抜き刷り整理

ようやく「抜き刷り」の執筆者ごとに整理できそうなところに近づいてきて、

執筆者氏名に従い、行ごとに積んでいった。

次に県外、県内ごとに分けたところで、気分転換に一旦雑誌・文庫・新書分類へ。

 

話は変わり、5月26日、27日に蕗畑の蕗を刈っていただいた。

春先に蕗畑のツルを徹底的に抜いていたので、蕗を刈った後の蔓がなくなり、代わりにその場所に茗荷が成りだした。

次の写真は蕗畑ではないのだが、茗荷に赤い花が!

と一瞬思ったので撮った。

 

すぐこのあたりに茱萸の木があることに気づき目線を送ると実が成っている。

茱萸が茗荷の上に落ちたのだ。

それにしても季節の移ろいのはやいこと。

茱萸(グミ)

抜き刷り

調査をしだしたころは、抜き刷りを貰ったり渡したりする人とはどんな人なのだろうと思っていたものだった。

父の机に「宮本正尊」氏の抜き刷りがあるのを見たのが最初だった、と思う。

どうして?どんな人?と聞いたのだが、答えは得られなかったままだ。

多分、父親は、「(いつものようにサトシは)どこかへもっていって無くしてしまう」と思っていたのだろう。

 

それにしても、ずいぶん頂いたものだ。

 

ところで、一方私の方はというと、

珠洲市史に関わったおかげで、書いた部分の別刷りを何冊かいただいた。

昭和53年3月刊とあるから、私が31歳、宇出津高校で3年生を担任していたころだ。

そのときは、へー!こういうのがもらえるのだと思った程度だったの記憶なのだが、どうすればいいかわからず、大谷大学国史学会があったおり、五来先生と佐々木孝正さんに、こんなの書いた…とお渡しした(ような気がする)。

その時、横に父の学生時代助手だった関係で最初に大谷関係で挨拶した藤島先生がおいでたのに、余分がなくて差し上げられず、気まずい思いをズーーと引きずった。

市史では個別寺院史の一部も書いたのだが、これはゴーストライター(?)扱いで名が乗らず、従って抜き刷りはない。

その後、抜き刷りをいただくと、お返しを続けていたが、

私自身が研究職ではないのに…の思いが抜けず、在野の民俗仲間が徐々に去っていく頃、私も抜き刷りを作ることを辞めた。

抜き刷りを作らなかった「論」の最初が2003年『宗教民俗研究第13号』に書いた「天神として祀られた藩主ー加賀・能登越中天神信仰ー」である。

これは、私としてはまあまあ書けた内容だったので、惜しい気もしたが、徐々に、静かにこうような世界から退いていったはずだった。のに、それから、数えで20年経った。

こちらは、この4月にいただいた松崎憲三さんの「長野県下の祇園祭りー津島神社系を中心にー」(「信濃」第74巻第3号)。

 

ある程度の整理が終わる日がくれば、次に進めるだろう。

笹波高瀬宮ー石神、弁慶石、寄り神石など

29日(日)西勝寺同朋婦人会研修旅行をおこなう。

その案を作ってから、下見に出かけたのが9日(月)で、「内浦海岸散策-比那〜宇出津」と題して、このブログに乗せた。この時、久しぶりに宇出津天呑の宮跡の巨石を見たこともあって、3月16日の河原恵里香さんのFBで知った富来笹波高瀬宮の巨石を見ようと思い続けていたのを、翌日・10日に実行した。

最初の予定では、9日に笹波まで行くはずだったのだが、長いこと運転していなかったために疲れたので、運転慣れもしなければと考え翌日にしたのだ。

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中部地方の石の民俗』昭和61年2月5日 明玄書房刊

石にはちょっとしたこだわりがある。というのも、38年前に『中部地方の石の民俗』で「石川県の石の民俗」を書いたことがあり、その後の市町村史でも、伝説を書く折には「石」に触れてきたこともあったので、県内の著名な石はほとんど知っていると思い込んでいたのに、「高瀬宮と石」については河原さんのFBに出会うまで全く知らなかったのである。

その時の写真を見る限り、かなりの山中にあるのだろうと思った。河原さんに連れて行ってもらうのが最良なのだろうが、天呑の宮石の記憶がはっきりしている間に比較してみようとの思いも捨てがたく、向かったのだった。

各地の石神を拝した経験から、山奥にあるのだろうと笹波奥地をめぐり、集落に近づいたところで鳥居に出会った。

富来町史によれば祭神は大已貴命なので、地震石のある羽咋市寺家の大穴持像石神社と同様の役割を担っていた石神だったのだろう。

 

 

その他の由緒「石」

中部地方の石の民俗』には6葉の写真を使った。原稿手書きの頃である。写真も貴重で、一か所に一枚しか撮らなかった。

いつか当時の写真も整理し分類できればいいと思いつつ、

パソコンに取り込んでいる「石」の写真を一部紹介する。

弁慶谷から移してきた「弁慶石」(能登町北河内)。碑文・府玻美智子氏

穴水町鹿島 弁慶雨乞い石

同上。北國新聞(2004年8月27日)に載せた写真。私が手を伸ばして石の大きさを示している。当時は身長が169センチ。

江曽練が谷内の弁慶石

七尾市史に少しかかわった時に見たと記憶するのだが…。キャプションに浄養寺・巨石とある。?

弁慶手の跡石とあるが、これも?

撮影した2014年7月29日は加賀石立などへ出向いている。

ついでに。

義経が矢で岩を射抜いたとの伝説や、岩倉比古神が寄った岩とも伝わる曽々木窓岩。

麒山麟麟和尚像。

いつからこの像が安置されているのだろう。

狭石滝津神社

 

 

天呑宮跡から始まった石巡り…。

資料ができた。

鳥越城散策ー5月19日(木)

 

10時半からの用事まで、若干の時間があったので、緑さわやかな鳥越城を訪ねたくなり、久しぶりに行ってきた。

登口

本丸まで750メートル

鶴来方面?ー私は珠洲の内浦沿いの町・飯田に住んでいるため、物心ついたころから、海のかなたの立山、ぐるりとつながっているらしい白山方向が「北」なのだと思い込んでいた。
雪を冠っている立山と北国=雪がストレートに結びつき能登は南、越中・加賀は北、と地図上とは反対方向感覚が身に染みついてしまっているのである。
家に帰ってから、写真・地図を何度も見直し・照らし合わせ、どうも写真の方向が鶴来・金沢方向らしい…とまでたどり着いたのだが、それでも???なので、キャプションを「鶴来方面?」にしておいた。

駐車場から

駐車場から

駐車場

一揆敗れて山河ありー碑

家に帰り、写真を取り込みながら、一向一揆史に、5月19日と関わる出来事がないか、お三方(笠原、井上、北西)の一向一揆の研究を繙いてみようか、別に論文を書くわけでもないのだからそうまでしなくてもいいか…。

講義などの導入に利用しているノートから、5月19日に還帰なさった方はいないか?を見たが空欄。祥月5月に限らず19日御命日のかたは?とみると(敬称略)、覚如上人・金光寿郎(1月)、安田理深・植木徹誠(2月)、中村久子(3月)、川合隼雄(7月)、笠原一男(8月)、正岡子規・高梨一美(9月)、小林一茶(11月)と錚々たる方々の名があった。

一応頭において、碑の向かって左横の「讃」を撮ってきたので見てみると、何と「平成二年」「一向一揆五百年記念」「題字 笠原一男」とあるではないか。

お三方で最初に『一向一揆の研究』を著された、19日が御命日の笠原一男先生がこの碑にかかわっておいでたのである。

題字とあるから台石の3分の2ほどにある「一揆敗れて山河あり」が氏の字なのだろうか。この年は、75歳のはずだ。

参考までにお三方の『一向一揆の研究』、ちなみに、笠原本・昭和37年6月30日刊、井上本・昭和43年3月30日刊、北西本・昭和56年2月28日刊である。同じタイトルの本が3冊もあることは、一揆500年ごろ話題になったものだったが、私が面識のあるのは北西先生だけである。あとお二方は研究会で話を聞くということもなかったと思う。

後二の丸

第三の丸

後二の丸

本丸を望む

手取川対岸の棚田が綺麗

枡形門

枡形門

本丸門ー迂回用階段

本丸跡

本丸門

本丸側から

本丸説明

棚列

井戸跡

清掃なさっていた関係者

この時10時ごろ。こういう方の淡々とした手入れがあって綺麗なのだなぁと思いながら

鳥越城跡を後にし、白山市の目的地に向かった。

緑の香り、鳥の声

 

今日・20日北國新聞朝刊。

こういうことだ。それにしても、「碑」といい、鳥越中の生徒たちが草刈りを通して郷土の文化に触れあう記念すべき日に、同じ場所を散策していたとは…。

 

昨日、挨拶を交わした上の写真の方とかと思ったが、お会いした方は長靴を履いておられたので、記事写真の人とは違う方である。

内浦海岸散策ー比那〜宇出津

月末に、同朋婦人会の人々を案内するため、散策コースを作ってみた。

現状はどうなっているのか、9日(月)に訪ねてみた。

比那の海ー西行法師・松島見仏上人出会いの地

『撰集抄』巻3 第一 松嶋上人事

『伝説とロマンの里ー北能登の風土と文化-』第一章 ゆかりの人々 8西行法師、伝説の風景⑪

伝説とロマンの里⑪ 見仏上人・西行法師出会いあの地ー布浦・比那ー(地産地消文化情報誌能登Vol12 2013July) 

きりこ橋

九里川尻川にかかる。こう見えて高さは23.8mある。

芭蕉句碑 白丸宮崎公園

『伝説とロマンの里-北能登の風土と文化ー』第4章12 芭蕉句碑

靏の巣も見らるる花の[欠]

富来住凡内民山、寛政甲寅(1794)初夏

 

昔の舟小屋 長尾海岸

長尾の海辺に道路がついてから、住居と舟小屋が並んで建つ景色が見えて、楽しみだった。

今度通った時、昨年春からのわずかの間に、倒壊している舟小屋が目立って、寂しかった。

舟小屋が並ぶ海辺は、代表的な「里海」風景だろうが、まもなく見ることが出来なくなるのかもしれない。

蓬莱島 越坂より

『伝説とロマンの里-北能登の風土と文化ー』第5章 自然景観、往来、産業、文化 3九十九湾、弁天島、島々

 

弘法榧

『伝説とロマンの里-北能登の風土と文化ー』第一章 ゆかりの人々 6-5弘法榧・豆殻太鼓

マイクロバスを停めることが出来るか…?

 

イカの駅つくモール

九十九湾は、私たちにとってはクラゲだ。学生時代近くでキャンプをし、湾を泳いだ時、クラゲの群れをかき分けかき分けなければならず、泳いだ気がしなかった。

イカは漁は小木を代表する船団。高校の同級生(小木中出身)も根室に嫁いでいる。

 

真脇遺跡縄文館

月曜は休館日だが、高田秀樹館長は仕事をなさっており、いろいろお話ができた。狼煙・横山の石の話になり、縄文石器原石を見せてくださった。

仏石(こぶり石)もそうだという。七尾のお寺で江戸期に手に入れたという同石を見たとき、硬くて黒い石だったので阿弥陀山や三崎で取れるやわらかい石とは違ったものがあるのだなぁ、と感心したことがあったが、ひょっとしたらあれが石器原石の一つだったのかも知れない。

写真右「横山真脇石」、左「大福寺の石(糸巻き石)」(『真脇遺跡2010』)

『伝説とロマンの里-北能登の風土と文化ー』第五章自然景観、往来、産業、文化 12火打ち(燧)石、鉄砲石、木の葉石

 

鷹王山上日寺 

『能都町史』第三巻(昭和57年刊)で「個別寺院誌」を担当した折、そのあとも上日寺を何度か訪ねた。

参道に信号があって、青の時だけ通れるので話題になっていた。

今も信号があるのか近くへ行ってみた。写真のようにちゃんとある。近づくと青に変わった。

あの頃はパブリカに乗っていて、山門をそんなに気にせず通ったはずだ。

今乗っているプリウスでは通れそうもなく、一所懸命バックした。

山号・鷹王山は上日寺開基・百合若大臣と鷹にまつわる伝説による名であるが、「高尾」でもあるのだろう。

『伝説とロマンの里-北能登の風土と文化ー』第四章 17百合若伝説

仁王門前のお地蔵さんたち

真脇には鷹王山上日寺(高野山真言宗)、行基山新善行寺(浄土宗)、七村山長願寺(真宗大谷派)の由緒寺がある。

千畳敷ポケットパーク

『伝説とロマンの里-北能登の風土と文化ー』第五章 6 さまざまな岩、千畳敷

内浦なので、夕日は山に沈むのだが、周りの山が低いのと内海が広いので、あたかも外浦のような夕景に出会える(2009年12月24日撮影)。

 

遠島山 天の羽衣(小浦・羽根)

天の羽衣伝説のある弁天島付近の景観を楽しもうと思ったのだが、6月一杯道路工事で片側通行となっていて、通過するしかない。ここから振り返ってもその場所を見ることはできない。

『伝説とロマンの里-北能登の風土と文化ー』第四章 16 田ノ浦の天女

地産地消文化情報誌 能登』34号 伝説の風景㉝ 天女の羽衣ー能登町・田ノ浦海岸ー

天呑の宮(石瀬比古神社)跡

『伝説とロマンの里-北能登の風土と文化ー』第二章 4 内浦の寄り神
にはこう書いた。

宇出津酒垂の宮は、祭神が、酒樽に乗って磯に寄りつかれた神だったので、酒樽の宮とも酒樽明神ともいう。

能登志徴』が引用する「能登誌」には、この酒垂の地の端に岩山に、もと三宅小三郎の城内にあった宮を移した「天呑の宮があり、その社地へ登れば宇出津の民家を眼下に見おろし、向こうは越中の山嶽並び立て、渡海の船ども実に手に取るやうに見えて、其勝景はいいようがない」と紹介している。

昔は一帯が入海で、社のある岩山も、もとは海中の岩島だったといい、そこは典型的な寄り神の地である。

ここは、異変があると花が咲かず、折ってはならないといわれていた。

式内社の石瀬比古神社を名乗ったこともあった。

 

 

 

 

時々に購入したり、頂いてきた雑誌類

パソコンの調子が悪いうえに、初期化してソフトをいれかえてから、メールが使えなくなった。さらに「一太郎」の用語が「辞書として扱えません」と出てきて、例えば「初期化」に変換する場合は、「し」、「しょ」、「しょき」と変換していってその間、何度も「扱えません」の注意を見ながら変換しなければならないという、ストレス溜まり状態になっている。

能登半島の先端からの連絡方法を意図して、2005年からブログを始めたのだが、今に至ってこういう状態になった。

すべてがワード中心なのだそうで、windowを更新するごとに一太郎が使いにくくなり、周りにパソコンを使っている環境を持たない、田舎老人はお手上げだ。

この文も、何とか一太郎辞書を探しだそう、一太郎2007から、バージョンアップ版を次々にインストールしてみた一日の努力がむなしくおわり、入力媒体をマイクロソフトIMEにして、書いているのだ。

一方、書籍整理が大変。

臥龍文庫と呼んでいるエリアと、普段の生活場所の2か所に本を分けておいているのだが、グループごとに整頓していったら2冊以上の本がかなり出てきているし、協力した学会や研究機関から送られてきたシリーズ、購入研究誌がかなり雑然としていることが分かった。

残すにしろ、処分していくにしろ、ジャンル、シリーズごとにまとめておかななければならない。

今日は、その分類方法も考えながら、能登内浦を歩いた。

 

 

祖母50回忌、父33回忌

4月25日の蓮如忌を終え、29日には祖母の50回忌、父の33回忌を勤めさせていただいた。

  左近の桜。4月23日。蓮能尼の里から。

 

元気な母が、着物の着付けがちょっと不安になるかも知れないので…とのことで昨年からこの日に決めていたのが、執行出来た。

雨が激しく、寒い日になったが、この機会でないとまず会うこともないので、親戚の長老がそれぞれ長い旅をして一堂に会した。

それだけでも、胸が熱くなった。

静岡から99歳。

七尾から96歳。

そして、母96歳である。

お年忌を終え、それぞれが家族とともにお家に着かれた。

平安期からの西勝寺(福光庵)の歴史は、様々なものが積み重なっていることがわかってきたので、年忌を機に、「西勝寺史におけるお二方」と題してお話しした。

 そのために関連年表と同時代記(13頁)、参照版(19頁)を用意した。

 臥龍山西勝寺ー関連年表と同時代記

   参照・関連年表と同時代記

 

 内敷は、かつての松前江差門徒四船主からの寄進。寄進札には猩々緋・錦・蝦夷錦なども見え、松前門徒との交流もある程度はたどれそうである。

 

前日、28日祖師ご命日の木々・花。

今朝の藤

 

教・宗・派ー一人居て喜ばば二人と思うべし

親鸞作と伝える『御(ご)臨末(りんまつ)之(の)御(ご)書(しょ)』と呼ぶ一文があります。
   一人居(い)て喜ばゞ二人と思ふべし。
   二人居て喜ばゞ三人と思ふべし。
   その一人は親驚なり。
  我れなくも、法(のり)は尽きまじ和歌の浦
      あをくさ(青草)人のあらんかぎりは
 草が生い茂るように人がいる限りは、教えはいつまでもこの人々に受けつがれていきます。この歌も親鸞の歌として伝わってきました。
  哲学者の三木清は、未刊の遺稿「親鸞」でこの部分を取り上げ、「(親鸞一人)のためと思われた救済の教えは、救済の成立すると同時にそれがもともと『十方(じっぽう)衆生(しゅじょう)』のためであることが理解されるのである」と書いています。

ー『妙好人 千代尼』(法藏館)より。

 

教員を辞し、住職になって能登教務所に出入りするようになって、大谷専修学院の存在を知り、そこの卒業生が活躍していたこともあって「青草びとの会」があることを知った。

 

大谷専修学院ホームページには、次のようにある。

青草びとの会は、真宗大谷派の僧侶養成学校「大谷専修学院」の同窓生の学習会です。
卒業生を中心に活動していますが、卒業生以外の「会友」もおられます。
僧侶・寺=宗教者がどうあるべきかをお互いに学んでいこうという場です。
青草の名乗りは、親鸞作と伝えられる次の歌と、それを受けた学祖・信國 淳師の下記の言葉に依っています。

「我なくも法は尽きまじ和歌の浦/あをくさ人のあらんかぎりは」(『御臨末の御書』親鸞

「われら 一向に念佛申して 佛天のもと 青草びととなりて 祖聖に続かん」(信國 淳)


大谷専修学院同窓生学習会・青草びとの会では、

広く一般に手に取っていただける書物の刊行を願って、
2005年『新編 信國淳 選集』(全五巻)、
2006~2007年『教行信証講義』(全三巻)竹中智秀
2015~2016年『竹中智秀選集』(全八巻)を出版し、
HPには、学院で教鞭を執っておいでた児玉暁洋選集(法藏館刊)も紹介している。

 

どうぎょうーににん【同行二人】

「一人居て二人」でよく知られているのは「同行二人」である。

辞書には、次のようにあり、お遍路さんを思い浮かべる。

一緒に神仏に参詣(さんけい)する人。道づれ。「ー二人」(福武国語辞典)

西国巡礼者などがいつも弘法大師と一緒に巡礼しているという意で笠に書きつける語。[補説]この場合、「同行」を「どうこう」、「二人」を「ふたり」とは読まない。(デジタル大辞泉)

 共にの広い意味では

『梁塵(りようじん)秘抄(ひしよう)』(治承三年・一一七九、後白河法皇撰)の次の僧歌がある。

   二九九 大峰通るには仏法修行する僧居たり 唯一人 若や子守は頭をなでたまひ 八大童子は身を守る ※若=若王子、子守=子守明神

 

「宗」(真言・浄土真)では、弘法大師親鸞聖人だけど、「教」(仏)レベルだと権現も含めて同じだな、と思っていたが、

3月9日の戸城三千代さんのFBに、面白いというか、なるほど…と感嘆する記事が載っていた。

 

四国遍路の巡拝者で一番多いのは、真宗門徒。巡拝者の40%をしめ、真言宗信徒よりも多い。とくに関東、新潟、富山の門徒さんのお参りが多いとか。体感では、お西よりお東の門徒さんの方が多いかも、とも。
 *
今日、某札所のご住職様から、このようにお聞きしました。
「一向は専修念仏やから。阿弥陀さんに一心不乱やから。そういうところがお大師さんと通じるんやろかなあ」
一見、意外なようでもあるけど、いや、そうだろうなあという思いもあり。
今日は、たまたま、午前も午後も、真言宗僧侶の方々とお目にかかる機会があったのですが、その全員から、親鸞さんのお話をお聞きすることになりました。

 

この文にコメントが77件も寄せられており、いずれも貴重なコメントである。

昔、『巡礼の社会学』(前田卓)を読んで面白かったが、それ以来のワクワク感で戸城さんの文を読んだ。

 

 

ところで、私たちも含む真宗門徒には、かつて取り上げた由緒地巡拝が盛んに行われていた時代があった。

現今でも、御遠忌などには、思い出したように巡拝ツアーが企画されることもあるけど、

門徒の豊かな文化が、やせ細っているようにしか見えない。

 

もう一度、豊四郎巡拝の残り分を活字化することが、この時代に生き、資料を手にしているものの、使命かとも思うのだが、

落ち葉掃除の次に、蔵書整理に取りかかってしまい

思いは遠い先のことになっている。

 

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野の草花、野鳥ーふき畑ーイチョウ・欅の葉・笹

ほぼ一月前からー後ろ周りの落ち葉、笹、銀杏、椿、欅などの萌芽(ほうが・ひこばえ)を履いたり、切ったり、抜いたりしている。

体中が痛い(筋肉痛)のだけれど、掃き掃除が出来る状態になっていくのが楽しくて、つい外に出る。

鳥はおなじみのトンビ、ウグイス、ヒヨドリの他に、見たことのない黒と白のコントラストがある小鳥が、すぐ側を飛ぶ。

 

ツツツ、ツツッツと鳴く鳥と友だちになったー同じいのちを持つ身、通じ合うのだと悦に入っていたら、昔から置いてある鉄桶の穴から出入りしているのに気づいた。

子育てをしているのだった。

はえさを運んできたよ…(ツツツ)と2回鳴いてから、間もなく巣穴に入っていく。

ツツツと鳴いたので、カメラを構えた。

暖かい日差しの中の、あたたかい光景ー掃除は已められない。

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2日の鉄釜周辺。木々に覆われていて巣になっていることに気づかなかった。

小鳥はシジュウカラだった。

地鳴きのジジジ、ジジジがシジュウと聞こえることから

四十雀シジュウカラ)の名がついたそうだが、私にはツツツ、ツツツとしか聞こえなかった。

ツーピーツーピーもこの鳥の声だそうで、研究では20種類ほどの鳴き分けを用いるすごい小鳥だという。

 

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暖かいので、亀も冬眠場所から出した。例年は5月の連休に出す。

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座禅草は今年は三つ咲いた。例年は二つ。お彼岸の頃からザゼンソウザゼンソウと話題にしている。4日撮影。

 

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ジンチョウゲキンモクセイクチナシと共に日本三大芳香木だという。
部屋の近くにあるので、部屋のベースの匂いになっているのだろう。いつもホワーっと匂っている。

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部屋の前にはヒメリュウキンカ

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雪割草。以上6日撮影。

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しだれ桜 10日10時撮影。

 

今日(4月11日)は、父の32回1ヶ月命日。

想い出の父の姿は、着物姿で庭の掃き掃除をしている姿。

時折、前を通る人と履く手を休めて楽しそうに話しをしていた。

 

稲の種子名列記木簡ー七尾市矢田遺跡ー万行・矢田の歴史を貫く農業文化

3月28日石川県埋蔵文化財センター評議員会が行われ、資料を戴いた。

見ると七尾市矢田遺跡から出土した、稲の品種を書いた木簡について報告されている。

矢田・万行地帯は稲作文化の原点のようなエリアで、そこに種子名が列記された木簡が出土したとなると、万行遺跡の巨大建築も稲作との関係が問われてくるーと思う。

名産万行清水米、古い田の神行事など、

ものと生活の視点から、取り上げて見る。

 

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評議員会参考資料より。

 

万行遺跡

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万行遺跡    まんぎょういせき
指定年月日    :    2003.08.27(平成15.08.27)
指定基準    :    一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
所在都道府県    :    石川県
所在地(市区町村)    :    七尾市万行町
万行遺跡は能登半島の中ほどの東側、日本海が入り込む七尾湾を望む標高6から10mの台地上に所在する。遺跡が営まれた古墳時代には、この台地の近くまで海が入り込んでいたと推測される。古代の七尾湾には能登の国津である香嶋津が置かれ、日本海側の海運上、重要な位置にあったことが示唆される地域である。
 この台地に土地区画整理事業の計画がおこったことから、七尾市教育委員会は平成10年度から発掘調査を進めてきた。その結果、弥生時代中期以降の竪穴住居跡や古墳時代前期の大型掘立柱建物をはじめとする数多くの遺構、遺物を検出した。
 注目されるのは、台地北端で、その東側に入り込んだ谷に面して確認された古墳時代前期の巨大な掘立柱建物跡である。柱穴は平面が方形に近い形あるいは楕円形を呈しており、規模は長軸で1m、深さ1.5m前後、柱間隔は平均すると4.3mになる。こうした柱穴が東西17.2mの間に6基、南北44mの間に11基、合計60基ほどが検出された。その東側にもほぼ同じ規模と配列の柱穴群を確認しており、西の建物から東の建物へと建替があったことも判明した。柱穴の配列状況から、1時期に3棟からなる倉庫群であったとする見解と、1棟の祭殿であったとする見解がある。倉庫群とすれば、東側に庇状のものがつく、梁間2間、桁行4間で床面積約150㎡のもの2棟と、梁間4間、桁行4間で床面積約320㎡のもの1棟で構成されたことになる。
 建物の周囲には、軸を同じくする2条の溝からなる区画施設も存在し、区画内部には広場も存在した。区画施設の周辺にも竪穴建物跡を検出しており、掘立柱建物群に関わる施設の一部であったと見なされる。なお、この時期の遺物は少なく、掘立柱建物群の性格を考える上で興味深い。
 大型掘立柱建物群の廃絶後には、幅1.2m、深さ0.5mの溝により、一辺22mの方形区画が作られている。溝の東側中央部は途切れており、この部分が出入り口であったとみられる。区画の内部には掘立柱建物の存在が推定でき、祭場あるいは居館といった機能が考えられる。
 万行遺跡では、古墳時代前期の大型掘立柱建物群と方形区画が確認され、中でも掘立柱建物群は古墳時代としては類例のない巨大なものである。その性格については検討の余地が残されているが、倉庫群とした場合、南北に3棟が整然と並ぶことになり、これまで古墳時代中期に知られていた建物配置が、前期までさかのぼることになる。いずれにしても、規模からみて能登地域を越えた政治勢力が関わった可能性も示唆され、古墳時代の政治状況や社会を知る上で極めて重要であるとともに、建物規模は建築史的にも貴重である。よって、史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。

文化庁 国指定文化財等データベース

 

万行 観音 清水 万行米

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能登国三十三観音のたび』西山郷史・上陽子著、NPO能登ネットワーク刊より

 

平成17年刊で、絶版になっていたこの本を、ある書店の店長をなさっていた春成睦子さんから、復刻して販売出来ないだろうか…と相談を受けたことがあった。

その頃、『妙好人千代尼』を執筆しており、続いて『とも同行の真宗文化』、『伝説とロマンの里-北能登の風土と文化-』などを手がけていて、その話は立ち消えになっていた。

 

というより、店長さんは間もなくガンで入退院を繰り返されるようになり、たまにお会いしても、話を進める時間を持てなかったのである。

 

治られたら、三十三観音再刊を考える時がくるかも知れないと思っていた昨年9月18日、

突然、医科大病室からかけているとの電話があり、

もう書店では会えない…。お医者さんから11月までの余命だと言われた。とおっしゃる。

何、冗談言っているのだろう…と思ったのだが、口調は明るいものの、すぐに咳き込まれ、話すことそのものが苦しそうだった。

それから、時々電話で話す中で、本を読む気力がなくなった、とおっしゃってから間もなく、電話口(携帯の調子も悪かった)に出なくなり、かかってもこなくなった。

 

『伝説とロマンの里-北能登の風土と文化-』を出版した際、写真だけでも気分のいい時に見る? 送るよ…と、話せたらと思い、電話を入れた。

通じることは通じたのだけれど、電話口に出た人が、

彼女は前日に息を引き取り、今、葬儀を終えたところだ、とおっしゃる。

 

地元には身寄りの人がおいでにならないらしく、息を引きとられたのは11月22日、53才だったはずだと思うだけで、ご本人は口には出さなかったが、早くから病に気づいておられ、マスク越しで会話した記憶しかなく、お顔もはっきりと思い出せないままの別れだった。

 

そろそろ49日も終えたはず、ご遺骨はお墓に収められてはずだと、

評議員会の帰りに春成家のお墓をたずねた。

梅の花咲く中、お墓周りは綺麗になっていて、間違いなく、納骨なされているのだろう。

 

近くの矢田でねー…、米の種類を書いた木簡が見つかったんだって…。

 

春成さんなら、どんな反応を示してくれるだろうか…

そんなことを思いながら、しばらく手を合わせた。

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田の神と山の神が交替する矢田のタンカブサマ(田の神様・あえのこと)

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『図説七尾の歴史と文化』平成11年七尾市役所刊。

 

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北國新聞2000年(平成12年)11月6日

 

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同紙2000年(平成12年)11月19日

 

高山志郎さんの奥さんは清子さん。

能登教務所に勤めておいでた。

資料館長での記事になっているが、この時、私は住職9年目で能登教区・教区会副議長を務めており、町史調査、議会などで七尾へ頻繁に行っていた。

清子さんはベテラン教務所職員で、色んなことでお世話になり、昼食などもよく職員の方々と休憩室で共にしたものだった。そんな中での雑談中に、タンカブ様(田の神様)が行われていることを知ったのである。

 

田の神山の神の交替が行われている話は、あえのこと地帯も含めて、どこからも報告されておらないのに、高山さんから、より古い形ー日程も含めてーの田の神行事が行われていることを知らされ、驚愕した。

 

大変な話なので、さっそく市史調査を絶えず気にかけてくれたいた記者さんに知らせ、翌日の記事になったのが上記の「山の神と深い結びつき」である。

 

石動・七尾城山は水分の山岳で、田の神行事の本質は、高山家例の例からこそ、考察を深めていくことが出来る。

そこに、木簡が加わった。

 

粟津潔氏、寺山修司氏

今、二つの書庫にたまっている書籍などの整理をしている。

今までに、何度も整理したのだが、右から左状態だったのを分類法を変えてやってみたら、2冊以上ある書物があぶり出されてきた。

民俗仲間、歴史家が亡くなられた後、彼らの家にあふれている書物を捨てるのは忍びないというので、預かりもらい状態や、共同執筆の本で複数著者からの献本(恵与)などが複数冊となってあるのである。

故・山田知子大谷大教授からは、

おいとく場所が無いし、捨てるのもさびしいのでニシヤマさんとこに移して…と

、ブリタニカ英英百科事典全巻を車庫の棚に置いておいたこともある。

あれは、山田さんが京都から車で運んできたのだったか…それとも。

もう曖昧な記憶を確かめ合うことは出来ないのだなぁーとなったあたりで、我に返る。

 

その整理中ーアサヒグラフ寺山修司没後10周年特集号を見つけたのでパラパラめくった。

このブログの3月10日に

本の装丁に触れ

現代国語教科書に載っていた栃折久美子「モロッコ皮の本」を教えた時、本は表紙・帯を含めた総合文化でもあることに初めて気づいた、

と書いたが、

その時、身近にあったのが栃折久美子の装丁本「絵本 恋するドリア」(昭和49年1974年8月1日刊)f:id:umiyamabusi:20220326060910j:plain

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文:寺山修司、絵:永井泰子だった。

 

文集というより詩集のような絵本の一作目は写真の「何にでも値段をつける古道具屋のおじさんの詩」で、

エピローグが「時には母のない子のように だまって海をみつめていたい」である。

これらの詩は、

ポリドールレコードLP「カルメン・マキ真夜中詩集 ロウソクの消えるまで」に収められている。

曲も詩も素敵だった。

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寺山修司は「天井桟敷」の名と共に有名だったが

高校の現代国語に短歌が載っており、アングラとかを包み込む大きさを持った人なのだと知った。

その短歌は

マッチ擦る つかのま 海に霧ふかし 身捨つる程の 祖国はありや

である。 

印象に残ったので今も覚えている。

 

書籍整理中に

その寺山修司の没後10年のグラフが出てきたのだから、ちょっと驚いた。

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ここに寺山修司氏のお墓の写真が載っている。

『書を捨てよ、町へ出よう』のイメージなのだろうけど、斬新だと思った。

説明には、

東京・八王子の高尾霊園にある寺山修司の墓。

デザインは粟津潔

とある。

粟津潔は、美術出版関係に勤めていた連れ合いが持ってきた本で、名は知っていた。

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その後、住職になり、

三条にお話に行った序でに親不知ピアパークの橋脚陶壁画を知ったり、

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[陶壁画一部]


綺麗な富来トンネル画は、父が富来出身の縁で描かれたことも知り、

父の実家である広覚寺・粟津啓有さん宅にも出入りするようになった。

 

そういうことから、「粟津潔デザイン寺山修司墓」は前とは違った意味合いを持って眺めることが出来、粟津さんにもアサヒグラフの関連ページを写真にしてお送りした。

 

23日に啓有さんから、「潔に関する新資料が加わった、有り難う」との電話をいただいた。