橋本澄夫さん
『北陸の古代史』昭和49年11月27日 中日新聞北陸本社刊
当時橋本氏は県立中央高校教諭。題字:三上次男氏。
おくやみ 橋本澄夫さん
北國新聞朝刊:8月26日(木)
7月20日にお亡くなりになっていたのだ。
能登のご出身、もと高校教師などから、橋本さんのすごい専門性を意識せずに、おつきあいさせていただいた。
『ドライブ紀行 いしかわ遺跡めぐり 能登編』北國新聞社 1991年(平成3)10月。
当時、石川県立埋蔵文化財センター所長。七尾・金沢泉丘高教諭、県立郷土資料館、県教委文化財保護課勤務などを経て、昭和60年からセンター所長。
あとがきから
高校生を基準とし、実際に高校生に読み切ってもらえる本、というのが私の何年か前からの思いであった。
小説の類いを除けば、考古学や埋蔵文化財の知識を、対話形式で記述した書物は全国的にもあまり例がないと思っている。
その意味で、本書は一つの「実験的啓蒙書」だと考えている。
とあるように、橋本さんは高校二年生の甥の順一君と能登の遺跡めぐりのドライブをする設定で、構成されている。
知りたいあらゆることを、順一君が質問してくれて、いつも手元に置いておきたい本になっている。
『ドライブ紀行 いしかわ遺跡めぐり 金沢編』1993年(平成5)12月。
橋本さんには30代から可愛がってもらったが、このシリーズによって、実際にお会いした日々以上の対話があり、親しみを感じていた。
『市民の考古学-5 倭国大乱と日本海』甘粕健編 2008年(平成20)同成社刊。
県埋文センター理事・評議員・監事の発掘調査現地視察の折、橋本さんがお読み下さい、と視察バスの中でお配りになった本。エモイエズー格好良かった。
『能登のくに-半島の風土と歴史ー』北國新聞社 2003年(平成15)7月7日:能登空港開港日刊
「はじめに」の「海を結ぶ文化」フォーラム写真、右から3人目が橋本澄夫さん。
1991年10月22日 県埋文運営委員・地区委員などの研修。福井県朝倉氏遺跡資料館
前列向かって2人目、赤いネクタイ姿が橋本さん。その前の一番左が私。丁度30年前、この年の3月に、私は教員を退職している。
橋本さんに可愛がってもらったひとりとして、「おくやみ」欄の奥にある御生涯の一コマを記録させていただいた。(埋文評議員は今年度が最終年度)。
語り継がなければならない。
「おくやみ」の北島俊朗さんについては前のブログ。
この時が、橋本さんとお会いした最後となった。
多々良・飯林山福正寺(さん)
盆の何となく慌ただしい日々が、百日紅、蝉の鳴き声(アブラゼミに、ヒグラシの鳴き声が混じり合う)と共に過ぎゆこうとしてる23日、
谷内正遠さんの御実家(津幡町)へ、お参りに行ってきた。
その帰り、叔父の姻戚、多々良福正寺前ご住職がご逝去なさったとの報が入った。
満89歳の御生涯。親鸞聖人と同年齢を歩まれたのだ。
今朝(24日)、改めて多々良へお弔いに窺った。
なにか、書いた記憶があるので、その本を探し出すと、平成6年(1994年)に一文書かせていただいていた。
蓮如上人と多々良福正寺
『五百年の歴史を今に学ぶ 法統の響き 多々良の坊 飯林山福正寺』
編集:中瀬精一氏 平成6年(1994)6月4日発行
30日追記
いろいろな記憶が蘇る中で、昔、合鹿椀のすごい書籍をもらったことを思い出した。
書斎を探すと見つかった。日本の古本屋で探しても登録さえされていない本で、しかも「荒川浩和」氏のサインまで入っている。
上記の文を書いた、そのお礼に恵与くださったのだろう(この頃のことは何も覚えていない、というか記憶がドンドン去りつつある)。
古書店で購入。2018年8月27日刊
講座―スペイン風邪と山本仏骨氏(今月の法語カレンダー)、8月6日の記憶・子どものころ戦争があった・矢原珠美子さん、谷内正遠氏と東井義雄氏・泰山木、安宅夏夫・大浦郁代氏、山口誓子氏ー同朋会レジメイン風邪と
泰山木・たいさんぼく、東井義男氏。ほのぼのカレンダー。
大庭の泰山木の花が綺麗なので、活けておいたと連れ合いがいうので。写真に。
香りもいいのだそうだが、お寺はいつも何かの香りがあちこちで漂っているので、今まで泰山木の花の香りを気にしたことがなかった。そばで匂いをかいでみる。なるほど…。
ほのぼのカレンダー2022年ー泰山木
絵・文字 谷内正遠さん。詩・東井嘉雄さん。
東井嘉雄さんの詩の解説『春夏秋冬 いつもありがとう』を読んでいると、次の文に出会った。
東井氏の勤めていた学校の校庭に泰山木があったのだ。
私が教員になって2年目に全国教研・山形大会に参加したことがある。
発表者ではなく、県青年部長枠に、部長の代わりに
(県青年部長は羽咋高校、私は隣の羽咋工業分会の青年部長だった。部長が行けないので、あったこともない部長に代わりに隣の学校というだけで、どうかと打診があったはず。今から思えば副部長、地区部長などもいただろうに、どうかといわれて、ホイと行ったのかなぁ…)
山形教研に行き、おもに関心のあった人権分科会のレポートを聞いた。
この年、八鹿高校問題が起こり、同校関係者発表の時は、会場が熱気に包まれ、私は初めて響き渡る「解放歌」を聞いた。
それから長い年月を経て、東井嘉雄氏の詩に関心を抱く頃になって、先生はそのあたりの学校で教えておられたことを知った。
そんな出来事が、この文に出会ったことによって、次々と浮かんでは消え―
ああー!タイサンボク―となったのである。
何事も、あざなえる縄だ。
この泰山木には、次のような関わりもある。
そうとう暑かったある夏、泰山木の葉が茂りすぎてきたので、はしごに登って枝を払った。そのうち、スズメバチが回りに現れたが、気にしないで伐っていたら、一匹の元気のいいスズメバチが目の前で歯を鳴らすようにカチカチさせだした。
ハチがカチカチいいだしたら、攻撃前の(最後)通告だいうことは、知識として知ってはいた。
葉に隠れていて気づかなかったのだが、すぐそば葉隠れに大きなスズメバチの巣があったのである。
蜂の巣を見つけてどう判断したか?
状況は、すぐ撤退しろなのに、私は、昼の暑い盛りなので巣の蜂は、働きに出ていていないだろうと考え、さらに、折角登ってきたのだから、今の間に巣を落としてしまえ!!と、切り落とした。
大きな巣が勢いよくコンクリート通路に叩きつけられた瞬間、巣からスズメバチがワーッと飛び出し、足の数カ所を、数匹に刺されてしまった。
顔を両手隠しながらはしごから飛び降りた時、カガトを打ち付け(カガトの骨にひびが入った)、まもなくお医者さんで、生まれて初めての点滴経験をすることになる。
知識として知っているだけでは(私の場合)ダメで、痛い目にあって内実をともなう知識となる。その後、スズメバチとの攻防は、夜に変わった。
その泰山木に、今日、新たな物語が加わった。
この東井さんの解説は、5月の詩
「草も木もいのちを輝かせながら伸びていく」のもので、
カレンダーの絵・文字は次の通り。
ありがたいことに、来年のカレンダーにはどこの絵かが分かるようになっている。
今までは、風景版画であっても、どこか分からなかった。
講義か何かに利用して、どうしてもどこか知りたいことがあったら、谷内さんに電話すればいい、ぐらいに思っていたのが、
谷内さんは、この7月28日、親鸞聖人のご命日に還帰なされた。
それを知ったとき、もう谷内さんに聞くことが出来ないのだなぁーとの思いもよぎっていたのである。
法藏館・探求社さんのすごさなのかも知れない。
今までの見方だったら、この絵を、私は「信州の高原から見る八ヶ岳連峰(連峰があるかどうかは知らない)」あたりで納得することにしていた。
絵の左に「北海道十勝地方」とある。
行ったことはないが、ちょっと十勝が懐かしい土地となった。
13日朝の「泰山木の花」
泰山木は一日花であることは知っている。
昨日夕方の花は、夜の間にどうなったのだろう?
夜、匂う花だとも言っていたが…。
見事に咲いている。
部屋へ近づいただけで甘酸っぱい匂いで、頭がクラクラした。
何を引き寄せるために、こんな強力な匂いを放っているのだろう…
(何でも知ろうと思うな)。
泰山木は、ここまで…。
安宅夏夫(敏雄)氏
昔、東京に行かれた安宅さんから、夜遅く電話があって、
西山さん!東京では、この時間はまだ宵の口ですよ―。
とおっしゃった。
どこも出かけないで、夜中に起きている日が続き、ふと
安宅さんはどうしておいでるだろうと思った。
ウィキペディアを見ると、
安宅 夏夫(あたか なつお、1934年8月29日 - 2020年3月23日)は、日本の文筆家。
石川県金沢市出身、慶應義塾大学文学部卒。金沢市で18年間、高校の国語教員として勤務の傍ら短歌や詩の創作を行う。その後上京して文筆家となる。日本現代詩人会、大衆文学研究会会員。
2003年、『「日本百名山」の背景 深田久弥・二つの愛』で尾崎秀樹記念・大衆文学研究賞評論・伝記部門を受賞、2012年、第一回群系賞を、野口存彌氏とともに受賞。本名、安宅敏雄。(以下著書など省略)
とある。
去年、この世を去っておいでたのだ。
石川県高等学校図書館 郷土資料総合目録
昭和55年11月10日発行。
私が33歳の時の刊行。この時は2年生の担任、野球部・新聞部の顧問をしていた。
このメンバーでは最も若く、四柳氏が同学年、野島さんと安宅さんが比較的若いメンバーだったような気がするが、安宅さんは46歳頃だったのだ。
その時のメモでは、400字詰め原稿用紙80枚分を書いている。
刊行を記念して、確か主計町の、五木寛之氏あたりがよく書いていて著名だった「太郎」で宴席を持ったはずだ。とんでもない場違いな席にいるようで、どう振る舞っていいのか分からないままの時を過ごしたような思い出がある。
ふるさと文学探訪 鏡花・秋声・犀星
この方々とは、一堂に会することはなく存じ上げないままの人も多い。
愛の狩人 室生犀星
この本は購入のはず。
犀星句は、共同執筆で新たな本を出そうと誘って下さった時のメモ書き。この頃は東京においでて、私の方に遠くにおいでる方と編集に近い仕事をする余裕がなく立ち消えになった。
ご恵贈いただいた諸本
尾崎秀樹賞受賞作。以下のご恵贈本の署名は、それぞれに個性的。
この書では、安宅夏翁を用いておいでる。
いただいていたことに気づかず、お亡くなりになった事を知った日、古書店に注文した。すごく面白かったので、届いた本は、深田久弥文学と関係ある人に送った。
安宅さんの書物によって、深田久弥が中島敦を世に出したことを知った。
「山月記」(中島敦)は高校2年生の国語教科書の大半に採用されていた。
著書は、あたかも国語教師だった安宅さんの名授業を聞いているかのようなわかりやすさ。グイグイ引き込まれていく。
第16回尾崎秀樹記念・大衆文学研究賞授賞式 2003年12月20日東京會舘
左から2番目安宅夏夫氏。向かってその右早乙女貢氏。向かって左尾崎秀樹氏令嬢。
平成5年7月31日発行
安宅夏夫 金沢市に生まれる。慶應義塾大学文学部卒業。金沢市にて18年間高校国語科教員として勤務。(以下略)
2008年2月1日初版発行
2008年1月1日初版発行
得度式
8月4日(水)、得度式
5日(木) 北國新聞朝刊
毎日新聞朝刊
昭和34年(1959)の得度ー作文ー
夏休みの宿題だった作文を提出したところ、題材・内容が珍しかったのだろう、国語の高瀬和子先生に呼ばれ、誰もいない教室で先生と二人、遊びたいのに何でこんなことしなければならないのだろうと、心ここにあらず状態のままかなり書き直し(させられた)ことを覚えている。
教室から見えた海の夕景もかすかな記憶となっている。
その時の作文が活字になっていることを知らずにいて、そのことに気づいた担任の砂山幸一先生が1冊くださったのだった。
京都に行きたかったけれど、昨日の午前中は別用があり、それから金沢までの運転、さらに電車に乗っていく現実を踏み出せる気力も体力もなし。
谷内正遠さん
21021年8月 ほのぼのカレンダー(法藏館)
○石仏カレンダー
石仏カレンダー表紙 数部いただいた。送って頂いた小包の中に、下の下書きと見られるカレンダーも一部入っていた。
部屋に二つのカレンダーを並べて、ことば・版画をいただいている。
○ほのぼのカレンダー
下、今月7月。白山。
『無碍の一道』と『光雲無碍』
まだ文は続くのだが、これらの本で手元にあるものを持って、河合谷慶専寺で開かれる版画展に出かけ、絵はがき・一筆箋を作ってよ…。
と言おうと思っていたのに………
この本には、多くの谷内さんの版画が載っており、すごくいい本だ。
この写真は、谷内さんが本と共に送ってくれたのか、元々この本に添付されている写真なのか分からない。
アマゾン、日本の古本屋でも正遠さん編集『無碍の一道 谷内正順』は見つからない。市販されなかったのだろう。
写真にメモ書きをしなかったので、元が分からないのだが、この本をいただいたとき、幻の書となっている正遠さんの祖父・正順師の『光雲無碍』を再刊したものと思い込んでいた。(よくみたら貼り付けてあった。切り方も雑)
正遠さん逝去の衝撃の記事を見て、再刊本を探したら別の本だった。『無碍の一道』は『光雲無碍』に載らなかったテープなどを翻刻したとある。これも小さな衝撃。
ひぐらしが鳴く能登のゆきどまりー山口誓子碑
いろいろ整理していたら、「ひぐらしが鳴く能登のゆきどまり」の拓本が出てきた。
山口誓子については様々な情報を持っており、推進員勉強会、 蓮如忌法話の補助に使おうかと思ったが、狼煙で生かしてもらうのがいいだろう。
先日の推進員勉強会においでた狼煙区長さんに聞いたらー拓本があるなんて聞いたこともないとおっしゃっていたので、忘れないうちに届けようと狼煙に向かった。
これがその拓本である。円筒の中にあった。
『伝説とロマンの里』で調べると、灯台が出来たのは明治16年。
少年の頃、映画「喜びも悲しみも幾年月」を見
♪ おいら岬の灯台守は 妻と二人で 沖行く船の 無事を祈って 灯をかざす灯をかざす、
と(おおー、何も見ないで歌えた)友と大声で歌い、時に狼煙に行っては灯台守さんの姿を見て、映画の登場人物のような気分に浸ったものだったが、狼煙から灯台守さんが去り、無人化になったのは昭和38年のことだった。
昭和38年というと能登線が松波まで開通、翌年は蛸島までの全線開通、そして東京オリンピック。日本中が浮かれまくっていた頃、
おいら達を励まし続けていた歌の世界は、静かに幕を閉じていたのだった。
珠洲に千人以上の同級生がいた頃、多くが金の卵と言われて集団就職し、学校に残ったものは高校2年生の年だった。
麓の区長さん宅で渡すだけにしようと思ったのだが、句碑がどうなっているか、拓本との関係を見たくなり、できれば句碑と拓本を並べ、自分も入った写真を残せればと、「熱中症に気をつけて下さい」と連日有線が流れている中で、灯台に向かった。
公園というか広場というか久しぶりにたどり着いて、見渡せど句碑が見当たらない。
7月28日夏休みなのに人影もまばら。
曖昧な記憶なのだが、この石畳の真ん中あたりに碑があったような気がしていた。
区長さんに電話して、彼の言うとおりに動いて見つけることが出来た。
次の写真が2007年8月20日に撮ったもので、現在右の鉄塔が無くなっており、そのため通路がずーっと右に寄ったため、かつては句碑の右横面(灯台の歴史が書いてある)が正面のようになったために、句に気づけなくなったのだと判明した。
探し方の下手さもあるだろうが、訪れる人は誓子句碑があることに気づかないで次の目的地に向かうのではないだろうか…。
(2007年8月20日)
句は四角いレンガ塔の向こう側になる。
禄剛崎は(灯台名は禄剛埼)、朝日が海からのぼり、夕日は海に沈む場所として知られる。
下の写真は昭和42年8月。夕暮時。
ウラジオストック772㌔、釜山783㌔、上海1599㌔、東京302㌔の方角・距離案内板もある。若者が見ている方向には佐渡がある。
♪佐渡は49里(江戸期の歌詞は45里)波の上…?
2007年には、次の碑文も建っていた。
暁の蝉が聞こゆる岬かな 前田普羅