橘禮吉氏-わがまちの偉人

 

今日(12月8日)の北陸中日新聞朝刊に懐かしい橘さんが紹介されていた。

いい文だ。

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北陸中日新聞朝刊-20210(令和3)年12月8日

 

橘さんご逝去の報に接してこのブログに書いた

2019(平成31)年10月25日「橘禮吉氏」記事

北國新聞朝刊に24日に橘さんが御逝去された記事が載っていた。

元加能民俗の会会長、88歳。

 

最も新しい「加能民俗研究」50号(2019年3月刊)に「鶴来ほうらい祭りの担ぎ唄―石川の春歌諸言考―」をお書きになっており、前号には「婚礼時の「樽引き」とその音頭・歌詞ー白山麓白峰・大道谷の事例ー」、その前48号に「白山麓における地内子の夫役―石川県旧白峰村大道谷の親っ様木戸口家事例―」をと、加能民俗を愛し、「加能民俗研究」誌の継続を願い執筆し続けて来られた。

そして、本当に蓮如上人がお好きな方で、上人の話題になると声が弾まれた。

県の緊急調査報告書『祭り・行事(平成11年刊)』に「石川郡河内村尾道場の御七夜」、『民俗芸能(平成15年刊)』に「金沢市善性寺蓮如絵伝の絵解き」をお書きになり、民衆の目で見た蓮如上人関係本の先駆けになった『蓮如さん 門徒が語る蓮如上人伝承集成(1988・昭和63年刊)』では、まとめ役となられ、「蓮如伝説の性格」をお書きになった。

 

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1988(昭和63)年刊。加賀一向一揆500年記念でもある。


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50号の記事。私が書いたのは伏せ字が多いこの手(祭唄)の歌詞を知っている人が少なくなり、ここではっきり残しておかなければ永遠に分からないままになってしまう、とのおそれを懐いていたためで、一種の神楽唄として伝わっている歌詞を活字化した。が、遅かった感はぬぐえないでいる。

 

お通夜今夕、葬儀は明日、金沢で。

私は明日午前中寺役、午後輪島市での御法話が入っており、金沢まで出向けない。

50号に、橘さんが次の記事を書いておられた。

一緒に調査したり、民俗資料保存で共に陳情に行ったりした頃を想い出されながらお書きになったのだろうなァと、記事を見ながら勝手に想像していたのが、ついこの前。合掌。

 

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NPO能登ネットワーク発行『能登国三十三観音のたび』と『伝説とロマンの里―北能登の風土と文化―』

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日本の美術は文化庁が監修、次の文で休刊。

独立行政法人国立文化財機構監修 昭和41年創刊。 国立博物館文化財研究所、文化庁などの最前線の研究者たちによる、 各号1つのテーマを取り上げた書下ろしの月刊誌です。平成23年9月刊、第545号をもちまして休刊となりました。

高い評価の美術書の『No.77塔婆・スツーパ 石田茂作編』の表紙を飾ったのが、能登国三十三観音巡礼札所第一番明泉寺の石塔五重塔だった。

この号は昭和47年10月15日発行。昭和47年は1972年だから足掛け50年前の刊行となる。

 

その後、NPO法人能登ネットワークの依頼・共同作業で『能登国三十三観音のたび』を、平成17年(2005)12月10日に発行した。

依頼があった時の話では、ちょっとしたパンフを考えていたようだが、折角作るのだから、しっかりしたものを残そうと、すでに11種類の御詠歌本を収集していたこともあり、さらに徹底的した調査と、写真を撮った。

能登国三十三観音巡礼札所は明治以降まぼろしの札所化しており、この本を刊行した頃には、

天台宗1,高野山真言宗7、曹洞宗7の15札所が住持職管理、その他、神社7、観音堂(村堂)11、石動山資料館となっていた(4番札所は2カ所のため総34札所)。

 

村堂のうち、8カ所が真宗の寄合行事で、私の父の実家境内にも観音堂があって、物心付いた頃から、能登国三十三観音が身近に存在していたのだ。

 

ともかく記録を残すために、神社では臨時祭礼を開いて貰って奥深く仕舞われている白山本地仏観音像の写真を撮ったり、焼けてないはずだと言い張る雲水さんとともかく開いてみまいけと長い間かかって扉を開け、焼けずに残っていた観音像を発見したり、

結局、ほとんどの観音像の写真を残すことが出来たのである。

 

一方、発行後に能登沖地震が発生し、秘仏がバラバラになったり、火災で焼失、あるいは「民衆の仏」として日常目の前にあった仏さんが、秘仏としてしまわれてしまったものもかなりある。

 

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装幀は西のぼる氏

あとがきをNPO能登ネットワーク理事長(当時興能信用金庫会長、元数馬酒造社長)

が書いておいでる。

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この文からは気づかないと思うが、下の地図で見れば分かるように、能登国三十三観音札所は石動山・邑知潟周辺札所が多く、会長数馬氏の地元能登町(当時能都町)は札所が一ヶ所もなく、私の珠洲でも一ヶ寺しかないのだ。

数馬さんとは能登を知り・紹介したいという思いは一つなので、よく一緒に札所などを巡ったが、いつも奥能登の紹介本が欲しいんだ、とつぶやいておられた。

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私は、まず入り口(能登国三十三観音)をやって、それから奥能登をやろうと言っていたし、その一つの流れが、平成24年(2012)10月21日に飯田高校百周年にあわせて刊行した『飯田高等学校100周年記念誌 伝説とロマンの里』の成果だった。

 

ところが、NPO法人幹部さんたちは個々がそれぞれの要職にあって忙しく、『伝説とロマンの里』も予定していた次の展開に移れず、バラバラになったまま時が流れた。

 

数馬さんは、興能信用金庫理事長職で活躍なさっていたが、あるとき体調が思わしくないとの噂を小耳に挟んだ。

そして、2017年(平成29)10月11日、64才という若さで先立たれたのである。

義雄さんの家族を存じあげない身としては、彼との間の宿題を残したまま、おじゃまする気持ちになれず、いつしか4年の歳月が経っていた。

 

30日。『伝説とロマンの里―北能登の風土と文化―』を携え数馬家を訪ねた。

師走近くの酒造は活気にあふれていた。

今まで、顔を出さなかった失礼を奥さんに詫び、「ようやく約束の一端が果たせそうです」と、2人の間で交わした話をお伝えすることが出来た。

 

こんなに遅くなったのに、恐縮するくらいに喜んでいただき、すこーし荷を降ろした気分で、夕時の海岸道を帰途についた。

語り合うこと無く…

11月22日(月)、

多分この日、M・Hさんが50代前半で亡くなった。

数度お会いしただけの人だったが、某書店の店長をしておられ、書物・文化の話題が豊富で、ちょっとした会話に知的好奇心が刺激され、かけがえの無い人だった。

そのMさんから9月18日に電話が入った。

入退院を繰り替えなさっていた病室からかけているとのことで、

もう書店では会えない、との内用。

病が進行し、主治医から11月までの命と告げられたのだという

……

聞き間違いのような気もして、それからは、声から体調を知るべく、時々、電話で話した。

そのころMさんは電話を取り替えたため、扱い方がよく分からずに通じない時があったり、寝ておいでてコールに気づかないこともあったという。

10月には、Mさん宅と付近の様子をメールに添付写真として送ったこともあった。

 

ーその時、添付写真で送った柿が、下の写真ー。

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写真を見て、秋ごとに実をつけるのを楽しみしておいでた柿について、楽しそうにお話になった。

熟すとおいしいので、西山さん、取っていっていいよ…と話していたのが、10月10日だった。

 

折り返し電話が少なくなっていた頃、近くへ行くことがあったら、柿の写真を撮って添付するよ…と伝言していたが、それが適わないままの、Mさんとの別れだった。

 

11月30日、珍しく良い日和の1日、特に用事も無かったので、Mさんが育った家付近を散策し、手を合わせてきた。

 

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この柿近くに、H家のお墓がある。

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10月に撮った写真と同じ柿の木

 

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Mさんの里は、万行遺跡のすぐ側。

書店では、品切れになっていた『能登国三十三観音のたび』(NPO能登ネットワーク発行)を書棚に並べられないかなァー、との相談を受けたこともあった。

万行の清水観音は第6番札所…

七尾湾が望めるロマンの地で、夢を育ててこられたのだ。

『石山合戦を読み直す』『佐野鼎研究』

本を戴いた。

石山合戦を読み直す 軍記で読み解く日本史』塩谷菊美さん 

2021年12月10日法藏館発売

写真提供と、以前第7章「庶民の石山」の系譜(1770~1880ごろ)の一節「加賀の奉納絵馬-一揆の地で花開く禁書」の元論執筆者を紹介したことに因って報恩講前に戴いた。

すごい。

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佐野鼎研究 開成学園創立150周年記念

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佐野鼎は開成学園創始者。初代校長が高橋是清

生誕地・富士市(加嶋水戸島)。加賀藩士だった万延元年に米国訪問。

開成関係者の学者・作家は、柳田国男斎藤茂吉正岡子規・戸坂潤・南方熊楠中村真一郎吉村昭…、政治家に現総理など。

 

この研究書は 「佐野鼎」の西欧技術導入への関わり~加賀藩の軍艦と陸蒸気器械類の導入~」を同書に執筆なさった徳田寿秋氏から頂いた。

 

開成の校章がサーベルとペンを交差したペンは剣より強し

だといい、そのデザインを見た時、ちょっと興奮。

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『石川ふるさと遺産』、『日本の祭り文化事典』

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14日(日)北國新聞朝刊

この本に、2項目書いた。最初の依頼は「門徒もの知らず」だった。

これは「もの」とは何かの定義づけからしなくてはならず、私なりの見解は持っているが、そもそもそのような表現が歴史的になりたち得るのか疑問である。

いわば、真宗王国といわれている地域の真宗らしさをあらわす語として選んだようなのだが、真宗らしさを北陸・石川で代表させるなら、 蓮如忌、御崇敬、コンゴウ参りなどが浮かぶだろう。

それも、真宗の基本・報恩講などを踏まえての話だが…。

ともあれ、もの知らずの代わりに、蓮如忌と御崇敬(歓喜光・信明院)を書いた。

その本が出来上がった宣伝文である。

 

もうこの手(大部)の本は、置くところも無く、かつてはかなりの項目を書いていた身としては、すでに過去の想い出のような関わりとなっているので購入することも無い。

 

そういえば、高価な本だったので執筆はしたが、購入しない本があったことを思い出した。東京書籍の記念本で、何を書いたのだったかもう記憶にもない。

ついでに、調べて見た。

 

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15年前の話で、定価が本体25000円だった。

執筆者に何人かの懐かしい名がある。

 

書いた項目は

イドリ祭り 能登のアマメハギ あえのこと 熊甲二十日祭 鵜祭り くじり祭 能登のキリコ祭り 唐戸山神事相撲 諸橋稲荷三五祭 平国祭 青柏祭

の11項目だった。

 

比較のしようはないものの、『ふるさと遺産』では。これらがどのように扱われているか、ちょっと興味はある。

『伝説とロマンの里―北能登の風土と文化―』の紹介

能登ブーム、カニ族の言葉を生んだくらい多くの人々が訪れ、私の同級生が珠洲だけで1000人以上もいた時代があった。

『伝説とロマンの里―北能登の風土と文化―』が語りかけるとすると、まず同世代だが、この世代はネットが苦手だ。

読むとすれば、の対象にネット書籍からしか買うことの出来ない本を出した。

 

この矛盾をどうするか?

タイトルに「北能登」と付けたが、珠洲輪島市の北部、能登町中程までを扱っている。

『とも同行の真宗文化』は七尾と穴水、珠洲の書店に置いてもらったが、私の手元にしか本が無い出版だったのでご協力を願ったが、今度の書籍は事情が違う。

穴水の本屋さんに「北能登」が置いてあれば、当然地元・穴水が含まれていると思うだろう。

ところがこの本には穴水を含めてはおらず、本屋さんの迷惑になりかねない。

 

まず、データーを残しておきたいがあり、興味のある方は目にしていただきたいがある。

珠洲「いろは書店」さんには定価(消費税込み2046円)で置いて貰うことにした。私がアマゾンで購入し、その値段で本屋さんに並べる。パソコン・スマホを携帯だけにしか使わない回りに知らせるには、この方法しか思い浮かばない。

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そして、ここに添付した葉書で知らせる方法である。

9年前、お世話になった方にお届けしたが、数名は浮かぶものの、今となってはどなたに差し上げたか見当が付かない。

無闇に送っても、ただでさえ蔵書の整理整頓に追われている人たちに、そう変わらない本が送られても迷惑以外の何者でもないだろう。

記念誌は持っている、あるいは無いがネットは使えない、といった連絡があれば何とでも出来る。

ということで、作ったのが、この葉書である。

 

面倒だけど、みぞれ模様の一日に、ああでもないこうでもないと思いを巡らせるのは、

悪くはない。

 

『伝説とロマンの里―北能登の風土と文化―』

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伝説とロマンの里―北能登の風土と文化― | 西山郷史 |本 | 通販 | Amazon

 

予定では、8月頃に発売になるはずだったが、出版社と通じ合えないことが多くて、延び延びになっていた。

それでも、11月1日に表紙を決めて、あとは出版社の作業待ちまでたどり着けた。

その時、社からは

「反映まで1~2週間程かかりますので、また確認出来次第、ご連絡致します。」

との案内があった。

 

昨日月曜には、進展状況の案内があるかと思っていたが、無し。

 

今日は9日目。1~2週間の半ばだ。

 

と、ある大手雑誌社から電話が入った。

それが、アマゾンで『伝説とロマンの里―北能登の風土と文化―』が発売されているのを知った。それで、紹介させてもらえないかとの内容だった。

当然、

〈私〉エッ!、いつですか?

〈雑誌社〉 4日発売になっています。

紹介は、話し方でよくある紹介の仕方だったことが分かったので、体よくお断りしたが、著者が知らない間に、情報が他の所に知らされ、営業活動が始まっている。

 

オドロキモノノキ山椒の木だ。

 

実物を見て、まずいものだったら、密やかに関係者にだけ配る。

のが、今でのやり方だったけど…そういう気配りさえも出来ない風潮が、こういう分野にも増えている。またまた???…。

 

そうではなく、考えの合わない世界に、この年になって足を踏み入れてみた、と考えるべきなのだろうか…。

 

『伝説とロマンの里―北能登の風土と文化―』の元は、平成24年(2012)10月21日に刊行した次の書籍である。10年経っており若干改訂した。

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その時、編集に協力いただいた方々に、上記の一文を付けて献呈した。
それから、ほぼ10年。違った形になってしまったがようやく約束を果たせる季節がやってきたのだろうか。

 

 

岸壁の母ー端野いせさん没後40年

講義、執筆がないと他はどれだけやることがあろうとも、余裕だ。

で、TVを付けるといつまでも(遅くとも9時に寝るので、いつまでもは9時までだが…。)見てしまう。ドラマはよそ見していると筋が分からなくなるし、俳優さんはかなりの割合で同じにしか見えないので、見るとしてももっぱら歌番組系。

下手な歌手はこれまた、見る気がおきないので、もっぱら伴奏を奏でている人たちをー

なんて上手いのだろうーと思いつつ眺めている。

そうしているうちに、このところ「岸壁の母」を見聞きすることが多くなっているようなので、ちょっと不思議に思っていたのだが、

11月7日(土)の朝日新聞を見て納得。

岸壁の母のモデル、端野いせさんがお亡くなりになって、40年の節目なのだそうだ。

 

その新聞記事が胸を打ったので、何度か訪ねた端野さん関係のブログ記事と共に紹介させていただく。

 

端野いせさん 2010年9月15日 ブログ能登のうみやまブシより(以下同じ)

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岸壁の母のモデル・端野いせさん関係の資料は、「道の駅 とぎ海街道」にある。
端野さんは明治32年9月11日、当時の西海村字風無で生まれ、函館に渡ったのは38年2月10日のことだった。
道の駅には、この写真、その他の写真、新聞記事、いろいろ展示されている。
許可をもらって掲載。

 

2010年(平成22)7月21日 

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岸壁の母、端野いせさんの実家、端野家のお墓。
志賀町西海風無(かざなし)。

 

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加能作次郎文学碑。
端野家は、すぐそばにある。
同町西海風戸(ふと)。

 

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端野いせさんと「慈悲の愛を讃える碑」・岸壁の母歌詞。
この碑は「世界一長いベンチ」の途中にある。平成3年に建立された。

 

朝日新聞朝刊2021(令和3)11月7日(日)石川版

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いい文だ。