いしかわ風土記 ひと
このところ、POD版本作りの作業をしていて、書きたいことがいくつかあったのに、そちらに集中していた。
新聞記事も読まず,見出しのみ。ただ「マンボウ」という言葉が,縁の無いような人が使っているように思えて、著名な人に、あらたなあだ名でもついたのかと、連れ合いにたずねた。
読まない中で、「いしかわ風土記~2~」が目にとまり、読んだ。~1~があるはずだが気づかず調べると,昨日1日にあった。
そういえば、4月からの新連載に、このような感じの物があったような…
このような感じなら、昔は、何人もの研究者の顔が次々浮かんできたものだが、今は新聞記者さんの力が圧倒的に越えている-ナァーと
ちらっと思ったものだった。
記事は次。
坂内(ばんない)さんは、3日前・3月30日(木)に来て行かれた。
能登全体の話をすればいいのかと勝手に思い込み、
若い方?だったので、新米記者かとこれも思い込み、
名刺もちゃんと見ずに、このところ話することもない日々のウサを晴らすかのように、3時間もダラ話をしてしまった。
「能登はやさしや」をお聞きにおいでたのだー
わー!
穴があったら……。
なお、参考までに
友の遠い親戚ー西谷(啓治)記念館をたずねる
高校の同級生で、ずーっと親しくしているY・N君と、3月18日に西谷(啓治)記念館に行ってきた。
なぜ西谷記念館かというと、西谷氏が「奥能登の風光」(『宗教と非宗教の間』岩波現代文庫)に
私は4、5歳の頃、珠洲の鵜島にあった宗玄という家に何日か泊まっていた。それは大きな酒造りの家で、私の母の姉がそこの主婦であった。
から、故郷のイメージを書き出しており、その宗玄家からN君の祖母が嫁いでいることを、時々聞いていたのである。
宗玄家当主に嫁いだ西谷氏の伯母、当主の姉か妹がN君の祖母になるはずだ。
西谷氏のことは知らないというので、準備期間をたっぷり取り、いよいよ記念館その他を散策する日を迎えたのだ。
記念館以外にも弘法榧の調査で、
かつて加賀藩12代藩主前田斉泰が碁盤にする榧の大木を求めて各地に問い合わせたとき、当時の十村(他藩の大庄屋)役だった宗玄忠左衛門がこの榧について調べ、弘法大師ゆかりの榧であることを報告(文化4・1807年)、まもなく、斉泰から、国の宝だから大切に守っていくようにとの厳命が持ち主の吹上家に下されたという(「記弘法大師所植瓶花榧之事」天保2年(1831)。
ここにもY君の遠祖が関わっている。
ということで、久しぶりにN君と散策。西谷記念館のある遠島山公園で待ち合わせた。
遠島山公園 棚木城
棚木(たなぎ)城は、「故墟考」に、前は白山の社地で谷合(たにあ)いなり。山間に水垂滑路(なめりみち)という山道あり。その上に池あり。直径百二十㌢~百五十㌢の清水で、朱鷺(とき)の巣穴という大きな穴がある、と記している。城址は遠島山公園になっており朱鷺の巣穴は現在のスズメ穴にあたるのだろうか。城を挟(はさ)んで反対側の駐車場に、能登守護畠山の三代当主義統(よしむね)の次男棚木左門氏之が、守護からもらった名馬の手入れをした「馬洗池」という池があり、枯渇(こかつ)することがないという(「説明板」)。それが清水かもしれない。
『鳳至郡誌』に、城山の東平に、船隠しといって不思議な所があり、船が何艘泊まっていても外から見えることはない。その他、切り通しなど面白い所が今に残っている、とある。また、落城の時の「米流し坂」伝説を載せている。上杉勢が攻めてきたとき、籠城(ろうじよう)していた長(ちよう)与一(よいち)景連(かげつら)が、米を流して滝のように見せ、城には水が多いことを示した。越後の勢は、遠くからこの様子を見て、作戦を立てられないでいた。ところが鳥が米をついばみ始めたので水の少ないことを知り、城を取り囲んで落とした、という話である。景連は、上杉謙信の近臣で、景連が戦ったのは、前田軍の長連竜、大井直康たちである。
城山の湾に面したところは、樹木が生い茂り、うっそうとしているその間に、赤土が崩れ落ちて一つの道のようになっているところがある、そこが米を流して滝に見せた地であるといわれている。
このほか、入り江に映る月を愛でた「月見御殿跡」などが公園にあり、遠き棚木城時代を伝えている。(『石川県立飯田高等学校百周年記念誌伝説とロマンの里』第4章 城址、旧家、碑、民話 1鵜川館、天呑城、棚木城2012(平成24)年刊より)
羽根万象美術館からの「船隠し」
ウグイス ホーホケ…
真脇遺跡縄文館
「ドブネ」収蔵庫
坂坦道作 石川啄木歌碑
石川啄木歌碑
しんとして
幅広き街の
秋の夜の
玉蜀黍の
焼くるにほいよ
啄木
HPなどでは、1907年に札幌に滞在した石川啄木が詠んだ歌が、札幌大通公園の碑に刻まれている。などとあって、左の歌の部分が取り替えられている(坂担道作を加えた歌碑のようだ)。
takuboku-odori3 より
吹上 弘法榧
宗玄村忠左衛門の名が載る説明板に見入るN君。「宗玄家の系譜」(中島吉正『すずろ物語』第49号、昭和59年刊)をコピーして持ってきてくれたので、ずいぶんいろんな事が分かった。
宗玄酒造を始めたのは忠左衛門家から分家した忠五郎家でその4代目当主が酒造業を始めた。その流れが現在高岡で宗玄病院を営んでいる。
宗玄家のお墓は宗玄酒造近くにあり、N君がお墓を守っている。
この論にはN君を「医師」と書いているが、今も公立病院の医師である。
この日は、偶々出勤しなくてもいい日だったので西谷記念館へ行くことが出来た。
「たこつぼ」か、それとも? 尖底形製塩土器
13日(土)小木公民館で「市之瀬、越坂の生業と歴史」と題して講演してきた。
高校の同級生男女1名ずつ。西谷啓治さんが能登で最も仲良くしていた従兄弟石岡さんのお子さん。それに真脇遺跡縄文館館長・高田氏などが聴講に来てくれた。
石岡、高田氏は飯田高校、宇出津高校時代の教え子で、このところの西谷啓治氏調査、越坂製塩土器を知るために合い、13日の講演のする旨を伝えていたのが、顔を出してくれたのである。
小木、市之瀬、越坂を含む内浦町エリアで、戦前の文化財は松波城しか知られていなかった。
それが戦後、越坂並びの新保(遺跡)が昭和27、8年に行われた九学会の調査地に選ばれ、その時調査主任だった東大教授・駒井和愛氏は『座談会 能登の実態』で
古墳時代以外の土器では、東海岸というか飯田附近の越坂とか新保というようなところに包含しているものに、先つポのトガつたような妙な土器で、土地の人が、蛸つぼではないかというのがあります。
これは能登というか、奥能登では、その辺だけにしかない、他の県へ行つてみて調査もしたのですが、どの時代のものか良くわからない。けれども非常に珍らしいもので、これは氷見洞窟のやや上の方からも出ているようです。氷見の洞窟は縄文式の頃からあるのですが、その新しい層から出ております。それから瀬戸内海あるいは、渥美半島それから伊勢湾などでも出ているとのことです。
これは何か日本では、今云つたような区域であつて一種独特なもので、どういう目的で先のトガつた妙なこの土器が、おそらく土師(ハジ)器の時代か、その前後の時代に使われていたらしく、一ケ所から非常に沢山出て来ます。あれはちよつと発掘しただけでも、山盛りになつて出て来るのですから、かなり沢山使つていたらしいのです。そういう面白い問題で、土地の人が「蛸壺の問題」といつておりますが良くわからないのです。
それからもう一つ面白いのは須恵(スエ)器と呼んでおるものが、案外能登半島の奥ではがなり後まで作られておりますし、また使われておりますことです。例えば、我々が泊つたお寺の開山の和尚さんは足利時代の貞和三年(一三四七)になくなっておるのですが、その人の骨壺が出てきた。それを偶然見たのですが、須恵器の非常に退化したものです。
と語っておられ、
北陸総合学術調査(昭和三十六年~三十九年 北陸中日新聞・中部日本新聞本社 考古学班。珠洲焼の生産・交易、古代土器製塩など)の折、昭和三十七年に、越坂製塩遺跡群、越坂A~E、Aコウカミ Bトクボ Dソデバマで試掘している。
これらに中心となって関わった高堀勝喜氏は『能登半島学術書』(石川県昭和四〇・一九六五年七月)に
その附近(能登の古墳)には必ずといってよいほど、製塩に従事したと考えられる遺跡が発見され、能登式土器とよばれる、特異な形態をもつ粗製土師器が大量に出土している。[以下遺跡解説省略―庵遺跡、森腰遺跡、柴垣遺跡、小浦遺跡] このように能登式土器は台底、棒状尖底、平底、丸底に大別されるが、伴出する須恵器によって年代を考証すると、七世紀から八世紀すなわち古墳時代後期から奈良時代にわたって用いられたと考えられる。
能登式土器類似の土師器は、瀬戸内海、紀伊半島、知多半島、若狭湾岸などで発見され、製塩の煎熬用に使用された煮沸容器、すなわち製塩土器であるとする説が、学界に認められつつある。能登式土器は台付形が七尾湾岸に、棒状尖底形が珠洲内浦海岸に、平底形が羽咋市滝から志賀町志賀浦海岸に特に濃密であり、中でも珠洲郡内浦町海岸には二十四の遺跡が連なっている。
やはり製塩土器と深く関わり、石川の考古を幅広い層に広め、学会をリードしていくことになる橋本澄夫氏は、『北陸の古代史』「若狭と能登の土器製塩」(橋本澄夫著、昭和四十九年・一九七四・十一月 北陸中日新聞社)において、
昭和二十六年三月、まだ冬の気配が残る石川県内浦町新保の海岸近くで、一つの発掘風景が見られた。それは昭和二十四年夏、清水隆久泉丘高校教諭(現県教委職員)によって発見された新保縄文遺跡の調査だった。発掘に参加したのは秋田喜一、高堀勝喜、沼田啓太郎、上野与一ら石川考古学研究会の主カメンバーだった。
この時の発掘調査で縄文中期初頭の標式的土器(新保式土器)が認定されるなどの成果を収めているが、それにもまして関心を集めたのは付近から表採された奇妙な土器片の一括であった。それは土師器に似た素焼土器の小片で、全体の形がわからないほど細かく破砕していたが、”鬼の角”にも似た棒状の底がある異形の土器だったらしい。細片となっている薄い胴部破片も二次的な火熱を受けたらしく赤く焼けていた。後日、秋田によって「能奥式尖底土器」と命名されたこの種の土器を出す遺跡は、能登半島内浦沿岸で相次いで発見された。その用途については”タコ壺説””祭祀説””ガラス生産説”などとか論せられたが、これが古代の製塩用具であることが明らかにされたのは昭和二十九年ごろになってからである。
と書いている。
新保遺跡(長尾・越坂)が選ばれたわけ
ここまで話していたら、どうして新保が調査地に選ばれたげね-?
と、質問する人がおいでた。
私もどうして新保(長尾・越坂)なんだろうと、レジメを作っていて思ったので、そのあたりを、メモしておいた。
昭和15年が紀元2600年の戦前史観に触れると話が長くなるので、足下を見ていく教育の中でということにして、
昭和二十四年、清水隆久(泉丘教諭)先生が、鵜川出身の生徒・河合仁君と能登の遺跡探訪の旅に出かけ、仁君の親戚・小木中畠中勗校長宅に泊まった。その時、同校川淵功教員が新保の畠で縄文土器らしきものを採取したという話を聞き、翌日出かけて数片の縄文土器を採取した。旧内浦町域では、松波城以外で初めて世に出た遺跡となった。この時、後に町史・考古編担当となる高堀勝喜氏は発熱のため同行できず、翌年夏現地を訪ね若干の土器片と石槍1点を採取。
26年3月25・6日、24年春に発足していた珠洲郷土史研究会メンバー(中野錬次郎、和島俊二、塩梅俊夫、川淵功)と石川考古学研究会(高堀、副会長秋田喜一など5名)による約4坪の新保遺跡発掘調査を行った。
25日は川淵教諭宅に泊。その時高堀氏の宇出津小学校・泉丘高校の教え子である数馬酒造の数馬嘉平氏などから酒の差し入れがあり、新保縄文土器や海岸で採取した土師器についての談論に花が咲き、それがタコツボ論争に発展していった。
( 『内浦町史』第一巻 昭和五十六年 「第一章 内浦町の考古学研究の足跡」高堀勝喜氏より。「第四章 内浦町の土器製塩遺跡と製塩土器」は橋本澄夫氏担当)
高堀氏が宇出津小学校で教えていたことは、共に『能都町史』に関わった折にも、聞いたことが無く、親しくさせて頂いた故・数馬嘉雄氏の父君の名にここで出会うとは、それだけで、今回の話をお引き受けした甲斐、というよりあまりあるものがあった。
この棒状尖底能登式土器製塩は、『ドライブ紀行 いしかわ遺跡めぐり・能登編』 橋本澄夫(一九九一・平成三年一〇月 北國新聞社)にも、
古墳時代前半期(四・五世紀)台底型土器、古墳時代後半期(六・七世紀)尖底型土器、平底型奈良時代(八世紀)以降
昭和二十九年(一九五四)、福野潟学術調査。高堀氏 謎の土器が小浦遺跡から採集されていた。昭和二十六年、新保縄文遺跡、秋田喜一先生が新保海岸から採集された奇妙な土器片。①大量にある ②海岸地帯のみ ③二次的な高い加熱。秋田氏はタコツボ説。尖った部分に紐を結びつけて海に沈める。別に工業生産説、祭祀土器。→タコツボ論争
などと紹介されているが、高堀さんが世を去り、橋本さんが前線から身をひかれてから、しばらくして開かれた「日本海域の土器製塩」シンポ(2010年3月『石川県埋蔵文化財情報』第23号)には、
とあって、『能登半島学術書』の「能登式土器は台底、棒状尖底、平底、丸底(高堀)」の、棒状尖底が脚台に含まれたのか、無視されている。
その辺りを縄文の研究でも第一人者である四柳嘉章氏(輪島漆芸美術館名誉館長)に訪ねたら、
『ヤトン谷内遺跡 能登における古代製塩遺跡の調査』「尖底製塩土器制作技法の復元」(四柳嘉章 一九九五年・平成七 中島町教育委員会)があるとおっしゃる。
その頃中島町史の調査を一緒にやっていて、この報告書は頂いていた。尖底土器研究の到達点なのだろう。
素人判断ながら、尖底土器は狭い浜に最も効率的に煎熬しうる形状ではないかと思える。
四柳氏論文をふまえ、今一度、分布と予測される自然景観と、棒状尖底土器の位置づけを問い直す必要があるのではないか、と思うのだが、どうなのだろうか?
姿を見せた尖底製塩土器
高田氏は、「最も原型に近い形で出土した極めて貴重な」尖底製塩土器を、講演の場に持参して下さった。
これも、聞けば長い間、石川県埋蔵文化財センターで展示しており、センターの財団化にともない、出土地の内浦町に還り、(日の目を見ないでいたのが)最近真脇遺跡縄文館に保管されることになったのだという。
高田氏に本を届けに、講演の前に資料館へ寄ったのが、聴衆の方がたとともに、土器を目の当たりに見ることにつながった。
出会いの不思議さ…。
歩かなくてはならない。
なお『座談会 能登の実態』で、
それからもう一つ面白いのは須恵(スエ)器と呼んでおるものが、案外能登半島の奥ではがなり後まで作られております…
とある須恵器は珠洲でも他地域と同様に姿を消しており、ここで言う須恵器に似た黒く堅い焼き物は、昭和38年に「珠洲焼」と命名された別の古陶のことである。
珠洲焼は「須恵器に似て、須恵器にあらず」から研究史がはじまった。
製塩・レジメ
明野・市之瀬・越坂-吹上 「弘法榧」「熊野社舊跡由緒地」を訪ねる(3月10日・水)
3月3日のブログに、弘法榧、熊野神社舊跡由緒地碑を尋ねたが探す出せなかった旨を書いた。
附に落ちないので、町の文化財担当者と連絡を取ったもののはっきりしない。
直近に見た人はいないようだし、直近の私自身は180度方向音痴なので今一度確かめに出かけた。
榧の方は10年前に撮った写真から、道の上方を探していたのが、ひよっとしたら下方かも知れないと見当を付け、講義会場の様子も知りたいので小木公民館に向かった。
お昼近く公民館出発。
弘法榧
弘法榧は、案内標識が無く道路からは榧があるのかどうかが分からない。このところ大雪による倒木も多いので、榧の存在を示す標識が無いため、もう無いのかも知れないとの思い込みがあったのだが、見つけることができた。
私が場所を説明するとすれば、榧の持ち主吹上家から歩いて小木方面に向かう道を下って30㍍程にあります、となる。これは、今まで道路から巨木が見えると思っていたので、実際に辿りついての認識だ。車からは、榧を見つけることが出来ない。
レジメにも載せておいたが珠洲市と能登町では国・県指定文化財がほぼ同数であるのに市指定82に対し町は313と4倍近くある。これは元柳田村の指定が多いためで、指定基準がバラバラなまま、町指定に移行しているためである。
能登沖地震の後、いつまでも倒れたままになっている文化財を他地区のあちこちで見かけたが、近くで崖崩れもあったという「弘法榧」にも、近年同じようなことがおきているのかも知れない、そしてあまりの指定数に現状把握が出来ていない、と考えても不思議ではない。
ともあれ、熊野エリアの北側・真言木郎結集に対する南側の象徴・吹上エリアのシンボルとでもいうべき榧が、無事に変わらずにあったことに、感動した。
記弘法大師所植瓶花榧之事 天保二(一八三一)年 吹上弘一家文書 『内浦町史』二巻 四九一頁
記弘法大師所植瓶花榧之事 能州珠洲郡表浦海辺有山、濟挙十許町山之半腹有二本之榧樹、周囲一丈四五尺枝葉森々而欝然与尋常之樹木異也、其實大且長殻皮左周旋故世云左巻之榧聞道此地往昔之古伽藍堂塔並甍吾祖弘法大師、亦一夏安居而修求聞持秘法、法成就後植壇上所備之瓶花於此処左右両瓶故有榧二本不改枝葉繁茂古今青翠之色者吾真言秘密教法至末代之数千萬歳守護国家利濟民庶之霊瑞也、鳴呼貴哉不可不仰不可不信矣、傳聞其地面廿間四方従御元祖大納言高徳院殿拝領之来、其地主云越坂村助右衛門此家亦是弘法大師投錫之家云、去文化四年之春故金龍院(※十二代斉泰)殿有尊虜--欲作碁盤-尋榧之大木於国中、宗玄村忠左衛門訴此樹木之巨細於金城之政府、時故金龍院殿尋其樹木之来由、於焉地主助右衛門具認弘法大師求聞持秘法瓶花之家傳来由以上之政府、同年至十月故金龍院殿厳命是此神木也不可敢加斧鉞、堅守護以為国寳焉、今又慎告地主助右衛門令守護此樹永久則非使啻(ただ)国家之武運栄久、抑又汝子孫亦是濟々云爾 天保二年卯五月 前善通寺誕生院権僧正隆鳳謹書 (包紙上書)「榧榧之由来」 菩提所於満泉寺観悟法印
弘法大師一千年御遠忌勤修之御為大阿闍梨御下向當家被持成御一宿候時、御作被成下難有頂戴仕候事
熊野社舊跡碑
もう一つの碑について。市之瀬からの道が四つ角になる地点数㍍のところに碑がある、と2、3年前に行った人がいう。
3日に附近を尋ねた感触では、三叉路に交差している昔の道、と言うべきだとすでに混乱。180度方向音痴なので右側にあるのか左側にあるのかが重要。市之瀬(海)側、乃ち左側にあるはず。道の左側数㍍を確かめる。
3.40㍍行くと、元は広々としていただろうと思われる場所があった。
見つかった。
昭和55年に刊行した『能都町史』に載せた写真ほとんどそのままと言っていい。小さい碑だと取られるおそれがあるのでぼかすのだが、碑高119㎝、台座を含むと160㎝近くもあり、奥行34、幅66センチの堂々たる碑だった。道路から三段、10㍍くらい入った地点にあった。
3~4㍍説に対して、ちゃんとしておかなければと歩数で距離を確かめた。73歩。
今の私の歩幅なら、少なめで一歩50センチくらいか?それでも36㍍にはなる。
13日に間に合うように帰ってから作図。
これで、バッチリ。
昼食を取りに九十九湾越坂地内に新しく出来た「イカの駅つくモール」で食事をしながら、今一度、構想を練ろうと行ったのだが、なんと水曜日は休業日。
次の目的地・西谷記念館を越え、宇出津で昼食。
そのあと教え子が館長をしている「藤波テニスミュージアム」のある藤波台運動公園や
越坂出土の「尖底形製塩土器」の話を確かめるため、やはり教え子が館長をしている「真脇遺跡縄文館」を訪ねたりした。
それらを元に作成したのが以下のレジメ参照写真・図である。
レジメ参照写真・図
二つの芭蕉句碑ーその二・白丸芭蕉句碑
長浜吟行句会のメンバーが聴講の多くを占めておいでになった講義「宝立の月」(2月25日木)。
昨日のブログに書いたように、芭蕉百回忌を記念してと言われていた能登最古の芭蕉句碑「名月や北国日和さだめなき」(門前黒島)が、一〇〇回忌では無く、九〇回忌の時のものだった。
となると、100年関係の碑がないだろうか?と訪ねてみたくなる。
出会いとはこういうものなのだろう。
月を詠んだ句では無いものの、宝立公民館館長民山(みんざん)さんに通ずる「民山」とある句碑があるので、話すことがあるかも知れないと思い、その句碑について見直した。
なんと、その句碑が芭蕉没後百年の碑だったのである。
『伝説とロマンの里』(石川県立飯田高等学校百周年記念)には次のように書いた(217~8頁)。
四章 12 芭蕉(ばしよう)句碑
○能登町白丸「やすらぎ能登教室」敷地内
『内浦町史』第三巻に、「鶴の巣も見らるる花の葉越かな はせを」さらに芭蕉と刻むとあるが、下五が欠損しており、刻まれているのは芭蕉翁の文字である。書体・刻みの深さが同じなので、芭蕉翁だけだった可能性がある。この碑は、新村川原の石垣に積まれていたのを、初崎寅松・大形岩蔵氏たちが宮崎観音堂境内に移した。昭和十五年(一九四〇)には俳句愛好会である白丸雅友が発足し、その句碑に参拝したという。
裏面に「寛政甲寅(一七九四)初夏富来住凡内民山」「三波」とあり、数奇な経過をたどったにしては、欠損部以外の傷みもなく、いい句碑である。
この宮崎の地には江波神社があった。明治四十年に菅原神社に合祀され、跡地に北の向出にあった観音堂を移した。その後、白丸小学校の敷地拡大によって観音堂は菅原神社そばの小山に移転したが、碑はそのまま元地近くに残り、現在白丸公民館の上、校舎(「やすらぎ能登教室」)右に建っている。
牧孝治氏は、「続虚栗(みなしぐり)」の「鸛(こう)の巣もみらるる花の葉越哉」を指摘しておいでる。
この碑について、もう少し詳しく見ていこう。
○『内浦町史』第二巻 近世・近代・民俗編(昭和57年10月刊) 979~980頁
芭蕉の句碑
白丸新村と長尾の境の川より上がった芭蕉の作と言われる句碑がある。
「鶴の巣の見らるゝ程の」までは刻まれているがあとはわからない。
ある人は「葉越えかな」「茂み」とも言っている。
○『内浦町史』第三巻 通史・集落編 文化と俳諧(牧孝治・石川県俳文学協会常任理事執筆)昭和59年・1984年10月刊・635頁
当町には芭蕉の碑が二基あって、松波万福寺庭園内の一基。
もう一つの句碑は、白丸小学校の校庭に建てられており、もと新村と長尾の境の川なかにあったもの。
鶴の巣も見らるる花の葉越かな はせを(さらに芭蕉と刻む)
裏面に「寛政申((甲))寅初夏富来住凡内民山」「三波」とある。台座を付すも碑面に欠損がある。
大正五年(※1916)、白丸観音堂からここに再建された。由来などは不詳である。
『続(ぞく)虚栗(みなしぐり)』には「鸛(こう)の巣もみらるる((ゝ))花の葉越哉」とある。
2冊の内浦町史に拠ると、句そのものを、牧氏は「花の葉越かな はせを(さらに芭蕉と刻む)」と書いているが、私が書いたように、下五以下は、欠損で失われていた。ただ、私が見たのは2012年のことで内浦町史刊行から30年も経ってからのことである。町史執筆の頃には欠損はなかったのでは、とも考えられるが、私の見たのは「芭蕉」ではなく「芭蕉翁」であり、翁を見逃すはずがない。それに前年に地元の人が書いた文には「鶴の巣の見らるる程の」までは刻まれているとあり、以下は欠損していてなかったことを示唆している。
これはここまでとしておくが、
町史には碑が「川なかにあった」「台座を付す」とある。イメージが涌かない。私の文には
新村川原の石垣に積まれていたのを、初崎寅松・大形岩蔵氏たちが宮崎観音堂境内に移した。昭和十五年(一九四〇)には俳句愛好会である白丸雅友が発足し、その句碑に参拝したという。
と、極めて具体的に書いている。
そこで新たな疑問。
町史以上に参考となり、参考にした資料があったのだろうか。
昭和60(1985)年3月に『白丸小学校百十年史』が坂下喜久次・高塚隆両教諭が編集主任となり、碑を当地に移した初崎寅松・大形岩蔵氏の特別協力の下で刊行している。10年ほど前の話なのでよく覚えていないが、この本に、碑移動の顛末が書かれていたのだろう。
25日講義のあと、26日に、その時お聞きになっていた「長浜吟行句会」の有志さん達と、白丸の碑を訪ねた。
前に調査したときは、危なくて後ろの文字をじっくり見ることは出来無かったが、今行って見ると、様相が一変していた。
数奇な碑の変転が、その後も続いていたらしい。
じっくり見ることが出来、写真も撮れた。碑文は以下のようになるだろう。
[表]
靍の巣毛(も) 芭蕉翁
見良類ゝ(らるる)[欠損]
[裏左(裏から見て)]
富木住
凡内民山
寛 甲寅初夏
[裏右] 三波【欠損か】
[註] 芭蕉没後、「寛」がつく年号は、寛保、寛延、寛政があるが、甲寅は寛政六年しか無い。寛政六年は1794年、芭蕉没後100年である。
「三波」は藤波・波並・矢波。
[石の大きさ]
縦 119㎝ 横 52㎝ 奥行き 63㎝
上から見て△状の碑石である。
以下写真で変遷を辿る
以下、2021年(令和3年)2月26日(金)
二つの芭蕉句碑-その一・名月塚
25日の「宝立の月」講義に、長浜吟行句会のメンバーが聴講の多くを占めておいでになることもあり、能登最古の芭蕉句碑「名月や北国日和さだめなき」が刻まれている名月塚について触れた。
石川県立飯田高等学校百周年記念に出版した『伝説とロマンの里』は、飯田高校生の通学エリア内の伝説・ロマンを紹介した書物なのだが、
その第4章 城址、旧家、碑、民話の12に芭蕉句碑を取り上げた。一項目約1000字。そのまま案内板にしてもいいくらいを目途に書いたもので、
芭蕉句碑は次の文である(同書216頁~218頁、下線はここで取り上げる箇所)
④12 芭蕉(ばしよう)句碑
連歌の発句(ほつく)から、滑稽(こつけい)な誹諧(はいかい)として親しまれていた文芸を、芸術の域にまで高めたのが松尾芭蕉(ばしよう)(一六四四~九四)だった。俳句結社などによって芭蕉句碑が建てられるが、能登では、芭蕉百回忌に建てられた天明三年(一七八三) の「明月塚」「名月や北国日和(ひより)さだめなき」(輪島市黒島名願寺境内)が最も古いもので、奥能登北部では、次の芭蕉句碑や翁塚がある。○常椿寺境内(曹洞宗、能登町宇出津)
「名月や同じ心のより処 芭蕉」。年代不詳。参道階段を登り詰めた左側にある。句碑の前に「芭蕉翁句碑」と書いた案内石が建っている。○大乗寺境内(日蓮宗、同宇出津)
「秋も早(は)やばらつく雨に月の影 芭蕉」昭和三十四年建立。大乗寺では元禄頃の俳壇に関わった七世日昌、寛政年中に句会を催した十四世法随(俳号竹姿)を輩出しており、『鳳至郡誌』では、竹姿が建てたのだろうとしている。○万福寺(曹洞宗、同松波)
「黄鳥や柳のうしろ薮の前 はせを(芭蕉)」 万福寺庭園内。牧孝治氏は『内浦町史』第三巻で「続猿蓑(さるみの)集」に「鶯や柳のうしろ薮のまえ」があることを指摘しておいでる。○能登町白丸「やすらぎ能登教室」敷地内
『内浦町史』第三巻に、「鶴の巣も見らるる花の葉越かな はせを」さらに芭蕉と刻むとあるが、下五が欠損しており、刻まれているのは芭蕉翁の文字である。書体・刻みの深さが同じなので、芭蕉翁だけだった可能性がある。この碑は、新村川原の石垣に積まれていたのを、初崎寅松・大形岩蔵氏たちが宮崎観音堂境内に移した。昭和十五年(一九四〇)には俳句愛好会である白丸雅友が発足し、その句碑に参拝したという。裏面に「寛政甲寅(一七九四)初夏富来住凡内民山」「三波」とあり、数奇な経過をたどったにしては、欠損部以外の傷みもなく、いい句碑である。この宮崎の地には江波神社があった。明治四十年に菅原神社に合祀され、跡地に北の向出にあった観音堂を移した。その後、白丸小学校の敷地拡大によって観音堂は菅原神社そばの小山に移転したが、碑はそのまま元地近くに残り、現在白丸公民館の上、校舎(「やすらぎ能登教室」)右に建っている。牧孝治氏は、「続虚栗(みなしぐり)」の「鸛(こう)の巣もみらるる花の葉越哉」を指摘しておいでる。
※大正五年(一九一六)、白丸観音堂からここ(校庭)に再建された。○上戸寺社「翁碑」
珠洲市内には芭蕉句碑はなく、上戸町寺社、逆さ杉の東側に「芭蕉(ばしよう)翁(おう)」の翁碑がある。県最北の芭蕉関係の碑である。ここには『能登名跡志』を著した太田道兼の歌碑もある。なお、富山県南砺市井波に、伊賀(いが)上野(うえの)の故郷塚、義仲寺の本廟(ほんびよう)とともに芭蕉(ばしよう)三塚(さんづか)の一つとされている翁塚がある。この翁塚は黒髪庵の境内(けいだい)にあり、元禄十三年(一七〇〇)に、芭蕉(ばしよう)の門弟(もんてい)であった井波瑞泉寺第十一代浪化(ろうか)が、師を慕(した)って建てた碑である。台座に「是本邦翁塚始也矣(これほんぽうおきなづかはじめなり)」とある。二年後の元禄十五年には芭蕉の遺髪(いはつ)も塚に納められた。
レジメを作るとき、芭蕉の没年を入れたところ、百回忌では無く、九〇回忌であることに気づいた。
有名な「名月塚」である。先行文は多いはずで、何かを見て百回忌と書いたはず。また、結社が句碑を建てるのに百回忌は疑いようも無くふさわしい。
先行文で、引用したのではないかと考えられるものを調べた。
『新修門前町史通史編』(平成十八年一月)の420頁に載っていた。執筆者は石川高等専門学校教授 高島要氏
芭蕉追善の「名月塚」
天明三年(一七八三)珠トは、俳聖芭蕉の百回忌にちなんで追善供養の「名月塚」碑を建立した。
「名月塚」の碑面には、芭蕉の『奥の細道』から「名月や北国日和さだめなき」の句が刻まれ、その縁起及び除幕に寄せられた上地の俳人たちの芭蕉追悼句を、玞卜自ら記したのが自筆稿本『名月塚』の巻頭である。これに並ぶ黒島社中には、玞卜の息子の破井、妻の文遊、文朝、麦秀、恰水など一三人。名願寺住職の為本が践文を添えた。黒島社中はまた同年、加賀の河合見風追悼句集にも揃って選ばれたりもしている。句集『名月塚』には、その後も寛政三年(一七九一)秋頃までにわたって、京都や金沢など全国各地から名月塚に参詣来遊した俳人たちの献句が記される。玞卜は俳譜を加賀の蘭更に学び、京都の甫尺とも交遊をもった。また、浪速の芳園の撰「俳譜百家仙」に連なり、全国にその名を馳せた、
ここに百回忌とある。
芭蕉句碑を建てるのは自ら句の上達、あるいは結社の繁栄を願ってであり、すでに俳聖的扱いとなっている芭蕉を追善することなどあり得ない。
しかし、句集『名月塚』のどこかに碑の建立者・玞卜が書いていれば別なので、同町史資料編3近世編(P303)に載る『句集名月塚』の序文を見た。
名月や北国日和さためなき 芭蕉
彫刻 玻井序
祖翁は伊賀の国柘植郷の産
(中略)
されば我輩其高情を感するに幸いなるかなことし
百歳の回忌に満ければ
名月や北国日和さためなき と
越の角鹿の一章(※?)有今龍松山の境内に碑をもふけて
彼句を石碑の銘にあらはしおの〳〵
其むかしをしとふのみ
于時 天明三卯年 於龍松山建之
とあって、追善らしき表現は、当然なかった。
「むかしをしとふ」は追慕であって、他力を眼目とする真宗龍松山名願寺境内に自力行の作善碑を建てるはずがないのである。
それはそうとして、玞卜の著したこの書が「百回忌」となっている。
この前のページに高島氏の概説があり、
とあるのに、一般の我らが見るとすれば通史であろうが、その通史に「百回忌にちなんで」としか表現されなかったのは、残念なことである。
この碑は、相当傷んでいて、かなり前から句を読み取ることが出来ない状態だったが、能登沖地震での黒島の被害は大きく、龍松山の道は崩壊し、お寺の本堂も傾き、庫裏は建て直さなければならない状態になった。
昨年9月15日に久しぶりに名願寺さんを訪ね、復興なった碑を見た。
真ん中の「芭」しか読めないが、句集『名月塚』巻頭に句碑の絵が載っている。
そこには
名月や北国日和
さ多免なき
彫刻 玻井
とある。
芭蕉九〇回忌を記念して、玞卜が建てた「名月塚」が、龍松山名願寺境内にある。
ということである。
百回忌の碑は無いのだろうか?
それは、その二・白丸芭蕉句碑で…。
真宗典籍
25日(木)宝立公民館で講演したことはその日にアップした。
講義の始まる少し前に、待機していた事務室に、一人の女性がおいでになり、二冊の和本をお見せになった。
一人暮らしの友だちのところにほこりだらけの汚いのが100冊ほどもあって、西山先生に見てもらおうと、埃を落として持参したと、おっしゃる。
見ると、四帖疏玄義分を解説した一冊、もう一冊は廣本~とある。
それで、善導大師のお書きなった観経解釈本の説明、親鸞聖人のお書きになった御本の説明本ですね。
筆写された本なので、大切にしておいてくださいと伝えて下さい。
ところが、汚いし何が書いてあるかも分からないし、跡継ぎもいないし、
今日ゴミ捨ての日なので捨てる、とゴミ場に行くところだったので、ともかく見てもらおうと持ってきた。
家に置いておくつもりはないのです。
とおっしゃるので、(焼却しないで)残しておかなければならないですよ、と言ってはみたものの、
残すにはどうしたらいいかが出てこない。
講義の時間は近づく。
結局、預かるしかなくなり、
講義を終えてから、持ってきた方(知り合いの奥さんだった)、館長と共に持ち主のお宅に行き、預かってきた。
それが、この冊子類である。
79冊ある。
どうしよう……
宝立の月ー2月25日(木)=旧暦1月14日
先端は能登町赤崎。半島の向こうは鹿泊、比那。比那には西行・松島の見仏上人と出会ったという仏穴(『撰集抄』)がある。
長浜八景(『能登名跡志』)では、吼木晩鐘、黒峰暮雪、飯田夕鐘、蛸島帰帆、雲津落雁と続く。
今日、宝立(ほうりゅう)公民館で講義
タイトルは「宝立の月」。
最初の話は「千代尼の俳句」だった。
午前中 吟行をした長浜俳句会のメンバーの方々も聴講なさった。
私は西谷啓治氏の「奥能登の風光」にある家持の「珠洲の海に朝開きして~長浜の浦に月照りにけり」から
見附島が藩政期の藩への書上げが、すべて見月島となっていることをお話し、
「宝立の月」を語ることにした。
西谷啓治氏は、唯一の子供の頃の思い出を書いた「奥能登の風光」の後半部に、後年、能登をたずねたときのバス越しに立山が見えた光景に
その山と海と空と、それら全体の風光は、やはり地上のものとは思えない神秘な美しさであった。
と書いておられる。氏が乗ったは松波から小木に向かうバスで、宝立は外れているので、レジメにはその部分を削除したのだが、
講義前に見附海岸に寄ったところ、立山が見えた。シャッターを切ってまもなく、雲が覆いぼや-となった。
下はレジメ。