森崎和江氏、青木新門氏、『半島 成り剰れるものの悲劇』
6月19日(日)の朝刊で森崎和江氏が15日に95歳でお亡くなりになったことを知った。氏には『能登早春紀行』などの著書があるので、その他の著書に何があるのかまとめようとしたその日の15時8分、震度6弱の地震に襲われた。
仕え棒をあてたり、だいたいの復活は済ませたのだが、ちゃんとした並び替えはまだだし、ブログに書くのは先のことだと思っていたのだが、今日の朝刊で、青木新門氏が昨日還帰なさったことを知った。
記録して記憶にとどめておこう
能登に触れた作品で、ユニークなものに、塚本邦雄氏の『半島 成り剰れるものの悲劇』がある。
この書物は、週刊ポストの「ポストブックレビュー」(1982・昭和57年3月26日号『ポスト・ブックレビューの時代 倉本四郎書評集下』ポスト・ブックレビューリストによる)で紹介され、それを機に買って読んだはずだが、義兄の倉本四郎が書く書評が秀逸で、半島能登の三部作まえにある、序章乃至は総括部にあたる「Peninsula」の切り込みがすごかった。
森崎氏の書は、編集者の所為だろう、目次の地名からして間違いが多く、そのことがかえって旅人の哀感となって記憶にとどまっていた。
からゆきさんで知られた著者だが、私には『能登早春紀行』が浮かんだ。
青木新門氏
北國新聞2022年8月7日㈰朝刊
氏のFB「念仏広場」では、7月10日が
朱鷺の里の句碑ー湖景山西光寺さん、千里浜なぎさドライブウェイ・万葉歌碑
7月31日(日)
寺伝に羽咋弥公の後裔 僧となり、延暦年中羽咋郡千石村に真言宗西光寺を建てしが延慶3年真宗に転じ 慶長年中さらに其の大谷派に属せり。
其の後金丸に来住し、天文七年復た今の地に転ぜりと
とある。
西光寺さんの目の前は七尾線。
近くに能登国33観音巡礼札所第7番柳田光泉寺があり、そこの御詠歌は
「補陀洛の風に浮世の雲晴れて、影澄み写る柳田の月」であり、
邑知潟の景は観音浄土・補陀洛世界と意識されていたほどの絶景であったらしい。
西光寺も比叡からの琵琶湖を想わせる「湖景山」であり、特に月澄み渡る光景の素晴らしさが想像される。
この一帯の真宗7ヶ寺の前身は泰澄建立の仏生山天平寺(観音寺)であり、金丸天平寺は札所第18番になっている。『能登国三十三観音のたび』から引用する。
※「ぶらりスケッチ」は上陽子氏執筆
西光寺を含む金丸七坊は眉丈山にあった。秀麗な山なみには本州最後の朱鷺が生息していたことで知られる。
この西光寺はまさに眉丈山系の中心地にあり、かつて12組門徒会の講師をしてたときここが会所だったので、境内を散策したとき朱鷺に関する句碑があったことが気になっていた。その時は草に碑が埋もれている印象で、朱鷺の句碑があっただけの記憶なのだけれど、この日は時間も充分あるので、じっくり碑を見ることが出来た。
どなたがお詠みになったのかは、前坊守さんが調べておられたので、一応ではあるが対応させていただく。
句碑の建つところは朱鷺塚といい、昭和49(1947)年3月31日、「蟻塔会(鹿島路句会)」の方々によって建てられた。
私ごとではあるが、昭和49年は初任・羽咋工業高校3年目でその4月に宇出津高校に変わっており、間借り・下宿生活を終えた最後の記念すべき時だった。バブルの絶頂期に向かう頃で、碑が建てられたのも世の高揚期と関係しているのかも知れない。
能登に生息する最後の朱鷺が捕獲され、佐渡に移送されたのは昭和45年1月のことだった(『能登のトキ』村本義雄著)。
碑が建てられたのは、朱鷺の鳴き声が眉丈山麓に澄む人々の耳に残っている頃だったのだ。
花吹ふき
顔ふく
朱鷺の 声しのぶ
鹿秋(北野友次郎)
夢の鳥
トキ棲み
絶えて
月 虚し
紅果(塩田親雄)
※「月」の文字が三日月となって句を照らしている。
その
むかし
朱鷺すむ
山の
松時雨
呂秋(備後徳次郎)
「朱鷺塚」 鐘楼手前
※正確な、句の読み、作家との対応は今後に…。
千里浜なぎさドライブウェイ・万葉歌碑
鹿島路へ向かう前に、なぎさドライブウェイによった。
一時期、ゴミ捨て目印ぐらいに埋もれていた「万葉歌碑」が、奇麗に佇んでいるのを見て、しばし感傷にふけった。
向こうの山は能登の熊野とでもいうべき宝達山。気多を始め宝達山の遙拝地は多い。
碑面 趣参気太神宮行海邊之時作歌一首
辻乎路可良多太古要久禮婆波久比能海安佐奈藝思多理舩梶母我毛 家持
(志雄道から直越え来れば羽咋の海 朝凪したり舟梶もがも)
側面 羽咋市郷土研究会 昭和三十七年十一月建之
西仙関氏著『ふるさと紀行 能登の家持歌碑めぐり』が詳しい。
車、釣り人、泳ぐ準備をしている人など周りは賑やか。だが、どうしても車種・NO等が写ってしまうので、海鳥の寄る来る渚、と鳥に代表してもらった。
鹿島路でのお話を終え、ズー―と気にしていた金丸~上棚道を車で走った。
金丸天平寺時代の修験の道だろうし、くねくねと細い道には古い時代の足跡もあるのだろうが、今となってはひたすら狭い一本道が延々と続くのみ。
この道を走りたかったのは、羽咋市白瀬豊財院の重文三観音(聖・馬頭・十一面)が
上棚近くの矢駄観音堂から元禄元年に移っていることもあって、この山道を気にかけ続けていたのだが、
今年50回忌を営んだ金丸から嫁いだ義理祖母の関係者を調べていて、祖母の妹が山道を越えた上棚に嫁いでいたことを知ったことが大きい。山を隔てていて遠いとはいえ、金丸・上棚は隣村なのだ。
車の中は涼しいとは言え、日差しが強く日に焼ける。
29日~31日のあちこち巡りは、ちょっとした脱水状態となり、
疲れた。
新木榮吉先生記念碑(芦城公園)、倶利伽羅、石の木塚、静照寺さん、(能美市ふるさと研修センター「さらい」)、仏御前の里、小矢部称名寺さん、氷見~羽咋
倶利伽羅の朝焼け 4時半。
29日(土)。暑い中での定例勉強会を終え、30日能美市に向かうため、倶利伽羅に宿を取った。宿舎から見た朝焼け。
かつて調査した根上町とも関係があるため、旧根上町を通るコースで小松に向かった。
ここは石立・石の木塚。8時
新木栄吉記念(顕彰)碑
10時半から能美市ふるさと研修センター「さらい」というところで用事があるのだが、早めに小松へ向かったのは、芦城公園内に、「新木栄吉」氏の碑があることを知っていて、一度は実物に会いたいと思い続けていたのを、この機会に実行するためだった。
早く公園近くについたため、先ず車をどこに停めていいのか分からずあせり、なんとか公園に入ったのはいいが、ざーっと歩いてみても、パソコンで見た顕彰碑らしいものに出会えない。
公園を歩いている人に、アラキエイキチさんの碑はどこにありますかと聞いても、そう広くはない公園なので、お探しになられたら、と親切におっしゃってくれるのだが案内板も無く途方に暮れてしまった。
そこで、栄吉氏の姪御さんである元の教育長・矢原珠美子さんに電話し、場所を聞いた。
何度も歩いた場所に、それはあり、記念碑のある築山に珪化木の案内があるのに、「新木」の「あ」もない。
私が今まで出会った顕彰碑の概念を越えた顕彰碑だったのである。大きすぎて気づかないとでもいえばいいのか、次の写真の向こう側ブロックが全て「あらきえいきち」碑上部だったのである。
矢原さんが教えて下さった、本陣記念館前の道路右の、最初の築山がこのあたりである。奥の方にコンクリートブロック、レリーフのような物が見える。
側へ近づくと、次の3コーナーになっている「新木栄吉近年碑」に出会えた。
栄吉氏のレリーフを中心に、右に「新木榮吉先生記念碑」文、右は「昭和三十五年九月二十日」とある市の顕彰碑建設経緯?である。
顕彰碑には次のように書いてある(墨が落ちているためよめないところがある)。
新木榮吉先生記念碑
(四行略)
新木榮吉先生は誠に斯の徳行の士の典
型であった。先生は明治二十四年旧小松
町に生まれた 大正五年東京帝国大学を卒
業して日本銀行に入り 其の人物材幹は
模範として 年と共に重きを加え幾
多要職を歴任した後 日本銀行総裁に推さ
れ 時あたかも戦後の紛乱に方り 日本財
政経済の収拾 肝謄を砕き 辞任の後東
京電力の会長となり多難な斯界の経営幹施
に當り其の後選ばれて戦後初代の駐米大
使に任じ 其の徳風を以て米国朝野の信
頼を集め 帰来再度日本銀行総裁として
終始日本経済の良心復興の柱石とも称
せられる存在であった 其の景迎すべき
生涯は昭和三十四年病を以て東京の私第
に終った 世寿六十有七
先生は若くして已に長者の風格が有り
身を持すること謹厳にして篤く道に志
し 敬虔な宗教的信念を以て 祖国と同
胞との為に献身的努力を竭し 而も終始
謙虚で 清楚人を薫ずるものがあった
誠ほど明らかなものはない 先生没後
日ならすして先す郷堂より追慕の聲興り
茲に是の生誕の地に記念の碑が建立せら
れることになった
太上は徳を立つという真理を深く後人に
感悟させるものである
昭和三十五年九月二十日
※新木榮吉の老後を描いたドキュメントエッセーに、妹・沖谷敏子著「葡萄」(小松文芸賞受賞作品・昭和55年3月「小松文芸」28号・後、沖谷敏子句集『外套』平成8年所収がある。)
※「敬虔な宗教的信念」ー元治元年(1864)年生まれの榮吉の母は、篤実な真宗門徒だった。30日北板津組役員(能美・小松)さん対象の講題を「妙好人(御同行)に聞く」としており、前々から御同行のもとで育った「新木」さんの顕彰碑を実見したいと思って朝早く公園を訪ねたのだった。
出典『石川県大百科事典』
土室山静照寺(徳久町)
研修までにしばらく時間があったので付近を周遊した。蓮如上人由緒寺。
仏御前の里
講演後に、「五逆罪」関わりで話した「仏御前の里」を通って、鳥越近くでおいしくお弁当をいただいた。ともかく暑い。
真宗寺院(道場)の理想の一つを常説教場と考えている。お朝事にお勤めするご和讃について、毎朝よりかみ砕いてお話しする。蓮如上人はそのような日をお過ごしになったようで、「御一代記聞書」に、その様子が語られている。
常説教場は金沢に13説教場が有り、最後の説教場が閉じられたのが平成8年頃だった。
その後、毎日の説教を、金沢別院が引き継いでいたが、現在はどうなのだろう。
常説教場を調べていた頃、小矢部市の称名寺が常説教場に近い働きをしている、ということを聞いたことがあった。
31日には羽咋市に用事があり、羽咋に宿舎を取っておいたので、小矢部の称名寺さんを見てこようと思っていたのを実行した。小矢部市役所すぐ近くのお寺で、町中であるため、駐車場からお寺へ向かうまで、どっぷり汗をかき、多分に脱水状況だったのだろう。へばった。が、願いがかなって、勿体なかった。
小矢部市本町称名寺さん。本町一帯は寺町で、寺院群の一帯だった。
例年なら、7月終わりに、夏休みを兼ね城端、井波別院へお参りに行くので、小矢部小矢部へ出向いた、という気分。向拝彫刻も見事。
夏ー春日中学校跡散策
今年は百日紅の花開くのが早い。7月26日。これが5日後8月1日―すねわち今朝だけど猛暑によってこれだけ多く・深い赤になっている。
私たちが学んだ春日中学校(緑丘中学校と統合し廃校)の運動場一帯に飯田小学校がある。校門近くまで行ったことはなかった。
この彫刻の名は「敬愛」。野畠耕之介作。昭和49年(1974)3月制作の像で、1973年10月飯田小学校創立百周年記念と題名は合わないが、百周年記念に依頼し、作品が出来たのが翌年だったのだろう。
地震の後始末と、古い本の整理を続けていて、1冊ごとにパラパラと捲っているのだが、春日中学校時代に使っていた音楽の副教材に校歌がみつかった。卒業アルバムも無く、名簿も存在せず、中学生時代は、記憶にしか残っていないのだけど、校歌が記録されいていたとはー小さな奇跡だ。
応援歌「友よ立て」(♪春日春日春日…友よ立て)はよく歌ったので覚えていて、旗の振り方まで記憶しているが、校歌はふーんという感じだ。
覚えにくそうな、中学生に取っては難しいのではないかと思える曲だし、作詞が川口久雄であることにも驚いた。
はじめて名を知った「野畠耕之介」、漢文学者で著名な川口久雄。氏は平時忠の歌碑の指導もいておいでる。
身近なところに文化があふれている、と感じたミニ散歩の朝だった。
『日本列島の原風景1 山岳まんだらの世界』
ブラタモリー「能登半島」ーなぜ能登の風景は人の心を打つのか?ー16日放映
午前中、地震被害の書庫の整理に書斎にいたら、ウグイスが奇麗な声で鳴いてるのを耳にした。
部屋に帰るとき、初めて蝉の声を耳にした。
昨日は新暦のお盆。市年金者連盟の追悼会を3年ぶりに営んだのだが、本堂内陣の半ば落ちかかっている白壁の漆喰部分を急ぎ取り除き、外陣の壁の剥がれ落ちそうなところの参詣席を避けて参詣席を設けるなど、目に見えない準備も多く、暑さとでへばりがちになる。
14日、すなわち一昨日だが、富山にいる幼なじみからメールが届き、今日のNHK番組ブラタモリで能登を取り上げるから見なさいよとあった。
調べると、旅のお題「なぜ能登の風景は人の心を打つのか?」を探る。とあって千枚田や揚浜塩田などを取り上げるらしい。
夜7時半から、見慣れた能登の光景を、真脇遺跡縄文館館長の高田氏(教え子なので高田君)や角花さん等が、軽妙に語り、案内していく。
波並大敷の説明では、ウーーンと唸ってしまうくらい説得力があった。
わたしも、四月にNHKの上坂ディレクターさんと、能登の文化的歴史・民俗などを話し合っており、共通点もあるなぁーと見ていたら、終わりに私の名が出てきて、ディレクターさんの名も同じ。
この番組を作っておいでたのかと、見終わってから知った。
幼なじみのメールがなかったら、見ないで終わったかも知れない。
一昨日、ディレクターさんから携帯に電話があったのだが、寺役中でかけ直したときは通ぜず、忙しい方だからとそのままにしていたのが、このことだったのだろうと納得している。
それにしても、いい番組をみせていただいた。
この番組で案内役を担っていた高田氏の真脇遺跡縄文館に、6月9日に団体でたずね分かりやすい説明を受けている。その準備時のブログがこれだが、上坂ディレクターも様々な表情を持つ、能登の自然を選択するのにご苦労なさったことと思う。
住んでいる者としてあらためて感謝申し上げます。
千田一郎(一路)氏
5日にご逝去なさった。92歳。
冬季間冬の間、当家で下宿なさっており、お嬢さんも高校生時代、冬季間下宿していた。
色んな思い出があるが、
『源平盛衰記』に載る平時忠の和歌を烏川上流、伝時忠子孫・則定家近くに建てる時、祖父がやはり平家子孫と伝える若山大坊脇田家出身の山口誓子氏に揮ごうを依頼し、伝時忠歌碑を建立の中心になったのが千田さんだった。
平時忠歌
白波の
打ち驚かす
岩の上に
寝らえで
松の
幾夜
経ぬらん
山口誓子書
とある。
『伝説とロマンの里ー北能登の風土と文化ー』に、
『源平盛衰記』によれば、時忠は「白波の打ち驚かす岩の上にねいらで松の幾夜経ぬらん」と詠んで都を偲んでいたが…
と書いたように、「盛衰記」は「寝らえで」ではなく、「寝いらで」が一般なのである。
千田さんは、そのことを気にしておられ、この歌を指示した著名な研究者(川口久雄氏)に聞いたところ、当時は「寝いる」という用法がなく「寝らゆ」なので、そうしたとのことだったそうだ。
千田さんは、やはり納得ができないままだったようで、研究者の指示でこうしたのだと話しなさったので、書き留めておく。
ちなみに、私が昭和54年(1979)に某大学の学術研究に加わって西安に滞在したとき、通訳の方が、
この先(敦煌方面)へいった日本人は3人しかいない。
井上さんでしょう。平山さんでしょう。川口さんでしょう。
と指折りながら語ってくれた。その川口さんが歌碑の指導をなさったのである。井上靖、平山郁夫と並ぶ人が、この歌碑に関わっていたのもすごい話だ。
その時、千田さんとは、ほかで使われてなくても、盛衰記にありますよと盛衰記に従えばよかったのにね…と、ボトツキ合った気がする。
その後、千田さんは大きな存在になっていき、取り巻きも多くなっていったが、このことから、ずーっと誠実そのものの人柄を思って今日まで来た。
参考 山口誓子、寝らえで…などを使った授業試み
6・19地震後
19日は、頼まれていたお参りをし、その方にお手紙を書いているときの揺れで、ちょこちょこやってきていた群発とは違い、大きく長く複雑な揺れだったので、まず御本尊の様子を確かめるべく本堂へ向かおうとしたのだが、書斎の書棚が倒れていて足の踏み場もなく本堂へ向かえない―ところから騒動が始まった。
話は飛ぶが、
ブログをアップしなかったのは、片付けが続いていることもあるが、windows11にアップしたところ相性が悪く、ここまで打つのに3度も再起動されそのたびに長い間待たねばならず、暑さ、筋肉痛と相俟ってじれったさまで加わるので、起動するのを待つくらいなら被害箇所がどうなっているか見回る。そうこうしているうちに今日になった。
それにしても熱い。
30数度の暑さや夏そのものの雲を見ていると、この暑さだったら、セミの鳴き声と調和する歌をハミングしながら、どこか暑さを楽しんでいる自分がいるのに、無声映画の夏の気分だ。
6月30日
隅田の花火というのだそうだ。6月27日
28日御命日朝。正面に消防署の防火用水がある。その周りの地盤が沈んでいたので地中がどうなっているのかはっきりするまで、立ち入り禁止にしてもらっている。それで、その奥の車庫への車出入りは禁止。棟の土が少し落ちているが、ずれていないので雨漏りは無し。
自称書斎と別宅の臥龍文庫の書棚を数えたら68個あった。幅の広いのや天井までの括りつけもあるので、70個ととして平均300冊入るとして、少なくとも2万1千冊になる。寸暇を惜しんで、けいれんが起きそうになってもつい片付けになりそうなので、この間何度か会議などに出かけた。
突っ張り棒が利いていたので、ほぼ充てて補強したが。硬いスチールなどは撤去し、低い位置に並べるのに越したことはない。本を積み上げる読書好きイメージとはおさらば。ただ、床に落ちた本が書棚に戻って元に近づくにつれ、夢の一つだった「古本屋さん」になっているような気がして、人知れずこころが弾んだ。
織部灯籠。これが倒れるのは2度目。あるのさえ忘れていたので、このままにしておく。
それにしても日曜日の昼。近くの神社の鳥居も倒れたのに、ほとんどけがした人がいなかったのは、もったいないことだった。
この記事の真宗住職は私のことのようで、この日、同朋会推進員勉強会の日だったので、「時鐘」にふれることもあるかも知れないと思い、念のため記者成りたての頃、珠洲支局にいて、今、論説委員になっている方に電話した。
今日は地域によって盆の入り。
しんしんと 遠田のかはづ天に聞こゆる
8日に親戚の前坊守さんのお通夜にお参りした。
通夜説教を聞いていると、シーンとした御堂にマイクの声と調和しあうように蛙の鳴き声が聞こえた。
そのお寺はあえのことの田の神様画像もある田園地帯にあり、坊守さまを送るのに、いかにもカワズのネがふさわしく、遠田の蛙〜に聞こゆる…だったか、茂吉の歌の「死にたもう母」をはじめとする一連の歌を断片的に思い浮かべていた。
尊いお話ではあったが、お説教の声がカワズの声に呼応しているように思われだし、私がこの場で語るなら、雨期の安吾までも彼女からの贈り物として語るだろう、とあらぬことまで考えながら、又従兄の連れ合いだった方の89歳の御生涯を偲んだ。
そして、昨日(16日)の夕刻、渡り廊下で小さな蛙がいる!の声で、のぞくとアマガエルが一匹いた。
池がないのに、いつも、この時期になると蛙の声が聞こえる。
昨夕は、アマガエル。一週間前のお通夜の蛙の声を思い出し、茂吉の歌を調べた。
- 死に近き母に添寢のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
- のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて垂乳根の母は死にたまふなり(『赤光』)。
歌集『赤光』は、阿弥陀経の「池中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光 微妙高潔」の「赤光」ら名付けられている。
極楽浄土の荘厳、金色の本堂内陣に仏の極楽での袈裟・豪華な七條袈裟に覆われてこの世の最後の夜を過ごされた前坊守さん。
昨晩は3日に息を引き取られてから「ふたなのか(27日)」だった。
同じ在所にある「田の神さま」画像
これを読めば、場所をぼかしていたのにどこであるかがわかる。つい先日のできごとなので、とりあえずぼかしておいたのだ。時の流れは多くのことを報謝に変えていく。
と、ここで、『日本民俗学』を整理していたら、239号ー特集 日本民俗学の研究動向(2000-2002)に由谷裕哉氏が書いているのを知った。読んでいくと、最後にここに書いた書物に触れておいでる。いまさらだが、2004年にちゃんと問題にされていたのだ。引用する。
最後の最後に「西山に対しても、かなり無神経な形容を付しているのである(二五六頁)。」と私をとりあげてくださっている。遅きに失したが、日本民俗学会から書評を依頼され、違うとか、失礼とか?の書き込みだらけで結局書評は書かない方が筆者のためだし、出版社のためだろうと仕舞い込んであった本を引っ張り出して、そのページを見た。そこには「郷土史家西山郷史は…」と書いてあった。
四栁先生たちは「学徒」で、若き誰一人聞き取りをしていない本人は「ビジュアル系民俗学者」だそうで、膨大なデーター分析を試み、高く評価している写真家の表紙に用いた写真は、アエノコトのやらせ写真である。
根拠を書くと、当主が執行するアエノコトなのに表紙に用いられて著名な写真家の写真は主婦が執行し、当主はじめ家族は周りに正座している。この舞台は農村ではなく半農半漁の集落で、アエノコトの頃には当主は漁に出ていて主婦が当主代理として儀礼をおこなう、いわば特殊なアエノコトの写真であり、そこに当主が写っているのは、晴れがましい舞台、著名な写真家に撮ってもらう記念すべき場なので加わったーそのような写真なのである。
時々、よく似たゴウマンな立ち位置からのいわゆる「学者」に出会うことがあるが、「愚昧の今案をかまえず」(「御伝鈔」親鸞聖人のことば)、学ばせていただいている「愚昧」のわれらであることを、いついかなるときでも肝に銘じていきたいものだ。umiyamabusi.hatenadiary.com
日野西眞定さんと能登の教え子
真浦からの夕日 2020年11月28日午後5時17分撮影
本でもお出しになったのかな?
それにしては少し薄いか、と思いながら、封を開くと、
お手紙と高野山関係の新聞二部、『大法輪』の今月号が入っていた。
お手紙には、大法輪に書くよう依頼されて書いた文に「貴師の論を使わせてもらいましたので」送るとあり、
「昨年7月以後は、奥の院維那から離れ、研究一本の生活」に戻られた旨が記されていた。
『大法輪』は父の代からずーっと取っている。
積ん読状態で、
今月号も表紙を眺めただけで、まだ一度も開いていなかった。
日野西さんが書いておいでることにも気づいていなかった。
同じ雑誌が二冊あるのはどうしてか、そのうち訳が分からなくなるのは必定なので、
書き留めておかねば…と書きだした。
引用なさったのは次の箇所である。
恩師の五来重先生、
大先輩の日野西さん、
ちょっと先輩の浜田さん、
それに私が同じページに並んでいる
その時代の仲間がいたら、想い出にひたり切りになりそうになるページ設定だが…
それはおいておいて(蓮如上人は歴代の数え方によって八世、七世があるが、私の所属する大谷派では八世なので書き換えた)。
日野西さんが高野山奥之院(現在は「奥の院」を使っているようだ)の「維那」という役職に就かれているのは、賀状などで知ってはいたが、
入定中の(入滅ではない)弘法大師に、人に知られることなくお仕えしておいでるのだろう…ぐらいの認識だった。
宗教民俗学会でもお会いしたし、この前の日本民俗学会でもお会いしたような気がする。
だから、どんなことをしておいでるのか、お聞きすることもなかった。
読み方も分からない。
でも、ここでも「前」の維那になっているし、気になった。インターネットでさがした。
ユイナと読む。
そして、次の記事のような、
私の知らない日野西さんがあらわれた。
昨日の日付はスキャナーに取りこんだ日付で、写真及び以下の記事は、佐藤弘弥さんのブログ早春の高野山」2007年1月27日撮影から転載させていただいた。
そして、2006年9月13日の毎日新聞の記事の引用。
さらに「金剛峯寺奥の院・日野西真定維那に面会したコーヘン大使とバース参事官」という写真まであるではないか。
大変なお仕事についておられたのだ。
ご苦労様でした、としかいいようがない。
同封されていた新聞には、「鎌八幡」の行事を書いておられる。
能登の諏訪神社「鎌祭り」と同様の行事のようである。
このページ(高野山の文化「巡寺八幡について」の3ページ目「霊峰館だより」第86号、昭和20年3月4日刊)に、加能民俗にお書きになった小倉学氏の説を紹介されておいでる。
しっかりした研究報告は、このように、論を知る人を通して紹介され、伝わっていく。
そんなことも思った。
もう一部は「高野山教報」1419号にのるもので、
ここには「高野山各院の門前に祀られる「手水鉢」と「手水桶」」を書いておられる。
研究一筋とおっしゃる、まさに。一筋の世界が伝わってくる。
日野西さんに触れたついでに、手元にある著書。
『弘法大師信仰』は買ったが、『高野山民俗誌「奥の院編」』はいただいたはずだった。
どういう形で頂いたのかは覚えていないが、ともかくいただいたのだ。
スキャナー読み取ったあと、表紙をめくると
「平成六年(1994年2月9日)アエノコト(あえのこと)調査 日野西氏より受贈」とメモ書きしてある。
日野西さんと「あえのこと」を見に行っている?
能登に日野西さんがきていった?
(記憶欠落はここまできている)。
どこの「あえのこと」だか覚えていないが、日野西さんが能登においでた背景をジワジワと思い出した。
氏が高野山大学の教授時代、町野高校から高野山大学に行った学生がいた。
ただひとりの学生に対しても、日野西さんはすごく大切にしておいでた。
それが、彼が能登に来てくださいという願いに応えての調査行だったのだ。
その時、ちょっとだけお会いした、そんなことを思い出しだ。
さらに、
あれは、曽々木の海岸近くだった。
あの時、その学生も、その母親もいた。
願いに応えて先生がきてくれた。
嬉しくてたまらない、といったふうで、興奮していた学生の様子が
ぼやーと、今蘇っている。
学問、教育者、維那、いずれにも真剣に向き合ってこられ、その延長上に、83歳になっておいでる今も益々学問に情熱を注いでおられる。
人生そのものの誠実さが、報告書や研究成果の行間を補い、時にはにじみ出てくる。
研究されてこられた報告が次々と世に出ることを願わずにはおれない。
稀有な先達から届いた、春の便りだった。
思い違いもあるが、教え子の願いに応えられたことには違いがない。
私は、2018年4月に 『妙好人千代尼』(法蔵館)出版のお礼を兼ね、念願だった京都から福知山・宮津を旅した。
その時、宮津からさらに日野西さんの自坊である豊岡市西光寺へ行って、師の生きた地を歩き、2年前の3月に還帰なさった師を偲びたいと思ったのだが、何日も旅できる身ではなくーというより1日でも歩くのに難儀する身となっていたので、思うだけだけだったのだ…。
などなど、曽々木出身のk君(氏?)が訪ねてきてくれた縁で、色んなことが偲ばれた。
k君が訪ねてきたのは、彼らは真浦地区で「現代集落LAB」というサロンをやっていて、そこの関係者に対して、話をしてくれないかということだった。
日野西さんの縁だ。喜んで協力します。
真浦光景
法語カレンダー(真宗教団連合)6月-”あたりまえだ”と言うて まだ不足を言うて生きている(松扉哲雄師)
2015年に能登教区第2組の住職研修の講師をした折、松扉哲雄(1919〜1999)師のお寺・明円寺さんの後継の方にお会いした。松扉師との出会い・いきさつは貼り付けた過去記事「簡単にいうと―松扉哲雄さんとの再会ー」に書いたとおりだが、その日をきっかけに、松扉さんのお寺を訪ね、師の蔵書に触れるのを楽しみにしてきた。
その師のことばが、今月の法話カレンダーを飾っている。
師と師の環境をある程度知っているのだから、今月27日の「同朋会推進員会」で話さない手はない。
法語はどこで語られ、その後の背景に何があるのかを知らないと、私たちよりはるかに広く深い経験や学びから紡ぎだされている「法語」を誤解したまま、分かったような気分で受け止めてしまうかもしれない。
そうしないためには、できるだけ松扉師を知り、できればこの言葉が紡がれた背景(著書があるなら著書を読む)を知らなければならない。
勉強会まで日があるので、じっくり松扉師の著書を読むことにしよう。
と、ブログの過去記事を見ると、
松扉さん世界を知りたくて集めた著書が、少なくとも「簡単に言うと…」に8冊、哲雄師と願いを受け継がれたご子息・博ご夫妻が師の世界を次々に書籍になさった「自知叢書」など12冊、合わせて手元に20冊もの御著書があることがわかった。
真宗10派
これだけの御著書があり、これ以外に私の手元にないものあるだろうし、この「”あたりまえだ”と言うて まだ不足を…」を著書群から見つけ出すのは至難だろう。
まあ、27日の勉強会近くまで松扉さんワールドを楽しもう、ぐらいのゆっくりした気分で著書を繙こうぐらいの気持ちで、手元の著書を取りそろえ、松扉さんに電話して法語カレンダーにお義父さんの言葉が載っていますねーと思い出を語り合った。
流石!というべきか、松扉さんは、あの言葉は初期の本に載っているじゃないのかな?
『深く生きる』かも知れない、とおっしゃったので、メモを取りながらじっくり読んでいった。
すると、東野義雄先生が松扉さんの自坊・明円寺においでになったとき話された「九十歳を過ぎた老夫婦の思い出」話を受けて、お書きになった言葉だったのである。
※50ページに載っている。
『深く生きる』はもう手に入らないだろうから、ページを追って登場する人々・書物などを挙げておく。
法語の背景を味わいたい。
五十がらみの門徒の父ちゃん 4
善導 『往生礼讃』「日没無常偈」 8
中国のお百姓さん 7
東昇先生 西元宗助先生 池山栄吉先生「絶対他力と体験」 11
豊臣秀吉 辞世の和歌 15
『出遊経』『南伝大蔵経』 17
高楠順次郎先生 17
自殺なさった老人の手記 21
『法句経』 22
孫兵衛というおじいちゃん 23
『清沢満之全集』 30 清沢満之先生 30 147 『我が信念』 79 149
『沈黙は雷の如し』『維摩経』 32
お釈迦さま 33
ハイデッカー 34 123
『正像末和讃』 39、40、43
高光一也先生 41、43
今東光という人 45
亀井勝一郎『愛の無常』 45
『大経』 48
見真大師 48
東井義雄先生 49 「支えられてわたしが」57 72 『根を養えば樹は自ら育つ』 76、88
九十歳過ぎの老夫婦 49
<“あたりまえだ”と言うて、まだ不足を言うて生きている> 50
五十からみの母ちゃん 52
『小経和讃』 66
『歎異抄』 67 第九章 143
戦争で主人を亡くしたカアちゃん 69
花田正夫先生 『歎異抄―私の身読記-』 71
曽我先生 78
平沢興先生 85
荒井(良)先生『胎児の環境としての母体』 91
「ねえおとうさん」(不明) 92
六十五、六歳のおばあちゃん 101
仲使いさん 105
昭和二十年女学生三年生であったお方(被爆者) 110
九条武子夫人 短歌3首 112 122 123
ヘルマンヘッセ 114
石井完一郎先生 『青年の生と死の間』 115
孫悟空 121
平維盛という方 和歌 123
わたし達の先生 124
曇鸞さま 124
小田実という小説家 『宗教を現代に問う』三冊目対談 126
『三帰依文』 129
道元禅師 131
『人間成就』「さようなら」作文 十六歳の女の子 132、134
高見順というお方 『死の淵より』 139
『末燈鈔』第十二章 142
米沢先生 150
金子大榮師 159