暑いさなか、ちょっと各地へー鶴来、羽咋、柳田、金丸―17・18日

 お盆ピーク過ぎの17・18日金沢近辺へ出たついで。空が青く、夏休み気分になって、車で体を冷やし歩く。汗だくになってまた車ーの繰り返し…

鶴来

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白山市虎石墓。『とも同行の真宗文化』327頁に追加。

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墓碑名号。南條文雄師。七尾市調査の折、大泊墓地で同師の墓碑名号に出会ったのが最初。

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鶴来別院から船岡山白山信仰の原初地)、親鸞聖人廟所を望む。

[参考]2019年3月29日親鸞聖人廟所・虎石墓

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 羽咋

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羽咋神社拝殿奥の地蔵菩薩、大日板碑など。

羽咋神社宮司桜井さんが今年亡くなられてことを羽咋総局の新聞記者さんから聞いたので、手を合わせに羽咋神社へ寄った。その時、気多本地地蔵菩薩があることに気づいた。気多権現は将軍地蔵で、気多圏の神社奥宮などで木造将軍地蔵にであったことがあったが、馬に乗る複雑な像容は石仏では表現できない。

中央の片膝をあげた姿の古い地蔵さんが口能登に相当存在する。直感に近いのだけれど、気多本地を象徴する地蔵さんの姿なのかもしれない。

[参照]

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金丸宿那彦神像石神社前。お出で祭記念写真。桜井さんは前列神官の真ん中の人。これら神官のお子さんが町長になってる人もいるくらい昔。神官は全員馬に乗って巡行。平国際(お出で、お帰り祭り)の全盛時代を記念する写真と言えるだろう。1984年。私は向かって右の最後列青のコートを着ている。37歳。大雪の年で21日は吹雪いて大変だった。屋根にわずかだが雪が積もっている。

 

柳田

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羽咋柳田シャコデ(釈迦堂)廃寺 木造塔心礎石(川原寺式)。前に寄ったときこれが心礎石だろうとは思ったが確信を持てずにいた。この日(18日)は羽咋歴史民俗資料館で考古学芸員の方に確かめ自信を持って見てきた。近くの廃寺跡発掘説明会で配られた資料を見たときには大きさから7重の塔だったような気がするが、その資料を探す余裕がない。ともあれ、こんな素晴らしい心礎が案外身近なところにある。

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三星山善正寺(本願寺派)境内。近くには能登国17番札所ー総持寺慈雲閣御詠歌奉納額に「柳田普陀落山」とあるー普陀落は南海上にあると言われる観音浄土のこと。邑知潟が浄土と意識されていた。御詠歌は4種あり、その一つ「補陀落や風に浮世の雲晴れて、影澄み写る柳田の月」。

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対岸(旧邑知潟)の山は宝達山(熊野)。気多は宝達の遙拝地に位置する。すぐ横の大己貴像石社は白山の遙拝。

[参照]

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2005年1月17日撮影。能登国三十三観音巡礼札所第17番柳田光泉寺仏像群。西山郷史著『能登国三十三観音のたび』(平成17年2005、北國新聞社刊)参照

金丸

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金丸鎌の宮。

 

 

鹿西町指定文化財 名木タブ
鎌の宮神木 由緒
祭神 建御名方命大己貴命大国主命の別名)のみ子神で、大己貴命少彦名命の二神と力を合わせ、邑知潟に住む毒蛇化鳥を退治、能登の国平定の神功をたてられた。
 おすわまつりと呼ぶ祭典が、毎年7月27日(今は8月)に行われ、日足鎌とも左鎌とも呼ぶ2丁の鎌に、稲穂と白木綿をつけ、古来、鎌宮 洲端名神風祭と呼び来たった風祭りを行い祭典後その鎌を神木に打ちつける。
この鎌は諏訪の薙鎌ともいって、外に刃が向かっており、暴風よけ辰巻よけとして神木の高所に打ちつける、なお金丸鎌祭は中昔まで参詣人は遠近より鎌を持って郡集し「鎌の舞」を演じたという。
 俗に「二十七日お諏訪の祭、雨が降らねば風が吹く」と伝えられている。
 鹿西町教育委員会 鹿西町文化財審議会

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鎌が見えるだろうか。この北には中能登町藤井住吉、七尾日室諏訪社に同様の鎌打ち神事がある。諏訪ー一茶も関わってくるのだろう。

 

 

 

 

お盆は

朝が早い

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16日早朝―三日月の右横に明けの明星。手前の葉は柚子の木。

吾亦紅

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大学4年の時、「われもこう」という名を知った。しわ寄せてたばこ吸うかや吾亦紅(赤ずきんちゃん気をつけてー庄司薫)。実物を身近に見るのははじめて。

 違っていた。さよなら怪傑黒頭巾、だった。

吾亦紅も、ひらかな表記(2021年8月13日訂正)

吾亦紅 すぎもとまさと

https://youtu.be/ezrjjvb4TKY

 

16、とも同行の順拝・たび 「宗祖聖人御旧跡巡拝」⑰―豊四郎順拝76~80 文化五年-1808  洛陽~江州

76 洛東中岡崎村 東御坊

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祖師聖人

洛東中岡崎村

御𦾔跡

御坊[角印]

八月六日

77 洛北一乗寺村 北山御坊

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洛東 一乗寺

高祖聖人御𦾔跡

本願寺御門跡御兼帯所

八月六日 北山御坊[角印] 役者

  78 江州 石山寺

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奉納

蓮如上人(宝印)御旧跡[角印]

江州

辰八月十二日 石山寺(印)

79 江州 金森御坊 因宗寺

 

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江州金森

[角印]       御坊

蓮如上人御旧跡

道西遺跡

八月十三日    因宗寺[角印]

80 錦織寺

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四條皇帝

勅願所

錦織寺御門跡

辰八月十三日

集会所月番[角印]

 

この頃の通夜説教の場

先月と昨日、金沢の違う葬儀屋さんで通夜説教をさせていただいた。

いずれも新聞に載ると多くの人が集まるので、身内だけでの葬儀の場。

今時はコロナの感染防止のため、今までならセレモニー会館が用意していた「正信偈」(声明本)を配らない。

家から称名本を持ってこないと一緒におつとめが出来ないのだが、いわゆる三密対策は想像つくものの、声明本を配らないことまでは考えが及ばず私の声ばかりの静けさ。

昨日は能登の身内のお年寄りが何人かおいでになったので、それでも背後から時折お勤めが聞こえてはいたが…。

先月の時は、仏教との出会いが今までほとんど無い人や・孫・ひ孫が多く、また他宗の身内人が混在なさっていたので、法話では焼香の意味、仕方などからお話しした。距離を空け、飛び飛びの座席、対面であっても十分な距離があり、その点は申し分ないのだが、声明本を見ないためか、はじめから照明を絞った薄暗がりで、マスク目だけだと子供なのか大人なのかさえ見分けられず、話に対しての表情を窺うどころか、しばらくすると、白いマスクがあちこちでボアーっと浮かんでいる光景になっていった。

いつもなら、知った人でうなずいてくれる人を見つけ語りかけるのだが、そういう、いわば、表情を通して対話しすることが全くない中で、ただでさえ愛別離苦ただなかで、今あるすべてをかけての法話。それだけで疲れ切るのに、さらに独り言に近いお話をしなければならない現場が、作今の状況なのだ。

 

その金沢で、今度はどちらかというとお年寄りが多い場が生じた。こちらが表情を見て取れないのと同じく、それ以上に「話し手」の語りが理解しにくい状況がある。

マスク越しに話すと、耳が遠くて聞き取りにくいのに輪をかけることになるし、歯切れの悪い話がますますモゴモゴになるし、たとえ最高の状態であっても、仏教語そのものが聞き慣れていないと耳に入ってこない。

極端に言えば、後ろを向いて話しているようなものだ。

 そこで、昨晩(夕)は、顔全体を見せてお話しすることにした。

まずマスク姿で一族の方々と向き合いー距離は4メートルははなれていて充分ー

Face Shieldを付けて、マスクを取り、マイクを使ってお話しした。

どうだった、と聞いて素直に答えていただけるような間柄の人もいなかったが、あるかないかの目で、全く表情が作れない目だけで話すよりは、思い切ってFace Shieldデビューしてよかったと思っている。担当や司会などの若い方々数名は、やや驚かれた様子だった。

それとは、関係なしに、葬儀当日司会をなさる方に、

若いときから、毎晩のように法話を聞くことができるなんて、尊い時をいただいておられるのですねェー、このような環境から、後生、篤信の真宗門徒さんと語り継がれる方が育つんですよ…と語りかけた。

 これはお通夜のあと、ホテルで静かに通夜を場を振り返り(改悔批判)―何人もの世話をなさった方々を思い浮かべている時、たどり着いた実感である。

 司会などは出来ないけれど、常説教場のない今日、

 法話を聞こうにも、なかなかその場を見つけることが出来ず、小さな法話の場こそ必要なこの時期、あるいはこれからを考えていたとき、本当に恵まれた場においでになることを、(司会などは出来ないけれど)つい羨ましさを包みこんで、話しかけたのでした。

 

お葬儀を終えての帰り道―能登の道には車・バイクがあふれていた。

この奥に大都会があるのではないかと思わせるくらい

登りも下りも、ずーっと車列が続いていた。

 

10日ほど旅先にいたような気分。

 

このブログには、寺役に関することは書けないし、書かないことにしていたのだが、

コロナ禍寺役という非日常状況なので、したためた。

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用いたフェイスシールド。

同一色にして横に小さく法名を書いておけば、落ち着いた「真宗法話用シールド」になるのではないかと思えた。

 10日朝

新聞のお悔やみ欄に載っていた。

お二人とも葬儀翌日に通夜葬儀とも終了とあって、それとなしに身内で葬儀を執り行いましたと紹介された。

昨日金沢は34.5度だったそうだ。

口鼻はマスク、ご家族、係と接しているため、途中から目の周りだけ日焼けしていくのがわかるくらいだったが、今朝は目の周りが火照ってあつい。

これはこれで、珍しい経験。

襦袢・白衣・簡衣、マスクに34.5度。

一気に真夏の時を過ごした。

3『妙好人一茶』―『父の終焉日記』「父 みとりの記」

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痩蛙まけるな一茶是に有 七番日記。写真コカコーラ―自動販売機。子ガエルの行列?2012年7月15日正院・川尻境4差路で。

父の終焉日記
心・身の身との別れを、熟語では
示寂、西帰、還浄
還帰〘名〙 (「げん」は「還」の呉音) もとの所にかえること。特に、仏の世界にもどること。
遷化 逝去などといいます。 
親様=仏様の元へ還る。いずれも~へがあり、お迎え、来迎世界があり、平生業成、臨終往生なども聞いています。
 根拠は弥陀の本願往相・還相(二十二願)にあり、悲の器も悲心の器であって、悲心の容器・身体との別れが、強いて言えば「終焉」でしょうか。
 別な見方をすれば、往生安楽国も浄土で仏になるのも入り込む隙の無い言葉が、「終わり」に強調の助字がついた「終焉」でしょう。
 もしはないでしょうが、一茶がいれば、いかにも学者ぶったいやな言葉は使うなと怒るに違いない、と思うほどのこの『父の終焉日記』は、違和感を持つタイトルなのです。
 愛別離苦の場に多く出会い、一茶から学ぶことも多いのに、「父の終焉」は一茶世界からほど遠く、「終焉」は、とも同行としての一茶のむしろ対極にある語ぐらいに感じていました。
 妙好人一茶には、「父、みとりの記」あたりが許容範囲かな…とも思っています。

 難しそうで格好いい表題とはならぬこのタイトルを、一茶の妙好人とまでいわなくても門徒らしさを見てこられた篤信の研究者に、

「終焉日記」がどう映っているのかを見ていきます。
 ※終焉 《漢文の助字》句末に置いて語調を整え、また、断定の意を表す語。


『念仏一茶』チッタ叢書  早島鏡正 四季社 一九九五年(平成七)十一月一日
 わたくしは一茶が浄土真宗本願寺派門徒の家に生まれ、次第に念仏の風土の中で育てられていき、自然法爾の自他一如の境地に至った過程を、かれの詠んだ二万余の句、また『父の終焉日記』『おらが春』句文集などによって、辿ることができた。(はじめに)

(一茶が)還暦を迎えた元日の句です。
  春立つや愚の上に又愚にかへる
 今日はこの境地に至るまでの、一茶の精神生活についてお話をして頂きます。前半は、一茶が父親の看病を日記形式で綴った『父の終焉日記』を基に、それから後半は、二歳で長女さとを亡くしたことも含めて書かれました『おらが春』を基に、一茶の精神生活についてのお話をして頂きます。
 その前にもう一度、『父の終焉日記』を書くまでに至った家族構成とか、家庭生活ということを、みなさんに確認しておいて頂きましょう。
一茶は小さい時に(三歳)お母さんが亡くなって、それから八歳の時に継母のさつが来ます。十歳の時には異母弟になります仙六さんが生まれます。一茶は十五歳の時に江戸に奉公という形で出されます。江戸在住時代三十五年間のうち何回か故郷に戻りますが、三十九才の時に、柏原に戻って約一ヵ月間、お父さんの看病をします。その時のことを書いたものが『父の終焉日記』です。<四〇頁>

俳諧寺一茶の仏教観』早島鏡正 『近世の精神生活』続群書類従完成会 平成八年(一九九六)三月二八日
 ⑤二六庵襲名と父の死、寛政十一年(一七九九〈三十七歳〉)―享和二年(一八〇二〈四十歳〉)
 寛政十一年に二六庵を継いで一派宗匠となる。享和元年三月、柏原に帰り、四月から五月にかけて父弥五兵衛の病床に付き切りで看病する。病床の父は財産分割を弟専六に指示。これにより、継母や専六との反目が激しさを加える。翌月五月二十一日、父死亡。一茶の看病記『父の終焉日記』は有名。
 寝すがたの縄追ふもけふがかぎり哉

 

『江戸 真宗門徒の生と死』大桑斉 方丈堂出版 二〇一九年一二月二〇日
 一茶の真宗は、熱心な念仏者だった父親の弥五兵衛から受け継いだと考えられます。妙好人ともいうべき篤信者の父に育てられ、真宗がいつしか身に染みついていました。一茶三十九歳の享和元年四月、病気の父の看病に故郷に帰ります。そのときの日々の有様を、『父の終焉日記』(岩波文庫)として残しました。

 廿八日(父の発病六日目)晴祖師の忌日なりとて、朝とく嗽(くちすす)ぎなどし給うに、熱のさはりにもやならんと止むれども一向にとゞまり給はず。御仏にむかい、常のごとく看経なし給うに、御声低う聞ゆる、いかうおとろえ給う後姿、心細うおぼゆ。

 二十八日は親鸞聖人の御命日です。その日に御勤めをする門徒の姿があります。病を押して御勤めをすること常の如しでした。

 (五月)三日(発病十日目)晴……今迄神仏ともたのみし医師に、かく見はさるるゝ上は、秘法仏力を借り、諸天応護のあわれみを乞んと思えども、宗法なりとてゆるさず。只手を空うして、最後を待つより外はなかりけり。 <一一九~一二〇頁>

 

 

 

 既成事実として、『父の終焉日記』という書物があることになっています。『江戸 真宗門徒の生と死』の方は、「日々の有り様を、『父の終焉日記』岩波文庫)として残した」のでは無く、「日々の有り様を書いた記録・メモを、後に誰かが『父の終焉日記』としてまとめ、それが伝わっています。」です。

『父の終焉日記』解題

 両碩学はタイトルを問題にしておられない事が分かったので、一茶研究史に戻ってタイトルのついたいきさつを調べようかと思っていたとき、体系史料集で『父の終焉日記』か、これに近いものが収められていたことを思い出しました。
 藤秀璻師の『新撰妙好人伝』俳諧寺一茶」がを取り上げておられるので、当然、「妙好人伝」に載っていると思ったのですが、見えず、続いての巻「真宗門徒伝」を(念のためぐらいの気持ちで)開いたところ、そこに『父の終焉日記』があるではありませんか…。しかも史料集なので「解題」付き。
 ちょっとワクワクしばがら「解題」を読んで…びっくり…。
 この担当者は、本を読んでいない?

 史料集解題には次のようにあります。

「そもそも出版されるような類のものではなく、一茶の私的な日記のようである。」「本巻では近世門徒伝を網羅する方針から、ややそのカテゴリーからは外れるとはいえ、日記史料の代表として、当史料を所収した。」と書いていますが、

 1『妙好人 一茶』に
「わたしが引用した一茶は、『おらが春』『文政句帖』からですが、一茶には『父の終焉日記』と呼ばれている一茶の信心がうかがえる優れた日記文学あるいは日記風談義本があり、真宗史家は主としてその著から一茶の信心を見ています。」と書いたように、
 この書は「日記文学あるいは日記風談義本」でして、「私的な日記」(個人筆の私的以外の日記はないのでは…)、まして「日記史料」などではありません。

 

 史料集解題者が、「『父の終焉日記』についての解題はこの(一九九二年)岩波文庫版に詳しいので必ず参照されたい。」と下駄を預けられた岩波文庫本の解題(矢羽勝幸氏)を読むと、「日記的体裁をとるが私小説な構成・内容をもち、創作意識が顕著である。」とあります。
 同じ矢羽勝幸氏は「単なる日記ではなく、私小説な構成、内容を持っている。」(『詩歌を楽しむ「あるがまま」の俳人一茶』NHKカルチャーラジオ 矢羽勝幸 二〇一三年)、

 「日本の私小説のルーツと言われる。」(ウィキペディア)など、いずれも文芸作品、真宗的に言えば談義本と見ています。その作品に「日記のようであり、日記史料の代表」と「解題」をつけたなら、タイトルの難解さもあって、優れた妙好人・とも同行の記録である『父の終焉日記』の入り口がふさがれてしまします(すーっと入っていけないぐらいの意味)。
 『父の終焉日記』を知る上で、もうひとつ欠くことのできない「解題」(『一茶全集 第5巻 紀行・日記 俳文拾遺 自筆句集 連句 俳諧歌』毎日信濃新聞社 昭和五三年)があります。
 そこには「日記体をとるが、緊密な構成をもち、内容もかなり整備されている点から、父の没後相当の時日を経て(大場俊助氏は文化六年頃と推定)執筆されたものと見てよい。」とあります。

 

ここで問題にしている史料集解題の文をあげます。

   父の終焉日記  小林一茶/享和元(一八〇一)年/写本/個人蔵

  近世を代表する俳譜師である小林一茶は、真宗の信仰のあった人物としても知られている。この『父  の終焉日記』はそもそも出版されるような類のものではなく、一茶の私的な日記のようである。
 
 この日記の活字化の推移を簡単にまとめると、まず昭和九年の旧岩波文庫において最初の活字化がなされた。この復刻版は二〇〇四年に一穂社から出版されている。
 そして一九九二年に岩波文庫『一茶 父の終焉日記・おらが春』として、矢羽勝幸氏の詳細な校注がつけられ出版された。現在、原本は個人蔵で閲覧することはできなかったので、本巻では後者の岩波文庫版を参照し所収した。なるべく原史料のままの掲載を目指したため校注は付けなかった。
 『父の終焉日記』についての解題はこの岩波文庫版に詳しいので必ず参照されたい。

 本巻では近世門徒伝を網羅する方針から、ややそのカテゴリーからは外れるとはいえ、日記史料の代表として、当史料を所収した。

 

 (以下、同類の門徒日記史料に「心ニ掟置く言葉」(原稲城)、『見聞予覚集』に山下安兵衛往生の様  子が記されている、と載る)

 引用の二段目ですが、

 この日記は大正十一年に岩波書店から、荻原井泉水校閲、束松露香校訂『一茶遺稿 父の終焉日記』として出版されています。
 解題者の「まず昭和九年の旧岩波文庫において最初の活字化がなされた。」とある文庫本は、荻原井泉水校訂『父の終焉日記』で、井泉水の校訂は素晴らしいものですが、肝心な校訂者の名も挙げず、復刻がどうなされようと解題とは何の関係もありません。それより、わずか七文字の「荻原井泉水校訂」がどうして解題に書いていないのか、存じ上げない研究者さんですけど、会ってお聞きしたいものです。

 

 というのも、一茶のこの著が、どういう事情で誰の所にあり、書籍にしたいといっていたいきさつから書籍になった経緯、、大正十一年に校訂者として登場する束松露香の役割、二冊目には荻原井泉水一人になった事情など、
 すべて、昭和五年十二月に荻原井泉水が著した「一茶自筆稿本解題」(十一稿本分所収)の「○父の終焉日記」に載っており、昭和十一年に「新潮文庫」の一冊として刊行もされているのです。
 この著が世に顕れるのに決定的な役割を担った著名な俳人・研究者が解題から抜け落ちている…

 

 なんだか、「解題」分析疲れ…。
 
荻原井泉水の○『父の終焉日記』解題、
○『一茶全集 第5巻 紀行・日記 俳文拾遺 自筆句集 連句 俳諧歌』毎日信濃新聞社 昭和五十三年(一九七八)の解題
○『一茶 父の終焉日記・おらが春他一編』矢羽勝幸校注 岩波文庫 一九九二年の解説
 の重要解題は、次回に『妙好人一茶』―『父の終焉日記』関係主要三解題、と題して続けます。

 なんだか節談説教「長太ムジナ」の、続きはまたあしたーー
になってきた。

 

甲が育っていた…。

 

 

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8月4日の甲。

 

2019年11月1日ブログ

甲が生きていると騒いだころから、9ヶ月。

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ピラカンサス


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ゆず―たわわ

 

 ※付け加えると、今、楽しんでいる一茶関係に、甲を読んだ句が無いか?

そこに本文をつけよう、と考えたのだが

どうも、一茶時代はカブト虫とは言っていなかったようだ。

それで、日々のカテゴリーにした。

何も世話をしないのに言うのも気が引けるが

甲が育ったーー。

エー―!、信じられない。

2『妙好人 一茶』 ―『おらが春』、いわゆる『父の終焉日記』について

前回

妙好人千代尼』に書いた一茶を妙好人として見ていくことについて、1『妙好人千代尼』に書いた次の文を載せました。
 
 ○現今、俳句の愛好家は多く、講座や行事の場など、どこへ行っても、かならずといっていいほど俳句を楽しんでいる方々に出会います。
俳人の集まりなどで話す機会があれば、千代尼の法名は素園で、親鸞聖人五百回御遠忌の時の句がありますとか、
 小林一茶『おらが春』の最後に載る
   ともかくも あなた(=阿弥陀さま)まかせの年の暮れ
の前文は、本願寺八世蓮如(一五一五~九九)作の「御文」と同じ体裁で書かれており、「あなかしこ、あなかしこ」とまとめられています。このことからも分かるように『おらが春』は信心の書です、などと紹介すると、参加者は一様に驚かれ、多くの方が、よりその世界を知ろうとなさいます。しかし、紹介できる手ごろな書籍がなく、千代尼や一茶真宗の篤信者である「妙好人」であることさえ知られていないことに、物足りない思いを抱き続けてきました。<8~9頁>

 

 ○昭和二十一年(一九四六)には、藤秀璻が『新撰妙好人列伝』をまとめました。そこには五十三人の妙好人が紹介されています。
 大和清九郎、三河お園、石見善太郎、讃岐庄松、石州才市などの著名な妙好人のほか、親鸞以前の西行笠置寺真言宗京都府相楽郡)の解脱、蓮如の弟子である赤尾の道宗、さらに越後の良寛や、教学の第一人者である香樹院徳龍、一蓮院秀存、それに加賀(白山市松任)の千代尼、俳諧寺一茶(小林一茶、そのころよく知られていた貝原益軒、太田垣蓮月、伊藤左千夫などを取り上げています。
 この秀璻の『新撰妙好人伝』は、戦後まもなく、人心が荒廃している世情にあって、人々が指針とすべき像を妙好人に見ています。そのため、多くの妙好人が紹介され、そこには、著名な俳人である千代尼と一茶も取り上げられたのでした。

 ところで、一茶妙好人らしさが最もよくうかがえる彼の文に、『おらが春』『父の終焉日記』があります。
 『おらが春』は、「めでたさも中ぐらいなりおらが春」からとった題名なので、いい題だと思いますが、この句の前に、「ことしの春もあなた任せになんむかへける。」とあるのが大切です。
 「あなた」は阿弥陀さま。「任せ」は御文にもよく出てくるように「南無」の意ですから、この前書きは「ことしの春も、南無阿弥陀仏となん、迎えたのだなー」との述懐となります。
 この句のあとに、
   雀の子そこのけ〳〵お馬が通る
   名月を取てくれろとなく子哉
   露の世は露の世ながらさりながら
 子をうしなひて 蜻蛉釣りけふはどこ迄行た事か  かゞ 千代
   ともかくもあなた任せのとしの暮れ
       五十七歳 一茶
     文政二年十二月廿九日 ※一八一九年

 

一茶自筆稿本解題 荻原井泉水著『一茶研究』昭和十三六月廿五日  新潮文庫
 ○おらが春(部分)
『おらが春』一篇は、その内容に於てのみならず、著書としても、彼の作中にあつて唯一のまとまつたものである。

 といふのは、他の著作は彼自身で上梓する程に整理しないのを、後人が編輯したものであるけれども、此『おらが春』はすぐにも出版出來るやうに彼が清記し、自分で挿繪までかいておいたものだからである。

 但し、生前には出版されず、没後二十六年を経て嘉永五年に至つて、彼の原稿其ままをすきうつしにしたものが版行された。其後は其のスリ紙を版下として、ほぼ元の体裁に複刻されたものもあり、活字本としては俳書堂版のもの、其他数種類も近來公にされてゐるが、活字本の多くは此篇中の或一節を削除又は欠字せしめてあるのが常である。それは風俗上の顧慮からさうした事であらうけれども、一茶の心持は因果応報といふ事を書いたのであつて、卑猥な氣持ではない。
              


 こういう生き方をした一茶が、「父の終焉」という言葉を用いるはずがないどころか、「終焉」は、とも同行の対極にある語ぐらいに感じていました。
 『妙好人 一茶』には、「父、みとりの記」あたりが許容範囲かな…とも思っています。
 ところで、この書を真宗史料集に含んだ書籍、解題があります。
 次回は、そのあたりも問題にして、(いわゆる)「父の終焉日記」を考えます。

 

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小坊主や袂の中の蝉の声―一茶 「七番日記」文化12年6月 

※写真は2011年8月9日撮影・欅(庫裏後ろ)

 

1『妙好人 一茶』ー『妙好人千代尼』に描いた一茶 

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一茶 俳諧

妙好人千代尼』(2019年1月、法藏館刊)には、元禄期の千代尼と化政期の違いはありますが、同じ妙好人の道を歩んだ一茶についてもかなり取り上げました。

以下、その文を紹介します。

 仏教語独自の読みをする言葉が多いので、『妙好人千代尼』では多くの語句にふりがなを付けましたが、ブログでは煩雑になりますので省略します。<>の頁は『妙好人千代尼』の頁です。

 

○ 朝顔やつるべ取られてもらい水
 この句を・多くの評者は千袋の優しさとか、逆にやさしさが勝りすぎているなどととらえていますが、千代尼の句には、より広く深い世界があります。
というのも、さまざまな立場の人が、千代尼の句を高く評価し、影響を受けているからです。
 たとえば、小林一茶(一七六三~一八二七)がわが子に先立たれた時、千代女が子の弥市に先立たれたときに詠んだと伝わる
 蜻蛉釣りけふはどこまで行た事か(一茶は「事か」と引用)
の句によって、慰められ癒されています。<4~5頁>

    ※「詠んだと伝わる」が需要。


○現今、俳句の愛好家は多く、講座や行事の場など、どこへ行っても、かならず
といっていいほど俳句を楽しんでいる方々に出会います。
 俳人の集まりなどで話す機会があれば、千代尼の法名は素園で、親鸞聖人五百
回御遠忌の時の句がありますとか、小林一茶『おらが春』の最後に載る
 ともかくも あなた(=阿弥陀さま)まかせの年の暮れ
の前文は、本願寺八世蓮如(一五一五~九九)作の「御文」と同じ体裁で書かれており、「あなかしこ、あなかしこ」とまとめられています。このことからも分かるように『おらが春』は信心の書です、などと紹介すると、参加者は一様に驚かれ、多くの方が、よりその世界を知ろうとなさいます。しかし、紹介できる手ごろな書籍がなく、千代尼や一茶真宗の篤信者である「妙好人」であることさえ知られていないことに、物足りない思いを抱き続けてきました。<8~9頁>

 

○同じ信心の道を歩む法友のことを、真宗では同朋・同行といいます。その同行の中でも、特に篤信の人々をあらわす言葉として、初めて「妙好人」を用いたのは、石見の仰誓(一七二一~九四)でした。
 仰誓が、同時代人の大和の清九郎を訪ねた時、念仏を喜んでいる姿に感動し、さらに各地の同行を訪ねます。その言葉や事蹟を書き留(と)めておいたのを、『妙好人伝』の名で刊行しようとしたのが文政元年(一八一八)のことでした(実際の刊行は天保十三年(一八四二)。 ―中略―

 この『妙好人伝』の刊行予定だった文政元年(一八一八)は、 親鸞聖人五百五十回御遠忌の七年後で、御遠忌によって国中に広がった教えが、さらに隅々にまで行き渡り、生活の一部になっているころでした。

 千代尼が世を去って四十四年、一茶は五十六歳で、翌年『おらが春』を出す年に当たります。<17~18頁>


○昭和二十一年(一九四六)には、藤秀璻が『新撰妙好人列伝』をまとめました。そこには五十三人の妙好人が紹介されています。
 大和清九郎、三河お園、石見善太郎、讃岐庄松、石州才市などの著名な妙好人のほか、親鸞以前の西行笠置寺真言宗京都府相楽郡)の解脱、蓮如の弟子である赤尾の道宗、さらに越後の良寛や、教学の第一人者である香樹院徳龍、一蓮院秀存、それに加賀(白山市松任)の千代尼、俳諧寺一茶(小林一茶、そのころよく知られていた貝原益軒、太田垣蓮月、伊藤左千夫などを取り上げています。<22~3頁>

 

○『妙好人伝』は、蓮如九世の孫である仰誓が、法座・説教の場がほぼ日本中を覆い尽くした文化・文政期(一八〇四~三〇)に、法座要請の中でまとめたものです。
 また、藤秀璻の『新撰妙好人伝』は、戦後まもなく、人心が荒廃している世情にあって、人々が指針とすべき像を妙好人に見ています。そのため、多くの妙好人が紹介され、そこには、著名な俳人である千代尼と一茶も取り上げられています。<25頁>

 

新渡戸稲造アメリカ滞在中に日本人の特性を紹介した『武士道(BUSHIDO,THE 
SOUL OF JAPAN)』を著しました。
 「第十一章 克己(こっき)(Self Control)」の中で引用したのが千代女の
  蜻蛉釣り 今日はどこまで 行ったやら
でした。自分の感情を抑え慎む「克己」を、稲造は千代女の句に代表させたのです。
 そこには次のように記されています(参照・櫻井鷗村訳)。
 深く甚だしい悲しみ嘆きに沈んでいる友を慰めるとき、必ず、友は赤く泣きはらした目、頬を伝う涙の中にあっても、にっこりと微笑みながら彼を迎えるであろう。そして、「人生には悲哀が多い」「会う者は必ず別れる(会者定離)」「生あるものは必ず滅びる(生者必滅)」などと答える。
 ここに一人のもっとも哀切きわまりない母がいる。その子が亡くなったのを悲しみ、いつものように「蜻蛉釣り」に行っているものと想いみなし、やるせなくもだえ苦しむ悲みを慰めようと吟じた句
   蜻蛉釣り 今日はどこまで 行ったやら(千代)
 この有名な句は、まず千代尼没後、四十一年の文化十三年(一八一六)に、
   わが子を失ひける時、
  蜻蛉釣 今日はどこまで 行つたやら
その情態もまた思ふべし(『俳家奇人談』、竹内玄玄一の遺稿を子の蓬蘆青青著・編集)、と紹介されました。
 そして、その三年後の文政二年(一八一九)には、小林一茶が俳文集『おらが春』にこの句を引用しました。
 一茶は、生まれて間もない子を次々と失い、その年、さわらびのように小さい手を合わせ、「なんむ〳〵(南無〳〵)」と唱える声が「しをらしく、ゆかしく、なつかしく、殊勝」の可愛い盛りの二歳の長女さとにも先立たれます。
 一茶も、さすがに
  露の世は 露の世ながら さりながら
と、呻きの句を詠むしかありませんでした。
 露の世であることは私(一茶)にはいやほど分かっています、老少不定蓮如作「白骨の御文」)であることも理解しています。けれど…と、「露の世は」の句をしぼりだし、同じ悲しみを生きた先人の作から十の和歌や句を選んで『おらが春』に引用します。そこに、
   子をうしなひて
  蜻蛉釣り けふはどこまで 行た事か かゞ(加賀)千代
が紹介されているのです。<34~8頁>

 

一茶『おらが春』を著わした文政二年(一八一九)といえば、盛大に営まれた親鸞聖人五百五十回御遠忌の八年後にあたり、その高揚が続いている時期でした。
 五百五十回忌直前の文化六・七年(一八〇九・一〇)には、加賀藩歓喜光院(大谷派本願寺第十九世乗如の院号)殿御崇敬という門徒主催の大きな仏事を、あまりの盛り上がりの故に禁止しています。文化八年には近衛基前と達如の発願、冷泉等覚(為泰)の出題による「開山親鸞聖人五百五十回忌 追慕五十首(貴族四十八、大僧正二)和カ(金+哥)」の奉納があり、この頃、東本願寺からは『真宗仮名聖教』が刊行されています。『おらが春』から三年後の文政五年には、本山から各寺の講などに宛てた「御消息」の中で、多くの寺院に行き渡った最大文字数の「世々の先徳…」から始まる御消息が発給されます。

 この「御消息」にも、溢れんばかりのエネルギーを抑えようとする文面が見られます。それでもなお、高揚した時代を物語るかのように、信心を何としても自分のものとせよ(獲得)との教えが、文面に躍動している消息となっています。<39~40頁>


和泉式部は、播磨国書写山姫路市)の性空(九一〇~一〇〇七)に次の歌を託し、救いを求めました。
  くらきより 暗き道にぞ 入(い)りぬべき
      はるかに照らせ 山の端(は)の月(『拾遺和歌集』)
  迷いは混沌となる一方で、ますます深い闇へ吸い込まれそうです。その
  闇の先、西方の彼方から私(式部)をかすかに照らす細い月明かりが見えま  す。どうか、性空上人、慈悲の月光となって、私(式部)をお導きください。

 この歌は、初めて勅撰集に入った式部の歌で、『仏説無量寿経』の「従苦入苦、従冥入冥(苦より苦に入り、冥きより冥きに入る)」や、『法華経』の「従冥入於冥(冥きより冥きに入る)」を踏まえています。
 千代尼には、やはり和泉式部のこの説話を踏まえた句があります。
   くらき夜を 何とまもるや 女郎花

 また、小林一茶は、「荒凡夫のおのれごとき、五十九年が間、闇きよりくらきに迷ひて、はるかに照らす月影さえたのむ程のちからなく…」(『文政句帖(九番日記)』巻頭)と、和泉式部の歌を引用して五十九年の過ぎし日を振り返っています。<68~9頁>


真宗門徒の日常では、『正信偈』と念仏・和讃を読誦しますが、その和讃のはじめが、「浄土和讃」の第一首目
  弥陀成仏の 此の方は 今に十劫を 経たまえり
  法身の光輪 際もなく 世の盲冥を 照らすなり
です。小林一茶は、この「弥陀成仏の 此の方は」(七・五)に、「涼しやな」の五文字を付けて句にしました。
  涼しやな 弥陀成仏の 此の方は 一茶
 讃嘆・感動をなかだちとして、和讃(今様)と俳句は、このようにそのまま行き来しあいます。<105頁>


○安心
  ともかくも 風にまかせて かれ尾花
 端書きの「安心」は、「あんじん」と読みます。
 「安心」とは、阿弥陀仏の願力(他力)によって、必ず往生を遂(と)げると信じ、何事にも誘惑されたり動揺させられたりすることのない堅固で不動の信心をいいます。また、信心決定のこころのありよう(相)だったり、信心と同じ意味に用いることもあります。
 私たちからすれば、安心は、本願他力にうながされてそれをいただくのですから、真宗では「ご安心を戴く」ともいいます。「御文」に多くの用例が見られます。
その「御文」で、安心の内容を最初に記しているのは「猟漁の御文」(第一帖第三通目)といわれる御文です。現代語訳で紹介します
 まず、当流安心(あんじん)の趣旨は、こころのよくないのも、惑い妄執の心がおこるのも、やめろ・無くせというのではありません。どのような勤めであろうと普段通りに働いて生き、その日暮らしの中で惑ってばかりいる私どもを、助けるぞとお誓いくださっているのが阿弥陀如来の本願なのです。
 その本願を深く信じて、ひたすら弥陀の大悲にすがり、たのみます、南無と思うのです。
 その思いがまことならば、必ず弥陀如来は助けてくださいます。
 その上には、どのように心得、どう念仏申すべきかといえば、浄土往生はひとおもいの信心によって確かなものになっているのですから、これからは、この世のいのち尽きるまで、恐れ多くももったいない弥陀如来の御恩を、ただただ報謝し、声に出して念仏を称えることです。
 これを、安心がはっきりした信心の行者というのです。あなかしこ、あなかしこ。
 「安心」とは、まず一念の信(信心)、そして、御恩(仏恩)報謝の念仏を称えることと示しています。
 また、『蓮如上人御一代記聞書』(第三十条)には、「一念の信心を得て後の相続というのは、特別のことではありません。はじめに起こった安心が相続され、尊い一念の心が末まで通るのを、憶念(おくねん)の心つねにとも、仏恩報謝ともいうのです」とあります。
 本願を信じ、喜びの中で仏恩報謝の念仏を称える、その安心の姿を、千代尼は枯れ尾花が風にまかせきって揺れている姿に見たのです。

 「ともかくも」は、どうであろうといかなる事態であろうと、それでいい、というはっきりした覚悟です。

 千代のこの句と並んで著名な句に、小林一茶
  ともかくも あなた任せの 年の暮(『おらが春』)
があります。
 あなたとは貴方、文字通り尊い方で阿弥陀さまのことです。どんな年末であろうと、ただおまかせです。どうあがいても自力ではどうしようもない、そこにいたって本願他力の「たのめ」のうながしが聞こえてきます。一茶の他力にまかせきった境地がうかがえます。

 千代尼の「ともかくも」の句にも、根本に「あなた(阿弥陀仏)」があるので

すが、枯れ尾花に対する現象面での働きは「風にまかせて」の風です。
 風は目に見えず、働きとしてしか知る事が出来ません。その風の働きを詠った詩があります。イギリスの女流詩人クリスティーナ・ロセッティ(一八三〇~九四)の「誰が風を見たでしょう(Who has seen the wind?)」です。

   誰が風を見たでしょう

   誰が風を 見たでしょう
   僕もあなたも 見やしない
   けれど木の葉を 顫わせて
   風は通りぬけてゆく


   誰が風を 見たでしょう
   あなたも僕も 見やしない
   けれど樹立(こだち)が 頭をさげて
   風は通りすぎてゆく (訳、西条八十)

 ほかに千代尼が詠んだ風・柳の句を四句あげます。
  すゞしさや ひとつ風にも 居所
 結ふと 解ふと風の 柳かな
 秋風の いふまゝに成 尾花かな
 たつ秋の 道とおもふは すゝき哉
千代は、自然そのものになっているようです。

 そして、一茶親鸞作「弥陀成仏の 此の方は いまに十劫 経たまへり 法身の光輪 きわもなく 世の盲冥を 照らすなり」(「浄土和讃」)の出だし部を句に詠み込んだ
 涼しやな 弥陀成仏(じょうぶつ)の 此の方は
ときおり涼風が通り過ぎていきます。<162~6頁>

 

以上です。

 

 千代尼をとも同行の視点、妙好人としてとらえたのは『妙好人千代尼』がはじめてですが、一茶の方は、資史料が膨大なこともあって真宗からの視点でとらえている学者さん方が何人かおいでになります。

  わたしが引用した一茶は、『おらが春』と『文政句帖』からですが、一茶には『父の終焉日記』と呼ばれている一茶の信心がうかがえる優れた日記文学あるいは日記風談義本があり、真宗史家は主としてその著から一茶の信心を見ています。

 わたしが、なぜその著作に触れていないのかは、次回に書きます。

もう8月…。

3日から 本堂前の庭で小学児童のラジオ体操が始まった。

カブト虫が二匹育っていた(雌)。

 

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法藏館書店ニュース8月 法藏館書店新着案内に紹介していただいた。有りがたい。

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絵はがき二枚。

一枚は家のブルーベリーの枝を使って作ったのだそうだが???

キシッとして書きやすいはがきだ。

 

15 とも同行の順拝・たび 「宗祖聖人御旧跡巡拝」⑯―豊四郎順拝71~75 文化五年-1808 丹州 

 

71 丹州長田村 法林寺

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覚如上人筆始弥陀尊影

丹州天田郡長田村

出雲路山法林寺

役者(印)

文化五年七月廿二日

 

72 丹州 棚村 最尊寺

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丹州桑田郡棚村

相白山 最尊寺(印)

蓮如上人[角印]御旧跡

宝物縁起 有之

辰七月廿九日

 

 

73  蓮師新御旧跡丹州相白山最尊寺略縁起

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蓮師新御旧跡丹州相白山最尊寺略縁起

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本文5-1

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5-5

※5枚分読み省略

 

74 丹州上久木村 光瑞寺

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宝物略之

蓮如上人御𦾔跡旧跡

丹州桑田郡上久木村

文化五

辰八月朔日       瀧見山 光瑞寺[角印]

75 丹州 南邑 福正寺

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宝物略之  丹州桑田郡南邑

蓮如上人御旧跡

辰八月朔日  池井山福正寺

        役者(印)