購入諸本などー花かたみ、稟承餘艸、俳諧寺一茶…
とも同行を育てる書籍
稟承余草 全
一茶関係
蝦夷錦、東アジアの交流
蝦夷錦記事
蝦夷錦寄進札は3枚ある。須摩屋藤右衛門(江差)などだが、整理がよすぎて戸澗氏らがおいでたときの写真や、別の法宝物調査時の写真が見つけ出せない。
言い換えれば、検索がうまく出来ないということだ(このバージョンのソフトが使いにくい)。
かろうじて見つけ出した須摩屋は江差総同行中の有力者で、藤田屋與三兵衞・西田屋伴右衛門・本庄屋などとともに天保十二年(1841)に内敷も寄付なさっておいでる。
無縁のため整理したが、墓地に「須广」とあるお墓があった。
須磨ではなく須广姓はかつて、共に民俗調査した須广さんがそうだった。
どんどん思い出が移っていきそうなので、この話はここまで。
これから「臥龍の小径」整備のため、小笹伐り…。
戸澗さんが副会長かぁー。
ぼくにも勉強した日々があったなーー。ぐらいの昨日・今日
東アジアの交流と文化遺産
寺域の木々
若山庄飯田城主の庵だった光福庵の流れを汲む飯田総道場西勝寺も寺域の周りが民家や駐車場になって時が流れた。
何度も巨木の枝を払ってきたが、木々はあっという間に成長し枝も張る。伐採して下さる名人たちもそろそろ高齢になり、いろんな点で限界に至った。
それで、欅の葉が散る前に、欅4本、榎2本、棕櫚4本、梨1本、欅の枝2本、椿数本の枝を、この18日から22日にかけて切っていただいた。
その間、暇さえあれば、名人技を口開けて眺めていた。
この後、今珠洲で最も通行量の多い道路側の木々作業へと移るのだが、その道路を作るための発掘が始まったのが平成元年。
その2年後、わたしは住職となるのだけれど、後ろ側というか道路側は笹藪に覆われていた。数年かかって行った、いわば最初の作業が笹刈りだった。
それから30年。
すっきりした木々の中を歩いてみると、遮る木々がなう周りの家が目に入る。
人はほとんど住んでいないが、森のお寺から町のお寺になったなぁーとの印象である。
10月23日
伝説の風景ー弁慶石・やませみ湖(北河内ダム)
22日八組坊守会のため、柳田へ行った。
少し余裕を持って
「弁慶石」がどうなっているか訪ねた。
ススキ・月ー♪すすき葉末にひかるは露か…(伊太郎旅歌唄)
このあと話す予定の
わずかなる庭の小草の白露を求めて宿る秋の夜の月(西行)、この歌をこよなく好んでおられたという金子大栄師のことなどが、風となってこころを通り過ぎていく。
弁慶石ーこの五十里葦谷地区の奥に弁慶谷内というところがあった。そこには大きな石があって水路を引く妨げになっていた。あるとき弁慶が通りかかり、その石を脇によけてくれた。その出来事が地名の言われとなり、弁慶石は水の守り神になっていたという。雨乞い石だったのだろう。それがダム建設のために沈んでしまうため、この場所に移して語り伝えていくことにしたのである。
碑文にはこのようなことが書いてある。
ーが、いつこの碑ができ、碑文をどなたが書いたのかが、どこにも書いてない。
碑文を書いたのは府玻美智子さんである。
わたしは民俗、伝説などを調べたり書いたりしており、府玻さんは巡り巡っての教え子でもあって、途中から協力させて頂いた。
当時はやませき湖を一周することが出来、弁慶谷内へ行く道もあったのだが、今はこの舗装道路、写真に写っているところまで行くことが出来、
その先は進入禁止になっている。
そこに行って「弁慶石は?」と思った。目的が弁慶石だったから、車を降りてぶらぶらしながら写真の碑に会うことが出来た。
誰がこの碑を書いたのか?いつ?
もっと言えば弁慶石がこのようなところにあることさえ、もう知る人がいないのではないか…。そんなことを考えさせる時の流れだ。
帰って調べてみると、ダムは2010年8月に完成している。
10年前の出来事だったのだ。
府玻さんはお元気で活躍なさっているようだ。
なお「地消地産文化情報誌 能登」創刊号から35号まで「伝説の風景」を連載した。
それをやめてからこの前届いた41号で6号1年半経過した。
それさえーズーッと昔の思い出になっている。
弁慶伝説、弁慶石は35回のうち、「別所比咩神と弁慶石」(第8号)で取り上げた。
この五十里弁慶谷内の他に、しっかり伝えなければならない弁慶石に、
これからは思い立ったとき、一人ぶらりと伝説の風景をたずねたい。
「野辺の送り」10月13日、朝刊記事
11日父の命日。同じ日故叔母のお寺で報恩講。
昨年は台風のさなか、お説教をさせていただいた。引上会地帯で多くの住職さん達の参りあわせがあるエリアなのだが、今年はコロナ騒ぎで参りあわせはなし。そのことや、
「野辺の送り」記事依頼を受け、澄んだ月明かりの元で、父と叔母のことを考え原稿を書いたこともあり、始めて報恩講に出仕した。
そこから遠くもない会場で開かれていた版画展も興味があって、お参りの後、会場前まで行ったのだが、家族連れが多い場になじめそうもないような気がして通過。
11~13日は其他の用もあって、金沢方面にいた。
今朝の北國新聞21面の記事「野辺の送り」は、ホテルで読んだ。
19、とも同行の順拝・たび 「宗祖聖人御旧跡巡拝」⑳―豊四郎順拝92~99 文化六年-1809 能登~越中
92 羽喰(羽咋)北方山御堂(本念寺)
文化六年 能州羽喰
北方山御堂
已三月 役僧[角印]
93 津幡鳥越山御堂(弘願寺)
(印)加州津幡
鳥越山御堂
已三月役所[角印]
94 高龍山報恩寺
二十四輩第一 越中屋
[角印]高龍山謝徳院報恩寺
縁起別記 執事[角印]
三月廿九日
※報恩寺は富山県に何ヶ寺か在るが、高岡戸出報恩寺である。
95 高岡 専福寺
越中之州高岡
北谷山専福寺
四月朔日 役僧[角印]
96 牧野 東弘寺
後堀川皇帝勅願所
高柳山信順院岳山堂
(印)(印)東弘寺(印)
宗祖聖人四年弘法ノ梵刹
浄土真宗最初ノ寺號
二十四輩第九番善性上人
嗣法縁起霊寶畧ス于此焉
97
[角印]東本願寺院家専念寺
浄土真宗三代目覺如上人改祖
本尊覺如上人
御開山蓮如上人
太子高僧蓮如上人此外別縁
記ニ不殃印専念寺地中
正信寺(印)
98 富山極成寺
高祖聖人御𦾔跡
越中富山
館定山極成寺
聖人御腰掛石 御両手跡□ 石霊ト名□
右之外霊宝略之
知事成圓寺[角印]
四月三日
99 越中吉野 託法寺
[角印]越中吉野 四十万山託法寺
綽如上人 蓮如上人 御𦾔跡
霊寶品不記 役者(印)
已四月五日
22、とも同行の順拝・たび 「宗祖聖人御旧跡巡拝」㉓―豊四郎順拝113~118 文化六年-1809 武州・下総
親鸞聖人御直筆
本尊面向阿弥陀如来
摂取山
光増寺
114 関宿中戸 常敬寺
下總國葛飾郡關宿中戸村
中戸山西光院常敬寺
鎌倉将軍惟康親王御建立
亀山院後宇田院兩帝勅願所
高祖聖人御孫唯善上人開基
具如別録
月番 圓乗筆
八月五日
115 上幸嶋庄一ノ谷 妙安寺
總州上幸嶋庄一ノ谷村一谷山大法院妙安寺ハ
祖師聖人第六之御遺弟開基成然上人江
御付属之 御真影百四十余年之御安座其後
三村前橋ニ二百年之余御移転又前橋より
御本山江御遷堂被為在是則一ノ谷最初安置の
旧跡殊ニ成然上人文永二乙丑年十月十日遷化之
寶物ホ數多畧之
役者
116 猨嶋郡三村 妙安寺
下總國猨嶋郡三村
一谷山最頂院妙安寺
関東二十四輩第六之御直弟
成然上人旧跡上州前橋妙安寺
兼帯所也
巳八月七日 輪番
117 長須 阿弥陀寺
御朱印地 總州長須村
屈施龍山 稱名院阿弥陀寺
高祖聖人御旧跡也
左へ御旅之御願御筆
宝物数多
八月七日 役僧
118 野田 西念寺
二十四輩山第七野田
西念御房開基也
下總国邊田村
八月八日 執事
18、とも同行の順拝・たび 「宗祖聖人御旧跡巡拝」⑲―豊四郎順拝86~91 文化五年-1808 江州
お二方(藤井一二氏、篠原敬氏)のイベント案内ーそして、月と栗ー
その前に
中秋の名月ー柳田の月午後6時58分。能登の山道-山際・中空ー月が煌々と前にあり右手にあってドライブの友となってくれた。
○藤井一二氏
そういえば、藤井さんとは県埋文評議員会でいつも隣同士。いろんなことを教えてもらった。
10月7日(水)追記
○篠原敬氏
お二方から案内が届いた。
芸術に触れたい。
太宰府も一度は訪ねたい。
だが、日のたつことの早さにあせりながら、
シコシコと、わたしの知りたい一茶整理をしている自分お姿が目に浮かぶ。