(ただつ・七尾市)道標

現在の直津の道標。近くで畑仕事をしておいでた長尾さんにお話をうかがった。30年ばかり前は、下の写真の反対側にあったという。この道標に気づいたのは、市史(図説)調査のためあちこち巡っていた頃、もう10年以上前のことである。その時は道路拡張のために…

旧富永小学校・金太郎さん

☞旧富永小ー金太郎5ヶ月で体育館も旧校舎も無くなり、金太郎は校庭の一部に移っていた。ペンキ塗りのおじさんが、猿が後ろにいる…というので本当だ、前に見た時には気が付かなかった、校舎に近かったせいかな…と相づちをうっていたのだが今、10月23日のブロ…

一筋の線ー横川巴人と中村禎雄ー夕刊「舞台」

18日舞台ー「北國新聞」夕刊(PDF)。☞巴人展☞巴人の書画、飯田中学校能登を知る会、未発表の阿部判官画像、石棒、能登を知る会1号に書く予定のおそらく最古の巡礼供養塔、など書いてもいいかな?と思うものは数々あったが、このところ気にしていたことをま…

羽咋川潮止水門

邑知潟の淡水が日本海に流れ込んでいるのが羽咋川である。すぐ側に吉崎・次場(すば)遺跡があり、ほぼ真北2.2キロには能登国33観音第17番柳田観音堂・光泉寺、☞潟と山を訪ねて、西南1キロに第15番岡松山観音寺がある。潟と海を結ぶ水門なので「潮止」水門な…

「能登のくに」準備号 2009年2月1日発行

☞「能登のくに」準備号(PDF)

「能登を知る会」予定、機関紙「能登のくに」準備号

「能登を知る会」の会員は、今日の正午時点で元からの30名に、43名が加わり73名になった。大所帯だ。今後、4月13日(月)午前、宝立(ほうりゅう)3山巡り4月29日(水)午後2時から、講義「嶽薬師と能登の薬師信仰」を予定している。宝立山のほうは、黒峰城主阿部…

白鷹山長楽寺(真言宗・能登町)

今日は今年になって初めての八組坊守会。会所は能登町宇出津(うしつ)因念寺さん。18年前の3月11日の早朝、七尾の病院で父に付き添っていた母から父の容体が急変したとの電話が入り、七尾へ向かった。雪道が凍っていて、鵜飼を過ぎてからの長い坂道を車があが…

滝津神社、河内集落ー穴水町

穴水町下唐古(しもからこ)随照寺さんで坊守会。界隈の風景。挟石(はさみいし)・滝津神社・藩政期ー不動之宮河内集落。初任の羽咋工業高校時代羽咋の町をリアカーで、ぞろぞろ引っ越ししたことがあった。その時、一緒になってリアカーを押してくれた先輩が住…

「中世珠洲焼の甕棺(かめかん)だった」[ひとこと]=末法到来

2009年(平成21年)3月5日(木曜日)☞記事・北國新聞(PDF)取材があったのは3日。電話でのやりとりで仏教史の基礎がないと難しい「弥勒下生」「代受苦」概念を、理解し、書いておられると思う。私は、四耳壺をイメージしながら話していた。能登国33観音札所の鹿渡…

鍋倉孝二郎氏、来たる

鍋倉孝二郎氏とは35年来の知り合いである。(HP)極めて近い関係ではあるが説明が難しいので省略。先日、二人の若者と共に初めて我が家にお泊まりになった。当寺には、上の2作品がある。☞倉本四郎氏と立原由紀生氏(立原由紀生は鍋倉氏若き頃の画名)すでに…

珠洲の御物石器

最初は外においてありその後、しばらく誰でも出入りできる、人のいない場所に立ててあった。これはその頃、2001年の写真。当主がご高齢になられたこともあって、間もなく家人の目に届く座敷にお移しした。☞御物石器のふるさと

石棒ー12年前に出会った遺物との再会ー

あることが気になり、何とかしたいと思いながらも時が流れていく。何とかしたいと思い続けていた一つはこの遺物である。今日、ようやく探し出すことが出来た。私は、行事調査の時は、その集落を歩き回る。風土、人びとのちょっとした会話…その中での行事、と…