江口喜久男氏 塩谷利宗氏-伊藤修氏そして佐藤春夫(氏)

 

 

f:id:umiyamabusi:20210618153102j:plain

     花ザクロ

 

数日事情があって家を空けており、帰った日に、久留米の「江口茂子」さんという方からはがきが届いていた。
今年2月3日に西帰した江口(喜久男君)の身内の方のようだ。
どうしたのだろう…。

江口(学生時代の呼び方で敬称略)が亡くなったことは、間もなく彼と親しかった名古屋の伊藤修君[※下に過去のブログ記事]から連絡があって知った。

 

彼がかなり前から、入退院を繰り返していたらしい程度の情報はあって、
アァー、オレの誕生日の2日前に逝ったか……、と思ったが、彼の久留米での境遇が見当が付かず、
ご家族はおいでるのだろうが存じ上げないこともあって、「一つ宿題」をかかえながら、能登の地で、学生時代の江口を偲んでいた。

 

「一つ宿題」というのは、かつて『北国文華』第十一号、平成14年(2002)北國新聞社刊に、「山から海へ…」というエッセーを書いたとき、導入部に江口氏の文章を引用したことがあり、その「山から海へ…」を昨年6月に出版した『とも同行の真宗文化』に載せたのだった。
それで、当然、江口に1冊送ろうと思ったのに…。
思っただけで、送った記憶が無い。

f:id:umiyamabusi:20210618161520j:plain

       『とも同行の真宗文化』400ページ

f:id:umiyamabusi:20210618161614j:plain

    無量山真宗寺『同心』No45 2007年12月刊 351頁


本人はいなくとも、江口の文を載せましたと送るべきか、
こんなときに、西山って何だ?となっても、かえって面倒をかけることになるかも知れない…
得意の優柔不断状態で、はや4ヶ月もすぎた。

 

それが、思いもかけない「はがき」。

見ると、茂子様は江口君のご母堂で、

 

(遺品整理していたら)
昨年送った『妙好人千代尼』が出てきた。
私(ご母堂)も句会に参加しており、

 

「少しよませて頂き,嬉しゅう御座居ました。」

「大変おそくなりましたが御礼申し上げます。」

 

とある。

 

江口とは、かろうじてFBでつながっていたので、その頃のメッセージを探した。

 

2020年6月22日
あなた(西山)がメッセージを送信
大桑氏も先行き、大谷の知り合いがほとんどいなくなった時に刷り上がってきた『とも同行の真宗文化』という本。
知り合いは江口など数名。
関心があれば送ります。

 

6月23日
えぐち きくおさんがメッセージを送信
今活字が読めないのですが、少しすつ読連絡不要たいわ

 

24日6時42分
あなたがメッセージを送信
後半、少しずつ読むようにしたいわ。でいいのかな?
だったら字の大きい『妙好人千代尼』を送りますが?
『とも同行の真宗文化』は厚くて持つのも大変なので。

 

7月1日
あなたがメッセージを送信
妙好人千代尼』を送っておきました。

 

3日
えぐち きくおさんがメッセージを送信
本届きました(絵文字)ありがとう(絵文字)感謝申し上げます! 

 

そういうことだったのだ。

もう活字が読めない。ならと、読みやすさに気を配った『妙好人千代尼』を送っていた。
そして、ここに来てご母堂が見つけなさった。
俳句をやっておられなかったら、お気づきにならなかったかも知れないし、奥様が俳句の本ですよとお伝えになったのかも知れない。

 

「ひとつ宿題」(江口の書いた文章を引用した本-を送ってもいいか?)
が解決した。

 

すぐに学生時代の江口の思い出を書いて、『とも同行の真宗文化』をお送りした。
今日、届くだろう。

 

江口とは、
学生時代、全学ストで校舎が封鎖されていた頃、
私たちは自主ゼミを計画し、封鎖中の研究室で勉強会をしたりしていた。

そのころ、江口と二人きりで夜遅くまで研究室で語り合ったことがあった。
また、私が間借りしていた上賀茂の下宿は私以外は同志社の学生ばかりで、その中の一人、法学部か経済学部だったかの吉田君が江口と明善高校の同級生だった。

吉田はフラメンコギターがうまく、サビーカスやパコ・デ・ルシアの曲を奏でる合間に、
同級生の江口の話をしてくれた。

 

ワンゲル部に所属していた江口は、
毎日、石ころを詰めたザックを背負い、一人でグランドを黙々と走っていたといい、ものすごい根性があった、というのが彼の評だった。

 

人々の中にいる江口、熊本真宗寺にいたころの江口は、人あたりがいいというか、秘めた根性を表にしなかった(ようだ)。

 

私は、吉田の話や研究室で知っている芯の強さがあるから

いつも笑顔でおれるのだろうと、

社会に出てからの江口を一種畏敬の念で、遠くから眺め続けていた。

 

話は飛ぶが、最初に送ってきた真宗寺の『同心』22号(1983年刊)巻頭言に、

 

(当寺では、青年中心に御遠忌などの仏事行事を計画しており)
特に久留米の江口君が呉服店の若主人という恵まれた生活の一切を擲って、妻子をともなってはせさんじてくれた 

とある。

 

石牟礼道子

このお寺には、錚々たるメンバーが顔を出しておられ、石牟礼道子氏も同寺を拠点にしておいでる。

飯田高校国語教師だったころ、ゆとりの教育が叫ばれ教科書の中身ががらっと変わったことがあった。

その時、筑摩書房の教科書を採用したのだが、「もういっぺん人間に」(苦界浄土・石牟礼道子作)が教材に取り上げられており、判断材料の大きな理由にした。

話はそれるが、この教科書はユニークで、川端康成「雪国」も教材になっており、補助教材のような形で、THE Snow Country(雪国)と題する英文が付いていた。

 

教員経験者なら、たいてい知識にないことばが出てきて立ち往生したり、
試験当日になっても問題が出来ていない夢を見て目を覚ますことがあると思うのだが、
This is a Pen レベルの英語力しか無い私は、教員を辞めてからも時々,雪国の英文の前で立ち往生している夢を見たものだった。

一方、苦界浄土は胸打つ作品で、文章がわかりやすく、考えさせられて完結。
試験問題には、「感想をのべよ」しか作りようがないという、教材として見たときの痛し痒しがあった。

 閑話休題

 

私にとって、教科書の作家は雲の上の存在であり、その人と日常的に接し,住職代務者にまでなっていた江口師は、同様の雲の上の存在となっていた。

『北国文華』に引用した文は、その頃のもので、

ハハァーと、合掌しながら書き写したものだったのである。

 

江口!
今は…、還相の菩薩だね…。

 

塩谷利宗氏 釋利宗

今日は、江口と仲良しだった飯塚の塩谷氏の祥月命日(8回忌)。

 お逮夜日に、例年のごとく塩谷宅に電話を入れて偲び、

今年は、江口君の想い出を話し合った。

2006年4月

2010年5月

 2014年6月

2014年7月

2014年10月

2018年8月

 

 

 

伊藤修氏 

2011年4月

f:id:umiyamabusi:20210621065136j:plain

その頃、伊藤君はこのLPレコードにバンジョ-奏者として参加し、「日暮れのブルース」という曲を載せている。

初任の羽咋工業高校がある羽咋は、日本海に沈む夕景が素晴らしかった。

綺麗な夕焼けに出会うと、ハミングで、明るく軽快にを口ずさんだものだった。

f:id:umiyamabusi:20210621065223j:plain

 

f:id:umiyamabusi:20210621053354j:plain

 「長い旅がいやになる」の歌詞カードに楽器、コーラスなど9人の演奏者の写真が紹介されている。Banjo伊藤修。

2010年8月

 

 佐藤春夫信時潔

※福岡県立明善高校を検索したら、

久留米藩校の流れを汲む高校で、校歌の作詞は佐藤春夫、作曲は信時潔による。

とある。

私の初任、羽咋工業高校校歌と作詩、作曲者が同じだ。(6月21日)

 2017年2月

2017年6月

  

開慧眼-エゲンがシャリに生死無し。林尹夫著『わがいのち月明に燃ゆ 一戦没学徒の手記』と大地原豊氏

f:id:umiyamabusi:20210615171452j:plain

七十二候 芒種 第3候 梅子黄(うめのみきばむ)

 

文類偈 慧眼

このところ、お朝事(朝の勤行)に「文類偈」を戴いている。
「文類偈」に親しんでいこうとの思いからなのだが、
 ふと「智光明朗開慧眼」の「慧眼」が眼にとまった。
 「文類偈」は「正信偈」と同じく七言120句の偈で、840文字の中の2文字がバッと眼に焼き付いたのだ。
正信偈」は親鸞聖人50代頃の作であるのに対し、「文類偈」は83才の作とされている。

 

正信偈正信念仏偈)  顕浄土真実教行証文類
 もっというと、親鸞聖人52才の元仁元年(1224)に

親鸞、当年を末法に入って683年と「教行信証」に記す。(「教行信証」草稿本完成説あり。)(『真宗聖典』(大谷派))

 

とあり、
大谷派ではこの年を立教開宗の年としているのである。

末法の世に生きる人々が行える「行」を明らかにした行巻をようやく書き終える事が出来た、その感動が、正信の歌(偈)となって筆にあらわされた。

 ♪ 帰命無量寿如来 南無不可思議光…


文類偈(念仏正信偈)  浄土文類聚鈔
「文類偈」は、浄土真宗の教行証が完成し、それを顕わされた総合辞典(顕文類)をふまえ、この世に生きる「我ら凡夫」に、より思いが伝わるように推敲を凝らされた歌といえるのではないだろうか。
 その年頃には、聖人は御和讃という当時の流行歌・今様を用いた信心の歌をも次々と作っておいでるのである。
 「とも同行」と共にのお思いが、すでにわかりやすく書かれた「正信偈」をさらに練ったおことばであらわされたのが、「念仏正信偈」なのだろう。

 正信念仏偈が「正信偈」なら、念仏正信偈が「念仏偈」であれば、違った印象の偈であったろうが、何か深いわけがあって、当派では「文類偈」の伝統なのだろう。

 

慧眼
そこで、ようやく慧眼にもどるが
 「慧眼」が出る「文類偈」の箇所は、本願の働きをあらわす十二光によって
「能破無明大夜闇 智光明朗開慧眼」とあらわしておられる。
 そのところを「正信偈」では、
「一切群生蒙光照 本願名号正定業」とお教えくださっている。

 

今年になって文類偈をお勤めしだしたので、分からないところも多く、語句を調べようと思っても、手頃な書物に出会えない。
文類偈に触れている解説書も、その多くが、正信偈と内容はほとんど同じ-程度の説明しかないのだ。

今挙げた箇所も、正信偈は凡夫全てに届き、

文類偈は闇にさまよう私を相手にして下さっている、

と私には思えるのだが…。


「慧眼」の思い出
ここで、話題は真宗を離れる。
この「慧眼」が目にとまったのは、学生時代に読んだ数多くの書物の中に、ひときわこころに残り、一時期座右の銘としていたことばに「慧眼が這裡に生死無し」があったことを、それこそ「慧眼」と共に記憶の彼方から蘇ったのだ。

書名も筆者もはっきりと覚えている。
林尹夫著『わがいのち月明に燃ゆ』である。

同世代の学生の読書量に圧倒された。
なかでもLes Thibault(『チボー家の人々』)の翻訳がまだ無い時代に、原文で読み進めているのだ。
青春の悲しみを書いていた部分に「慧眼が這裡に生死無し」があった。

当時の私は、この句を、悟りを開くほどの理知・智慧があれば、様々な苦しみを超越することが出来ると受け取り、

エゲンを智慧の眼、「慧眼」だと思っていた。

後輩の前で、

ボソーッと「エゲンガシャリニショウジナシ」とつぶやいて、格好いいと思っていたこともあったような気がするのだが、そのうち気障なのでつぶやくことも無くなり、慧眼は記憶の底に沈んでいたのだった。

 

それが、50年以上経って、「文類偈」とともに蘇ったのだ。
『我が命月明に燃ゆ』を本箱から取り出し、その部分を見た。

f:id:umiyamabusi:20210615172108j:plain

   林尹夫『わがいのち月明に燃ゆ 一戦没学徒の手記』

 

「慧玄が這裏に生死無し」とあった。
慧眼では無く、慧玄だったのだ。這裡も、這裏だった。

 

大地原 豊氏
『我が命月明に燃ゆ』は、7月28日午前2時頃、夜間索敵哨戒の為、美保基地から緊急出動し室戸岬沖で米軍夜間戦闘機から攻撃を受け、戦死した林尹夫さんの日記(満18才~21才)であるが、

付記に尹夫氏の2編の論・研究ノート、「回想に生きる林尹夫」(兄、林克也)、

親友・大地原豊氏の文が載っている。

f:id:umiyamabusi:20210615172400j:plain

      「若き二人のフィロロ-ゲンよ」 大地原 豊

 

大地原?
ついこの前、大地原豊氏の名を見た。
何かで「諸法集要経」という書を見たいと思い、調べていたら出会ったのが京大サンスクリット学教授としての大地原氏だった。
京大教授、サンスクリット版「諸法集要経」とくれば、中島出身の大地原誠玄氏と関係があると見るのが自然だろう。

確証はないものの親子だろうと見当を付け、調べるが分からない。

誠玄氏が法名で「豊」が本名かも知れない-いつかはっきりすることがあるだろうと思いながら
とりあえず、『我が命月明に燃ゆ』・林尹夫・慧眼…で頭がいっぱいになっていることもあって、
書斎整理を続けた。

 

中外日報」平成5年(1993)12月3日、6日号
積み上げてあるコピーの中に、大地原氏についての2枚があった。

共通見出しは、「インド研究に大きな恩恵」。

東洋医学の重要史料『スシュルタ本集』を古代インドのサンスクリット原典から初めて日本語に完訳した大地原誠玄先生。

執筆 多留内科クリニック院長 多留淳文氏

12月3日版見出し-

日本語完訳で読解、石川出身の大地原氏、生家は西善寺と分かる、残る先生の書の忠魂碑、能登の過疎化で東京都内に支院も。

12月6日版見出し-

学問上で父子対話・令息が京都帝大へ、墓所に礼拝し顕彰誓う、学問的連続性に意義・梵語原文の動植物名ラテン語学名に同定。

 

豊氏はご子息であり、誠玄氏の関係者その他が委しく記されている。

誠玄氏は戦時中能登疎開しておられ、蔵書の一部があるお寺にあることは知っている。

この新聞記事によって、ずいぶんいろんなことが分かってきた。

 

豊氏には、身近なところでは中央公論社版・世界の名著1『バラモン経典・原始仏教』24編のうち、「ミリンダ王の問い」(大地原豊訳)がある。

 

umiyamabusi.hatenadiary.com

 

『真宗』整理

週に一度ぐらいは書いた方がいいかな?

とキーを打ち出した。

何が不要で何が不急なのか分からないが、不要不急で出かけるなというので、この機会に整理しようと思い立ったのだが、それが大変だった。

とりあえず『真宗』を整理ー

並べ直して見たら、昭和36年ごろからある。

昨年『とも同行の真宗文化』をまとめたのは、そもそも図書館に行っても書籍・雑誌など、かつて書いていて見つけられない類いをまとめたので、

この冊子も同様。

これは少なくと寺院の数だけは出ているシリーズだが、古くからのを整理してある書庫を持っているところがあるととしても、

(もういちど)あるとしても、最も近くて能登教務所あたりだろう。

私の住処から教務所まで行くには、休みを入れずに1時間半ほど運転しなければならない。

それで、組ごと(能登教区は全16組)に書籍など真宗文化の拠点がなけらばならない、というのが私の考えで、

それも夢見てー

と整理しだしたのだ。

 

その前に、今月末の蕗刈りをまつ蕗畑。

昨年回りの木々があまりに高くなったため伐ったところ、日当たりが良くなって

今年の蕗は細い。

環境の変化を素直に物語っている(ようだ)。

f:id:umiyamabusi:20210527081552j:plain

20210527蕗畑

真宗』整理中

f:id:umiyamabusi:20210527081637j:plain

このファイルは今も購入できるが、うまく挟めないし、高価。

どう保管していこうか、試行錯誤中。

f:id:umiyamabusi:20210527081657j:plain

この形と、いま思いついているのはこれに綴じ込み表紙をつけるスタイル。綴じ込み表紙を注文したので、来次第、作業に入れる。

f:id:umiyamabusi:20210527084639j:plain

昭和38年3月号

表紙を見ていると楽しくて作業がはかどらない。

昔の千枚田などが表紙になっているのだ。

今まで見て見ぬ振りと同じく、通り過ぎよう。

ところで、この山門で遊んでいる子は5才ぐらいだろうか?

獅子に見守られ、たくましく生きなさいよ、と呼びかけられている一瞬をカメラマンは切り取ったように思える。

かりに5才とすれば、今年65才ぐらいのはず。

 

ムムー。60年分の整理か?

 

終われば『同朋』、『大法輪』……諸氏の「抜き刷り

そして、

膨大なレジメなども待っている。

 

ついでに

ワクチンは

4月28日に第1回

5月19日に第2回を打った。

市のご努力と、人口が少ない、そして老人であるの3要素。

これからの人には申し訳ないので、しばしー静かに整理整頓です。

新刊紹介『とも同行の真宗文化』(『宗教民俗研究 第31号』)

f:id:umiyamabusi:20210512065815j:plain

このほど『日本民俗研究』第31号が届き、新刊紹介コーナーに『とも同行の真宗文化』が紹介された。

紹介者は本林靖久(同会副代表・編集担当本林靖久氏)

[内容]

西山郷史
『とも同行の真宗文化』

 本書の著者は、平成二年(一九九〇年)に『蓮如真宗行事』(木耳社、のち『蓮如真宗行事-能登の宗教民俗』で再刊)を上梓し、その後も、『蓮如上人と伝承』(真宗大谷派金沢別院、一九九八年)、『妙好人千代尼』(法藏館、二〇一八年)を出版してきた。本書は、この三〇年の間に様々な書物・雑誌・新聞などに掲載された真宗の風土に関する文章をまとめた著作である。
 タイトルの「とも同行」とは浄土真宗では同じ教えに生きる友という意味で、この真宗用語を用いて真宗文化を語ろうとするところに、民俗学者でありながらも浄土真宗の住職である著者の真宗の教えに立脚した鋭い眼差しが見られる。
 さて、目次を提示すると、「Ⅰ 真宗の風景 土徳の里」、「Ⅱ 蓮如文化論 太子・報恩講」、「Ⅲ 講 お座とご消息 盆習俗」、「Ⅳ 説教話 仏教和歌 今様 和讃」、「V 真宗と権現 神仏分離 祭 葬」、「Ⅵ 真宗用語と民俗語彙 先学の問い 法話」、「学統-あとがきにかえて」となり、総頁数四一九頁の大著である。
 各章の内容について論じることは紙面の制約上無理なので、筆者の関心を持った論考を提示しておきたい。まずは、能登蓮如忌の習俗を通して、「新旧文化の接点」を論じた桜井徳太郎の「真宗信仰と固有信仰との習合」に対する批判的論考である。西山氏は桜井のわずかな事例による推論に対して、詳細なデータの積み重ねによって、「いつの間にか能登蓮如忌は、固有の石動山信仰を踏まえて成立した行事だと、既定事実のように語られているのは、残念である」と論じ、「真宗教義は、あらゆる固有の民間信仰を雑行雑修として排除したという、遠い昔の話がつい近年に起こったかのような、それこそ固定した見方が繰り返し語られ、その図式に当てはめないと真宗民俗の説明にならないとの論調が支配していた」ことに疑義を呈し、「フィールドを通して窺える「固有」とは、実は真宗的世界・真宗風土のことを言つているのではないか、を、問わなければならない」と指摘する。つまり、新旧文化の新が真宗で、旧が固有信仰という対立概念で、真宗民俗を遡及的に解明しようとすることには意味がないことを力説している。
 一方で、真宗地帯における地域個性を重視し、「民俗調査力ードに従って真宗地帯を歩けば、当然、祈り・禁忌世界に関するものには出会わない。しかし、そこには差異・温度差があり、その差異が生ずるのは、大雑把にいえば、祈願・御利益といった真宗以外の宗教と、真宗との問にどの程度の距離・接点があるかによる」と指摘する。その差異が大きければ、追善、冥福、霊魂といった「民俗語彙」は、門徒の生活においては否定され、その語彙を用いた途端に真宗真宗でなくなる矛盾が生じる。つまり、真宗の民俗を明らかにするには、おかげさま、信心、たのむ、平生業成などの「真宗用語」で語り合うしかないと言う。したがって、「真宗が、民俗の表舞台に登場したのであれば、真宗抜きだった民俗語彙に、新たな真宗民俗用語が加わって、始めて民俗の一般化がなし得る」のだと主張する。
 本書を通底する視点は、「民俗学が対象とした常民は、いうまでもなく凡夫そのものであり、真宗地帯を避けて日本人の精神生活を探れるわけがない」のであり、「禅と真宗キリスト教真宗を語る人は多いが、もっと土着的なあるがままの世界が語られなければならない」ということのように思われた。その土着的なあるがままの世界が真宗風土を象徴する「土徳」であり、著者は、「能登は優しや、土までも」の言葉について、「土も優しいが、あれも優しい、これも優しい。その全てを包み込んだ言葉が土徳」であると言う。つまり、本書は、「土徳」を掘り下げ、「土徳」の世界に生きる人々の生き様を深く描き出そうとしている。
 その意味では、本著は真宗地域の民俗研究の新しい視座を提示する示唆に富む好著である。それでありながら、僧侶の立場からも心に響く「出会い」がある内容となっている。本会員はもとより、幅広い読者に一読をお勧めしたい。
 (臥龍文庫、二〇二〇年六月刊、四一九頁、一八〇〇円+税)
                            (本林靖久)

 

服部三智麿師~佐々木信麿師

f:id:umiyamabusi:20210505140126j:plain

5月5日 部屋前の藤

 

服部三智麿『三首詠歌説教』

古書に服部三智麿師の名を見つけた。

 

ちょうど30年前、「節談説教の風土」(『体系日本歴史と芸能 第五巻踊る人々』日本ビクター・平凡社 一九九一年六月刊)を書いた折、お話をお聞きした佐々木信麿師の話に語られていた伝説の布教師である。

そこでは次のように書いた。

 次の代に荒川徳照・長谷大玄・川岸後稠各師がいた。荒川師は稲垣徳秀師・滝岡徳汁師と共に能登の三徳といわれた。聴衆の多さで本堂の床板が抜けたところから「ネダゴボサマ」と呼ばれた師もいる。
 この頃、一世を風靡した説教僧に服部三智麿師がいた。富山県高岡市で桃中軒雲右衛門を指導し、布教先では、ちょうど興行をしていた市川団十郎の芝居を見、団十郎切腹する場面で「大根役者」と野次っておいて、後で説教を見にきた団十郎の前で、針をさした中啓を用いて実際に血を見せて驚かせたとか、「ひよどり越えの逆落し」の因縁話を行った時、咒字(しゆじ)袈裟を右ひざへかけて馬を駆る姿を演じたら、満堂の参詣人が一斉に腰を浮かし、馬を駆る動作をした、などという数々のエピソードを残した和上である。
 長谷大玄師が二十一歳の時、同じ在所で服部三智麿師の説教とかち合ってしまった。はじめのうちは余ったものが来ていたが、長谷師も三智麿師に劣らぬと評判となり、名が一度に知られるようになった。 

 (『とも同行の真宗文化』二〇二〇年六月十日刊、Ⅰ真宗の風土 土徳の里  十八頁~十九頁)

 

私にとっては、幻の説教僧だった方。まさかその人に触れることが出来る著書があるなんて…驚きつつ、すぐ注文した。

その時、話してくださった佐々木伸麿師も大変な和上で、全国にファンも多い。

  ※和上は大布教師の尊称。「わじょう」という。

佐々木師を紹介した文があるので、紹介する。

なんと、もう四五年来、佐々木師は毎年のように正覚寺報恩講に出続けておられるという。正覚寺門徒にはすっかりお馴染みだ。
佐々木師は髪の毛こそ真っ白だけれど、背筋のすっくと伸びた、若々しい、りりしいお坊さんと思った。だが既に七十歳を越えているという。いや、そんな高齢にはまったく見えない。身振り手振りもてきぱきしていて、立っているだけですがすがしい。佐々木師はもう五〇年以上、北海道から九州まで全国で説教しておられるという。「真宗吉本興業」とすら呼ばれる佐々木師の爆笑説教は、いまも全国で引っ張りだこだ。シーズン中は北から南まで全国にスケジュールがぎつしりつまる。
 正覚寺本堂正面にホワイトボードが運び込まれてきた。どうやら「黒板説教」らしい。文字を書きながら説教する、戦後に一般化した方法だ。例えば、
「ししゅのねんぶつ」
なんて言っても、音だけで文字が分からないと、意味がピンと来ない。これを「四趣」と書けば話が早い。江戸時代は庶民の識字率が低く民衆説教はむしろ落語や講談に近かった。というよりお説教が元になって落語、講談、浪花節など日本の話芸が生まれてきた。その大もとが冬場の農閑期に村々の説教所を巡回した、報恩講説教にあるのだ。
 かつての説教は「親の因果が子に報い」などという「因縁話」が多かった。だが戦後は仏教学的にきちんと裏の取れた話をするように方針が変化した。実は因縁話には差別表現が少なくない。それらを注意深く避けるようになったのも戦後のことだ。
今日の佐々木師のお説教は親鸞聖人二十九歳、法然上人との出会いの段から始まった。続いて三十五歳での流罪、いわゆる「承元の法難」のくだりになる。

「で、ご開山さまは越後の国の国府に流される、いまで言う直江津ですわな、ここで僧侶でもない、俗人でもない、『非僧非俗』の生活を始められたわけだわね」
 名手の説教は、突然話が飛ぶ。ところがそれを不自然に感じさせない。聞き手に実感の湧きやすい具体例を繰り出す。いわば「脱線」だが、これが絶妙なのだ。
「『非僧非俗』の生活を始められたわけだわね……ある坊さんが……聞き分けのない孫を連れてタクシーに乗っとった」
 親鸞聖人三十五歳とまったく関係ない「ある坊さん」の話にジャンプした。
「すると、タクシーの運転手さんが『これからお仕事ですか?』と聞いてきたというんだが、こういうところで『いや、お寺の坊さんで』なんて言うと、話が面倒になるので(場内笑)、だいたい世の中はお寺とか坊さんというとエラく儲けとると誤解しておるからね(場内爆笑)」

 説教の名手の話は聞き手を絶対置き去りにしない。逐一みんなの目を見、語りかけながら、話だけはどんどん脱線してゆく。学校の授業でも同じだろう。教科書の内容はさっぱり忘れてしまっても、脱線の話題だけは覚えていたりする。
「……それでその坊さん、あー、とか、うー、とか適当に答えていたら、今度は『景気はどうですか?』と聞いてきたっちゅうんだね……まあ、おれら坊さんには景気の良い悪いはあんまり関係はないわな、景気が良くなってもお布施がわっと増える、なんてこともないし(場内大爆笑)、少しばかり景気が悪くなっても、いきなりお布施が減る、ちゅうこともないし(爆笑)。で、その場はむにゃむにゃ言って誤魔化したら、タクシーを降りるなり、孫が真っ赤な顔して泣いて怒ってる。どうした、と聞いたら、『お爺ちゃん、ケーキはどうですか?(ここで爆笑)って聞かれたのに答えなかったから、ケーキ貰えなかったじゃないかって』(大爆笑)......」
真宗の吉本」佐々木伸麿師の面目躍如だが、こういう普通のギャグ、文字にしてしまうと伝わりにくいのだが、実にツボにはまって絶対に滑らないのだ。
一通り、爆笑ギャグの連発で座を沸かせたあと、説教はいきなり親驚聖人の生涯に戻る。 

 『笑う親鸞 楽しい念仏、歌う説教』(伊東乾著、2012年5月20日河出書房新社刊、22頁~25頁)より

 

三智麿師と伸麿師

佐々木師の父君が、長男としてお生まれになったご子息に、大和上「三智麿」師を越えるような布教師になって欲しい-との願いで、「伸麿」と名付けられたと聞いている。

その佐々木師は、当寺へは20代の時から布教にお越しになっておられ、当時のお参り(春勧化・祠堂経・報恩講)期間は、いずれも1週間~10日だったため、その間、お泊まりになって御布教をなさった。そのため、記憶では、小学生の頃から部屋(御堂座敷)に押しかけては、いろんな話を聞いたものだった。

若き頃の佐々木師

f:id:umiyamabusi:20210505161127j:plain

1960年(昭和35)頃の佐々木師。29歳か30歳のはず。

春日中学校(緑丘中学校に統合。手前体育館、正面二棟校舎は無く、同地に飯田小学校校舎が建っている)への登校坂。春日坂といっていた。中学校へは高下駄履きで通った。右の小屋は自転車小屋。

ついでに書くとー春日中学校は上戸(二クラス)・飯田(二クラス)・直小学校(一クラス)の生徒が集まっており、同級生は200余名。この坂・整備中のグランドあたりは当寺の華山で、山号臥龍山に校舎があったことになる。

 

 

佐々木師は元気だが、数年前85歳を迎えられたのを機に、遠いこともあって当寺への御布教をおやめになっている。

 

服部三智麿師は、明治3年(1868)~昭和19年(1944)の方なので、佐々木師も直接、三智麿節の語りを聞いたわけではないのだろうが、随行に付いた上野慶宗和上からお説教の伝統、師・随行の流れを聞いてこられたのだった。 

 

『三首詠歌説教』 服部三智麿 大正2年4月25日法蔵館発行

f:id:umiyamabusi:20210505161450j:plain

f:id:umiyamabusi:20210505161511j:plain

三首詠歌は、御文第4帖4通目に載り、この御文を「三首御詠歌」の御文と言っている(『真宗聖典』(大谷派)817~8頁)。394頁の著書で、服部三智麿口述、瑤寺晃・田中慈辨筆記とある。鬼の念仏絵は服部三智麿師。

 

先学・藤原松陰師と蓮如上人御絵像・イブキ杉

古書を購入したのは、先に書いたとおりだが、同書には元の持主の印がある。また布教用に学ばれたのであろうー書き込みがあり、メモもあった。

f:id:umiyamabusi:20210505161552j:plain

f:id:umiyamabusi:20210505164637j:plain

購入した古書店さんが南砺市

先学は「加賀國能美郡板津村字能美 正賢寺 藤原松陰」とある。

どちらも身近な土地だ。しかも、正賢寺はどこかで見たことがある。

記憶を辿ったら、すぐに思い出した。

蓮如さん 門徒が語る蓮如伝承集成』(加能民俗の界編著、1988年・昭和63年10月25日、十月社制作、橋本確文堂出版)で取り上げたお寺ではなかったか…。

確かめると、扉の「蓮如上人御絵像」が小松正賢寺蔵だし、本文でも「イブキ杉」(75頁)が載っている。

f:id:umiyamabusi:20210505161611j:plain

蓮如上人御絵像(小松正賢寺蔵)。『蓮如さん 門徒が語る蓮如伝承集成』より。

 

イブキ杉  [小松市能美町]

能美村に刀鍛冶の藤原将監家次というものがいた。家次は刀匠国次の子だという。寛正六年(一四六五)、比叡の山僧が大谷本願寺を破壊した時、家次は京に馳せ参じ、本願寺のために働きがあった。大いに喜ばれた蓮如さんは、家次の求めに応じて性賢という法名を授けた。
文明二年(一四七〇)五月二十八日、性賢が郷里に帰ることになると、蓮如さんは、日付けを記した寿像一軸と正信偈を与えた。
翌年、吉崎に来た蓮如さんは、性賢に乞われて能美村を訪れ、家次の庭に杉の小枝をさすと芽を出し、年経るごとに枝葉が繁茂した。

その葉の形がイブキに似ているのでイブキ杉といい、一名お花杉という。また、性賢は一刀を鍛えて蓮如さんに贈った時、真筆六字の名号をいただいたという。(藤原正麿談)

[解説]
性賢の子孫は、代々刀鍛冶をしていたが、貞享年間、六世家次の時、帰農して道場をつくり、性賢寺と称し、明治十二年(一八七九)十二月六日、許可を得て正賢寺となった。

お花杉は昭和六十一年(一九八六〉同寺の火災で焼失したが、その前に苗木取りしたものが現本堂前にある。

蓮如さんの遺物は、本文中の寿像と正信偈、真筆六字の名号のほか、一枚起請文、御文(現在の五帖御文の→帖目十五通のもの)、御遺骨などがある。

            『蓮如さん 門徒が語る蓮如伝承集成』(75頁)より。

 

藤原松陰・正麿のお二方の名を確認出来たのだが、『蓮如さん 門徒が語る蓮如伝承集成』発行の年に迎えた一向一揆500年からからも、すでに33年。

現在、正賢寺さんは同地に存在しないようである。

蓮如上人御影は、現在石川歴史博物館が所蔵しており、正賢寺は廃寺と記されている。

 

法縁が「こころ」に染みる。 

『妙好人千代尼』-月岡芳年展「月百姿」 三日月の 頃より待し 今宵かな

春 年度替わりで、各資料館・美術館などで様々な展覧会が開かれる。

当寺でも明日の 「蓮如忌」に向けて、虫干しも兼ね、何点かの法宝物を本堂に並べつつある。

今朝の北陸中日新聞に「月岡芳年展」がきょうから、と載っていた。
こういった展覧会はもう行かないことにしている。

というのも、片付け物が多くて-昨日も「東方界」に執筆しておいでた「美土路龍」さんの記事を、とっくの昔に廃刊になってる数十冊から見ていったら、それで一日がおわるどころか、宿題として残ってしまった。

 

 こういうことが多いので、遠い金沢まで、展覧会のためだけには行かない、記事も読まない…ことにしているのに、「見ない」という意識の裏返しで、

月岡芳年の名が勝手に飛び込んできた。
どこかで、この人に触れたぞ…!

そういえば、『妙好人千代尼』(法蔵館刊)の千代尼伝説で調べた人じゃなかったかな?
確かめてみると確かに月岡芳年だった。

f:id:umiyamabusi:20210424075111j:plain

翁 三日月の 頃より待 し今宵哉(版画引用は、どこででも見つけることが出来るし、執筆用に材料を集めていたときのもので特定なし、ということで…)



次の文が、その内容

Ⅴ-三伝説の千代
ここでは、民話の主人公に近い千代、それに、伝説として人々が千代に託した話を幾つか取り上げます。
(略)
  三日月の 頃より待し 今宵(こよい)かな
 これも千代尼の句ですが、芭蕉、五明(ごめい)、一茶などの逸話として伝わっています。
 五明は、吉川(きつかわ)五明(一七三一~一八〇三)で、俳壇の奥羽四天王、秋田蕉(しよう)風(ふう)の祖と仰がれた人です。


 この逸話は、仲秋の名月の場で句会が催され、千代尼あるいは五明などの逸話の主人公が、三日月の…と詠み始めたので、満月なのに三日月とはどうしたのだろう、と座がざわつきだしました。それを見計らって、
 (三日月の) 頃より待し 今宵かな
と千代尼(他の主人公)が付けたので、一堂感嘆したのでした。

 

 幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師・月岡(つきおか)芳年(よしとし)画の『月百姿』に、この句を主題にした一枚があります。そこには、満月、月見台を前に二人の庶民、行脚(あんぎゃ)中の俳人が描かれており、
  三日月の 頃より待ちし 今宵かな 翁 
と、翁すなわち芭蕉が詠んだことになっています。

 

 それにしても逸話の俳諧人は大概男性が役割を担っています。 当時の常識を越えた千代尼の存在が、より際だちます。

(以下略)

 

f:id:umiyamabusi:20210424075409j:plain

  北陸中日新聞 2021年4月24日(土)

 

記事には、伊東深水らが後に続いた。とある。
伊東深水 最近、何度か見学に行っている最初の弟子の一人 羽根万象(羽根万象美術館、能登町遠島山公園)
深水さんのお子さんの深氷さんとは、その方の拠点の一つが珠洲市鉢ヶ崎の勝東庵だったので、当時すぐ近くの珠洲焼資料館で館長を勤めていたこともあって、何度かお会いしている。なども、惹かれるが

 

f:id:umiyamabusi:20210424085448j:plain

遠島山公園

何よりも、月の百姿だ。

 

懺悔・改悔の極致-月愛三昧(『真宗聖典』(大谷派教行信証・信260頁)、
月も見て…(千代尼辞世句)、
月影の至らぬ…(法然上人、『真宗聖典蓮如上人御一代聞書855頁)、
…求めて宿る…(西行
など、切りがない

 

百姿には、今現在ー思考している「姨捨の月」もあるらしい。

 

さーて、どうしたもんだ。

『本の宇宙あるいはリリパットの遊泳』倉本四郎、「中日春秋」

今朝の「中日春秋」(北陸中日新聞)を読んでいたら、「リリパット国」の文字が飛び込んできた。

倉本四郎氏の週刊ポスト書評、ポストブックレビューをまとめた1冊に、リリパットが使われていて、書庫を通るたびに、リリパットを目にしていた。

そのリリパットは、今まで、リリパット君(ディズニー漫画のピノキオのような少年)がいて、その少年が楽しげに本の空間を遊泳しているイメージのタイトルぐらいに思っていた。

f:id:umiyamabusi:20210420061818j:plain

 

リリパット国(中日春秋)

f:id:umiyamabusi:20210420061843j:plain

リリパット君ではなく、「ガリバー旅行記」の国なのだ。

子供の頃、ガリバーは読んだ。大きなガリバーが砂浜かどこかで、大勢の小さな人間たちに動かないようにロープか何かで留められている絵だけが、記憶に残っている。幼なかったころの私には、もの悲しい場面だった。

巨人・ガリバーから、一語一語に厳しかった四郎さんが、ことば狩りが一つの文化のように席巻していた頃、

「こびと」がダメなら、なぜ「巨人」が許されるのだ、とつぶやいた。

「狩る」のでは無く、「ともに!」にの強い思いを、「つぶやき」に聞いた。

そこには、サトシ(郷史)! 国語の教師だろう?、どう思う?

の声にしない「声」もあったはずだ。

 

f:id:umiyamabusi:20210420061911j:plain

この本には、四郎さんが金沢まで、ポストの担当・大和氏と取材に来てくれて、ブックレヴューに載った三頁書評が再掲されている。

 

umiyamabusi.hatenadiary.com

 

 

umiyamabusi.hatenadiary.com

 

 

f:id:umiyamabusi:20210420062049j:plain

『都市の民俗・金沢』で一緒だった「あなたがた」は、小林忠雄、砺波和年、宮山博光、梅田和秀と私の5人だった。それから37年。

 

今日は、四郎さんが初めて家に来てから46年目。

あの時、伯母の明石さんが、

門徒さんや親戚に、今、売り出し中の倉本四郎です。平凡パンチなどで書いています。と紹介したはずだった。

 

若い全国区のひとを見て、皆、びっくり。

四郎さんは、30歳ごろだったはず。

 

 

リリパットも三千大千世界の一つ。
その国に生きとし生きるものも(スイフトのこころによって命を吹き込まれた存在であっても)、すべて仏性を有し(一切衆生悉有仏性)、弥陀に願われている。


御門・伝順徳上皇行在所跡

f:id:umiyamabusi:20210418050030j:plain

15日、金沢のラッシュを避けるべく、ホテルを6時50分に出発した。

車のフロントがガシガシに凍っていて、タオルを暖めて貰い、氷を溶かす。

ほぼ1時間。津幡の御門付近で車を止め、朝ドラを見ようとカーナビを操作するが画面に移すことが出来なくて、音声を聞く。

7時50分のはずなのに、NHKは6時台らしきことを言う。

ホテルの時計より1時間腕時計が遅れていて早め、車の時刻も1時間遅れていたので、行在所跡で調整するため、ガイドブックを開いたところだった。

家に何時か電話を入れる。7時前だという。

ようやく合点がいった。ホテルの時計が1時間早かったのだ。

気分を取り直して、いつも通り過ぎてた行在所跡にたたずむ。

順徳上皇ー何か真宗と関係があったはずだ。

『御伝鈔』に登場する、この方が順徳上皇天皇)。

皇帝諱守成号佐渡院、聖代建暦辛未歳子月中旬第七日、岡崎中納言範光卿をもって勅免、此時聖人右のごとく、禿字を書きて奏聞し給うに、陛下叡感をくだし、侍臣おおきに褒美す。勅免ありといえども、かしこに化を施さんために、なおしばらく在国し給いけり。(『真宗聖典東本願寺出版部版・大谷派、732頁)

聖人を勅免なさり、(愚)禿親鸞の名乗りを知って、叡感を下しなさった重要な方なのに、

御伝鈔には、「皇帝諱守成号佐渡院(皇帝、諱〈いみな〉守成〈もりなり〉佐渡の院と号す)」 としか出てこないので、気にせず、時々御門の碑を見ていたのに通り過ぎていたのだった。

順徳帝は、承久の乱の敗北で、佐渡流罪となった。

その方の行在所が、どうしてこんなところに?

説明板には

なからへて

 たとへは末に かへるとも

   うきはこの世の 都なりけり

佐渡に到着した際、供の者に託して京の九条家へ送った歌です。

当時、この地域一帯(宇ノ気、狩鹿野、指江、能瀬)を合わせて、

「うき(宇気)」と言っていることから、当時を偲んで詠んだ歌で

あろうといわれています。

1221(承久3)年、承久の乱に敗れた順徳上

皇が佐渡へ流される途中、大しけに遭い、やむなく王崎(現在の

かほく市大崎)の浜に上陸されて、御門に行在所(あんざいしょ

=仮の御所)を定め、同年12月から1223年の3月まで、足

掛け3年ご滞在されたと伝えられています。こうして村は御門

と呼ばれるようになり、「御門屋敷」と呼ばれた屋敷跡がこの地

であります。

 英田塾「英田の郷」より引用 順徳上皇御門屋敷碑建立委員会

 とある。

 

このあとも、早く動き出したので、あちこち巡ることになる。

 

大桑斉さん(先生)葬儀、一周忌-問われているもの。

f:id:umiyamabusi:20210416074417j:plain

2003年3月8日大谷大学最終講義。

講義は聞かずに、受付係をしていた草野顕之氏にお祝いを渡して会場を後にしたはず。写真は同日発行の「大桑斉先生年譜・業績目録」と共に、後ほど「大桑斉先生を囲む会」から送ってきた。

f:id:umiyamabusi:20210416093846j:plain

葬儀に参加するにあたって、最終講義「民衆思想史ということ」を、読み直してみた。面白かった。そして、あるときまで同じような方向を向いていて、いろんな意味での大先輩だった大桑さんの歩みが、急に見えなくなった。その象徴が、次に載せる著書、ヘルマン・オームス的世界との関わり、そして「他者」という用語・概念である。

 そのことも、この最終講義の中で、どうしてそういう関わりが生じてきたのか、誰が読んでも分かるように説明されていた。

 奥能登にいて、絶えず通る、金沢においでる大桑さんを知っているつもりだったが、つもりでしか無く、自分は自分のことをやっていた。その辺りが「他者」なのだ。

おまえ何言ってるんだ…。全然違うじゃないか。

まあ、そんなところかな…。

 

どちらにしろ、対話の術はない。

遠くに向かっていた大桑さんと、どこかで話し合えるとしたら

どうして真宗地帯に華やかで盛大な祭りが多いんだ?

の分析・解釈だったのだろうが、これはここで止めておく。

それこそ、「他者」ばかりで、大桑先生以外に聞く耳を持つ者はいなそうだし。

 

f:id:umiyamabusi:20210416093936j:plain

f:id:umiyamabusi:20210416094018j:plain

ご葬儀

f:id:umiyamabusi:20210416094059j:plain

お参りしてきた。昨年も桜が散っている頃だった。大桑さんのお寺・善福寺近くの浅野川界隈には桜木が多い。明日ありと…。願わくば…。桜・桜・さくら

ご住職をお送りする葬儀の流れは、私たちの能登教区第10組とは、所々に違いがあった。

f:id:umiyamabusi:20210416094115j:plain

善福寺土蔵本堂。

f:id:umiyamabusi:20210416094139j:plain

仏教史の諸君と。前列左から-西山、田内、江口、藤島先生、名畑さん、塩谷。

大桑さんは田内の後ろに立っておいでる。

ここに名を書いた人々の中で、この世に在るのは田内と西山のみ。

江口も今年2月3日に還っていった。

2、3列目は、大桑さん以外、皆元気なはず。f:id:umiyamabusi:20210416094228j:plain

この他にも、手元の書籍に部分執筆されいる論がかなりある。そして、賀状の文がいつも素晴らしかった。大桑学を時代順、内容別に整理したいのだが、どうなることだろう。

f:id:umiyamabusi:20210416094317j:plain

f:id:umiyamabusi:20210416094407j:plain

f:id:umiyamabusi:20210416094439j:plain

抜き刷りは、葬儀参加前にある程度まとめた。

「一茶」は、私なりのとらえ方で書きたいのだが…。この抜き刷りは別のルートから頂いている。

『とも同行の真宗文化』の大桑さん

ちゃんと最終講義の内容を分析する前、昨年6月に出した『とも同行の真宗文化』に書いた文。

大桑斉(一九三七~二〇二〇) 膨大な著書中、とも・門徒に寄り添った仏者・門徒像を描いた代表作。
『大地の仏者』(能登印刷 五十八年一月三十一日)、『論集仏教土着』編(執筆者二十二名 法藏館二〇〇三年三月)、『江戸 真宗門徒の生と死』(二〇一九年十二月、方丈堂出版
 日本宗教民俗学(テーマ―「真宗と民俗」の再検討、於大谷大学、二〇〇六年六月十日)で、特別講演「真宗と民俗―思想史の視点から―」を行った。講演録より。
 「真宗と民俗」という問題のいったい何が、現在問題なのかという疑問です。
 江戸では真宗は亡霊という民俗(学の対象)に立ち向かいました。あるいは異界というものに立ち向かいました。でも近代ではどうなったのか。近代に民俗が消滅したということが言わず語らずに思われているようでございますけれど そうではなくて、近代に至って、民俗は国家儀礼に吸収されたと思います。
 (中略)「真宗と民俗」という課題を立てて私が考えるならば、真宗は何に向き合っていったのか、それと真宗はどう関わったのかと、こういう問題として私は考えていくことになるだろうとの関心に立っています(『宗教民俗研究』第十七号二〇〇七年二十~二十一頁)。
 大桑さんとは、真宗地帯に華やかな風流を伴う祭礼が多いのはなぜか?を、メールでやりとりし、参考文献・問題点を出しつつあるところで、大桑さんは『江戸 真宗門徒の生と死』(方丈堂出版)、『本願寺教如形成史論』(法藏館)出版の追い込みに入られ、中断。

大桑さんの、門信徒の願い・非のさらに奥にある根源の「こころ」に思いを寄せ、それを思想史として普遍化し続けられた学びの姿勢は、大桑学統として受けつがなければならない。二〇二〇年四月十四日還浄。法名斉証院釋闡正、八十二才。

                              同誌415頁