真宗文化論の新聞記事・真宗の四門

蓮如真宗行事』『蓮如上人と伝承』『妙好人千代尼』。

今まで本にした3冊の間に書いた論などで、載せた論集や書物がもう市販されたいなかったり、手に入れにくいものを一つにまとめておこうと真宗文化論(仮題)を進めていたのだが、

 

先日、夕刊紙に、新聞記事の引用と著作権の関係ー使用許可いりますよーが大きな宣伝のようになって載っていた。

 

今作っているのは、ほとんどを関係者にお渡しするもので私的なのだが、一時代を知っておこうとお求めになる方がおいでるかも知れないので、わずかだが書店に並べようとも思っている。

となれば…?

使用するかも知れないのは、全て私が執筆したものなので著作権は問題ないはずだが、

昔、原稿料だったか図書券を受け取った折にお返しした葉書に、「書いた記事は貴社?属することに同意します」という文が印刷してあり、そこに判子を押したことがあった。

 

今は、県内の文化人が原稿を書くこともなく、記者さんがすべてやっておいでるようで、但し書きは見ないが、ともあれ、その記憶が蘇ってきて、使用申請書というのを出した。

 

つきあいの長かったこの一社だけの、民俗・歴史関係をのぞき、真宗とどこかで接点のある記事のみをピックアップしていったところ、

文化面・民話、舞台、野辺の送りなどに40本、

全文インタビュー記事が2本、

取材などの引用、すなわち私の名と肩書きと年齢が載っている記事が45本

もあった。

 私の書いたもので今度の本に用いるかも知れない記事を◎

まず用いないものを○

全文インタビューを□

部分インタビュー記事に△の印をつけてプリントアウトし、

◎候補18記事の使用申請書に添えて新聞社に送った。

確認の電話があって、どうぞ…となってはいるのだが、

時間は取られ、面倒さもつきまとう。

事務作業で時間を取られたくない。

それで、新聞記事は用いないことにした。

下の写真のような文を核にして、例えば市町村史書いた葬制をちりばめる…といったイメージがあり、

何よりも、記事を見つけ出すのに手間が掛かるだろうから、1冊に入れておけばいいのでは…と記事をピックアップしたのだが、新聞は見ようと思えば探し出すことが出来る。

 ということで、18文を削除し、また、まーた並べ直し…。

積み木直しだなあ、と一人言をいいながら、あっちへやったりこちらに移したり、ーかなりスッキリしてきた。

 

24日(月)から「春勧化」。

それまでには、目途を立てなくては…。

 

 

昭和56年。34才の時の記事。この時、二代ほど前からの四門、即ち3組ほどの四門があったが、今は無い。写真も不明(探すのに時間がかかる)。※本文に4代前からとある。記憶の曖昧さ…。

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真宗関係で最初に書いた記事。前年昭和55年11月に能登国三十三観音について書いたのが始めだけれど、真宗という意味ではこの記事が始めになる。今から40年前34才の時である。その後、同様のものがあったという報告はない(はず)。四門額は現存せず、写真もどこかに埋もれているはずだ。は

 

※最後の。…はずだ。は の「は」はカット

 

 

 

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ちひろさん、藤井雅子さん、東昇氏ー金子みすヾさん、電子顕微鏡・ウイルス発見・科学とお念仏に生きた人

 このところのウイルス騒ぎで、日本最初に電子顕微鏡を作られ、病原菌にバクテリア以外にウイルスがあることを突き止められた東昇氏―妙好人でもあられる―関係の著書が、今こそ読まれるべきではないか…の思いで、お嬢様の藤井雅子氏と連絡を取り合った。

おじょうさんのひろみさんがお書きになった文があるというので、甘えて読みたいと書いたところ、

なんと、ちひろさん関係のCDまで送って下さった。

どの分野でも深い方がおいでるのだと驚くとともに、そういう人というのは、深いだけでなく、かぎりなくやさしいことが、文章、歌声から響流してくる。

御法縁の尊さを、しみじみ思う。

 

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3月25日(水)横浜市大倉山記念館にて。金子みすヾ没後90年に―十方に響き流れる願い。


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Message メッセージ。カバーを見るだけで 『妙好人千代尼』に書いた「Ⅳ-二 蝶ー夢のなごりー」の説話や句が次々に蘇ってきた


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ファイル


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「よろこび」2018年お盆号、「五劫思惟の願いに照らされて」ちひろさん


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この道ひとすじ金子みすヾ愛のメッセージ。ちひろさん(シンガーソングライター・ラジオパーソナリティ))


 

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『末世目覚草』今本屋佐助(2代目)著より、文政十年(1827)御講師・香樹院徳龍師巡回御教示


『末世目覚草』には文政五年(一八二一)~弘化五年(一八四八)の様々な出来事

ーおかげまいり、本山、疫病が流行り、藩から御殿医を十八人加越能へ派遣。一人が本屋で五日ばかり逗留―

時疫薬の調合方法まで記されている。
 そこに、本山講者徳龍(香樹院)が御教示に来られた時の様子が載っていた。
 「地方教示」に船を用いたこと、そのときの様子などは発表されたことがないはずだ。
 歴代佐助家の最後の佐助さんが先月30日に逝去なさり、普段は家が閉まる。
その節目に、佐助さんを偲びつつ、その部分を引用する。

 時は、文政十年(一八二七)年閏六月

一、御本山ヨリ国々江御講者御差向、

御両国ハ越後之とくりう様与申御講者様御廻被為成、

郡々之触頭寺江御末寺中御呼出、 

坊守ニ至迄御書院御教示、同行ハ御堂御教示被遊候、

誠ニ風に草木のなひくかことく御繁昌ニ御座候、 

尤御講者様御乗被候屋たい舟ハ、八拾石積之舟ヲ雇、

中嶋ニて拵、緋縮緬等之幕を打、

閏六月廿四日我等穴水迄御向ニ参り申し、

則西岸・嶋地・灘・石崎等ゟ四十餘艘引舟出申し、

所口ヨリ御馳走舟三艘参り、

長浦高茂之端ニ御中飯、七ツ時所口御着、

七月二日まて御教示在之候

 

【読み・(注)】

一、御本山より国々へ御講者御差向け、御両国(加賀・能登)は越後の「とくりう」様(徳龍・香樹院)と申す御講者様、御廻り成され、郡々の触頭寺へ(中島は鹿島郡鹿島郡触頭・東は所口ー七尾ー長福寺)御末寺中御呼び出し、坊守に至るまで御書院御教示、同行は御堂に御教示遊ばされ候。

誠に風に草木のなびくがごとく御繁昌に御座候。

尤も御講者様お乗り候らるる屋台舟は、八十石積みの舟を雇い、中嶋にて拵(こしら)え、緋縮緬の幕を打ち、

閏六月二十四日我ら(佐助ら)穴水までお向かえに参り申し、

則ち西岸(旧中島町)・嶋地(能登島)・灘(七尾東海岸)・石崎(七尾市)等より四十余艘、引き船出し申し、所口(七尾北部)より御馳走舟(文字通り、御馳走・食事を載せた舟)三艘参り、長浦高茂の端に御中飯(昼飯)、七つ時(午後4時ごろ)所口お着き、

七月二日まで御教示之れ在り候。

※長浦高茂の端

長浦は三ツ口瀬戸の南、能登島と中島との間がもっとも狭い一帯で、「ツインブリッジ能登」橋が架かっている。

高茂は瀬嵐の散村だった時代があり、万葉に歌われている机島・歌の種子島と言われた種子島がある。

景観に勝れ二つの島のあたりを須磨・明石に見立て、人麻呂社が建つ。人麻呂社の正面に石動山があり、景勝の湾の最高の景勝地で一行は昼食をいただいたことになる。

 

【文政ごろ】
文政二年『信後相続 歓喜嘆』刊

 盆踊りの歌詞のもっとも古い版本。信心をいただいた後の相続、信心歓喜嘆のタイトルがつけられているように、19,20願の意味、他力門機法一體などすべてが真宗教義の歌詞.

同五年 御消息「世々の先徳…」発給

この年、御消息の歴史で画期的な「世々の先徳・・・」が発給される。膨大な内容で、巻子を見ただけで「世々の先徳・・・」と分かるほど。教学の充実があって自信を持って書かれた究極の御書と言えるだろう。

先日も一組の回り御講で「世々の先徳を・・・」あげていると聞いた。

この御書は、能登教区に146通存在する(平成十年度)。

同六年 両堂焼失
同七年 仮両堂
同十一年 六月十八日御影堂再建斧始め

この御教示は、文政期の両堂焼失、その再建に向けての巡回だったことが分かる。一方で異安心問題も頻発しており、今一度、教えを確かめる、不審を詳らかにする使命もあったのだろう。

 

 

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香樹院師が所口においでた徳龍師である。御門徒宅にあったもので数軒の門徒さんや当地から去った方々が預けて行かれた。同行さんの学び、住職の研鑽、そのテキストなどの分野は、全く調査も研究もされていない。文政10年徳龍師は何を話して行かれたのだろう?篤信の御門徒が多い地域である。何人かは書きとどめておいでるはずである。疑問を持っていれば、たいていたどり着ける、のだが・・・やっている時がない。問題提起にとどめておこう。

 

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今本屋・橋本左輔さんー『末世目覚草』ー中島町史、石塔の里

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ここへ行った。説明は下の同じ写真で。


私が関わった市町村史は、珠洲能登町能登島、中島、鹿島、七尾(図説のみ)、門前、根上である。

中でも、中島は民俗主任で、教員を辞め住職なった時と重なり、共にやっていた若き専門委員3人が、

一人はご両親の面倒を見なければならず、それでかなり代わりに調査し、一人は〆切近くになって県会議員に立候補されて退かれたので、それで残りを補い、一人はやはりそろそろ〆切という頃に亡くなられた。

私より若いこの人には「人の一生」を執筆していただいており、届いた下書きの原稿の初めの文が

人は生まれ、死んでいく・・・

とあって、泣きながら原稿を補い清書をしたものだった。

 

これだけでも思い出すことは多いのに、

よく懇親会があって一緒に現地へ行くことも多く、町の文化財関係者ともずいぶん親しくなった。

その折、最も仲良くしていただいた橋本左輔さんが97歳で去られたことを新聞で知った。

いわゆる家族葬で、葬儀が終わっており、亡くなられた日時も分からない。

町史調査は平成に入った頃だから、30年以上前になる。

編さん室の事務をしていた方に連絡を取ったが、分からないという。

車のリコール(穴水でしか出来ない)を4日に抱えていたので、

4日、橋本さんを偲びつつ、想い出の地を回った。

といっても、大きな宝篋印塔のある「端」と、町史の折、巡ったかどうか記憶が曖昧な長専寺さんに行っただけなのだが・・・。

 


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これは巨大な宝篋印塔・笠部。2014年撮影能登島


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端の宝篋印塔から数百メートル。小牧白山神社石塔群。


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ここも対岸の能登島観音堂平成15年撮影


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外、小牧境の宝篋印塔部分。およそ90㌢高。説明板には村境の印でないかとあるが、向こう岸は二子山がある。一帯には能登国三十三観音札所第一番諸橋明泉寺があり多くの五輪・板碑群のある鎌倉屋敷もある。二子山遙拝所と関連ある塔だと思われる。

本文続き・・・ご家族が遠方においでるので家族葬にされたのだろうから、せめて左輔さん宅前で手を合わせてこよう、と記憶にある佐助宅前を通ると、車が止まっていた。

ムム・・・。玄関は鍵が掛かっていたが、御家族の方がおいでになり、お参りすることが出来た。

去年あたりまで、近くの人に会えば、左輔さんどうしてる?と聞いており、その都度元気だよとの声が返っていた。

つい最近までお元気だったそうで、この30日に息を引き取られたという。

橋本家には「今本屋三代の俤」や「末世目覚草」などがあり、特に「末世」には阿武之松一行が出身地の七見に凱旋巡業した時の途中の巡業の様子や、飢饉年ごろに熊木川が氷り子どもが川の上で相撲を取っている様子、秋あがりの本山詣でなど庶民生活の宝庫のような話が盛られているはずだ。

その本をテキストにして勉強会をすれば、どんなに楽しいだろう。

 

つい愚痴がでるが、

高額の年貢(地代)をとって回りを空き地だらけにし、今も空き地予備者が続いている、現地にいない大地主の文書講座が計画されているという。

ー何人からか、理解出来ない問い合わせがあったので、そのことが載っているという冊子を見ると、

なんと「某地主と真宗寺院」という講義名ー。

講者では無くとも、狭いところだ。

私がどこかで関わっている・・・と思った人がいても不思議ではない。

その町に、借地していて年貢を払えず都市部へ移っていった(廃寺)真宗寺院がある。それから~十年。

高齢者、年金暮らしの方々が多く、どうしておいでるかとおもうことがままある。

病院ではなく家で生を終えたい・・・といった一般的な話がマスコミで語られたりすると、より、切なさが募る。

 

空き地だらけの現実があるのに、「地主家と真宗寺院」

―そんなタイトルで話ができるはずがないだろうに・・・、

こちらに住んでいない地主も、離れたところにある師匠寺も、門徒が苦しんでいることを知っている近くの寺々も、そして土地を借りている人はなおさら・・・、皆つらい

 

いかにも君たちとは違うといった高みから見る学者がいて、それを招いて、いかにも仕事してますよー、と講座を開く人(たち)がいる。

 

そんなこともあって、

「末世目覚草」と左輔さんの笑顔が、より親わしく浮かんで来る。

今日訪ねたお寺は、凶作の年ごとに法宝物の「親鸞伝絵」を質に入れ、門徒さんたちの年貢を納めていた。

 

町史に載っているのだが、原典は?

次々、思いは流れていく・・・。

 

『真宗文化論』参考編

量が多いので500ページ分ほど別刷りにし「参考資料」にしたてた。

自分で書いて、しかも書いた本などがもう売っていないか、手に入りにくいものだけに絞っていく。

 

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予定が多すぎ、参考にしたい論や、レジメ類は別に「資料」編を作り、必要な時に使えるようにした。

新たにカッターを購入し、100枚綴じのホッチキス、製本用糊、工作用刷毛も購入し、表紙紙は桝田紙店さんからいただいたので、カシッーとした本を作ることができるかと思いきや、中学生時代の図工・通知表2(5段階)の不器用さがまだ生きていて(というか、よりひどくなっていて)綺麗にならない。

本文補助ではあるが、目次を作成。上(左)の数字は論文・記事・その他の遠しナンバー、右(下)の数字はこの冊子のページ。

普通のA4コピー用紙の裏表に刷ってみたのがこの状態で125枚分のコピー用紙は相当重い。

より縮め、400ページあたりが限度か・・・。

 

目次 参考 前編
一向宗が重宝 「微妙公御発語」『御夜話集 上編』石川県
図書館協会刊 152P                 1
1春すゝめ  山下久男      当時輪島高 「金澤民俗談話會報」第五號  昭和二十五年十二月一日                 1
2心に残る、思いでの手紙網野氏                                        1
4 年表 罫線があり載せず 

二〇〇三年高岡七組レジメ
13 あそばされ候御名号ー多羅小仏 

 〔蓮如上人御一代記聞書〕78 〔拾塵記〕〔羽咋〕           2
13高山別院照蓮寺 二〇〇九(平成二十一)年三月二十五日(木)「そのかごを水につけよ」御一代聞書89             3
に学ぶ 土地・ふるさと・想い出の地・あこがれの地  和歌の伝承 [お筆始めの、お文]寛正二年三月日 文明第三炎天の御文[愚禿悲歎述懐和讃] 彼岸の御文  『蓮如上人御一代記聞書』より  蓮如上人の一生(敬称略) 妙好人の歌声 『最須敬重絵詞』『御一代記聞書』(二四六) 『妙好人傳』『新撰妙好人列伝』(『列伝』)『妙好人のことば』(『ことば』) 蓮如上人御遺言[蓮如上人御一期記]
16 蓮崇本いきさつ ○西村家 ○蓮如上人御書 ○瓶子屋諸文集 (1)(外題=原装表紙)(右下)釈蓮崇             22 
(2)諸文集(瓶子屋書写本) 蓮崇本取り決め   文化十四(一八一六)年
16 御文「誓玄本」の行方 「光教寺兼順(顯誓)後嗣考」北西弘『大谷学報』第五十八号第三号              31   (一九七八)七 ○『内浦町史』第一巻 昭和五十六年
16 書評民衆の導師 蓮如       二〇〇四年(平成十六年)六月二十日掲載                                       34 
16 『続・日本の歴史をよみなおす』筑摩書房1996年1月20日 8頁~11頁百姓は農民か  網野善彦               35 
 奥能登の時国家 ○『日本海佐渡高志書院一九九七年十一月十日  9頁~13頁
 百姓の実態 百姓は農民か?民俗・歴史・日々 ー 10:53
 『日本海佐渡』古志書院、1997年刊 網野善彦中村格・内山節・福田アジオ・篠原徹
16 五帖御文に見る男女               40  21 雪の果ての蓮如さん〈下〉 北國新聞  昭和55年4月22日45 
25 『蓮如さん 門徒が語る蓮如伝承集成』嫁おどしの面 一九八八年一〇月二五日発行 加能民俗の会  4725 北陸 伝説の旅 福井・吉崎 嫁おどし肉附き面藤島秀隆 金沢工大教授   49
嫁おどしの面 諸本より               51 
嫁おどしの面 『蓮如さん 門徒が語る蓮如伝承集成』
女人と御文 『蓮如上人と伝承』五

52 肉付面 『奈良県吉野郡昔話集』          53 
蓮如北陸路を行く』朝倉喜祐著                                    53 
肉付面 (天川村 菊谷タケ)(川上村 中井浜子)   大字 高原 生地同じ 明治36年2月28日                    55 
蓮如上人御影御上洛随行記』上 太田浩史   『大系真宗史料  伝記編6 蓮如絵伝と縁起』                      56 
28 平成七年三月三十一日刊   根上御書                               57 
28 根上町の講   『新修根上町史』通史編 平成七年(一九九五年)三月刊                                        60 
  ※小松教務所調査等の御書(明治八年まで)                          63 
31 講の調査  林昇 「加能民俗」第三号昭和二十五年八月一日発行  能美郡山上村宮竹校下                 64 
31 能登鳥屋町の講について 小倉学                               68 
31 加賀田ノ島のお講田ノ島採訪ノート其の1小倉学「加能民俗」4ー7昭和三十三年十一月一日発行         75 
28  門前の御消息                『新修門前町史 資料編6』       77 
33  様々の真宗法然上人との出会い】【女人往生】コンゴウ                                                          78 
蓮如上人御遺言
○享禄の錯乱    亡命・本願寺(頼秀・越中へ)・新興土豪+白山山内衆・三河vs国人・朝倉・畠山
御書・御消息  ○御消息  ◇寺檀制 ☆説教【一一世顕如上人】三種六通(籠城②、退出②、懇志②)           90 
お文 文明第三炎天之比、賀州加卜郡五ヶ庄の内とかよ、或片山辺に人十口ばかりあつまりゐて                   90 
正月御座・月忌はじめ 能登島町史 資料編第二巻                 92 
二十日正月・寺正月 『鹿島町史』年中行事                       93 
35 平成九(一九九七)年十月十八日太子信仰と北陸~聖徳太子へのあこがれ~  石川県立歴史博物館             93 
 太子信仰〇蛍の歌【オオイコ・タイシ・ダイシ】【太子信仰と親鸞聖人】【綽如伝承】【蓮如伝承】             111 
35 慈悲の象徴・聖徳太子丨石川県下の太子信仰 平成九年十月三十日 珠洲市ロータリークラブ会報           119 
35 「なんぶつ」の太子 長岡博男「金澤民俗談話會報」第十八號、昭和十六年三月十五日発行                   121 
38 花祭り  中島 第三章 年中行事と信仰生活               123 
40 雨乞い    (『石川県大百科事典』改訂版 上巻  二〇〇四年十一月三十日 北國新聞社刊)               124 
40 二〇〇一年二月七日 北陸中日新聞   ぞんべら                125 
41 民俗座談丨郷土の七夕と盆行事丨 七夕と盆(七夕略)「加能民俗」第三号昭和二十五年八月一日発行         126 
41 武生地方に於ける「コンゴウ」 斎藤槻堂 「加能民俗」2の6昭和二十八年十月一日発行                   130 
43 『御崇敬』参考資料     ※二〇一九年(平成三十一年)二月一日   和田勝氏作                                 131 
43 能登教区(大谷派)御消息調査報告」の分析。○○寺・○○村○○日講中など一覧、                             133 
44 御示談[真宗の生活(習俗・民俗・風景)                         135 
46 門徒もの知らず論・森・太宰春台 徂徠学 ◎銀杏通信                                                      137 
46用語  門徒衆 松原一秀 石川郡館開村安養寺「加能民俗」第四号昭和二十五年十月一日発行                 150 
46 真宗門徒の日々ー民俗語彙は何を明らかにし得たのかー丨『宗教民俗研究』第十七号二〇〇七年十月刊      153 
47 『日本民俗大辞典』       執筆項目                       164     鵜祭 御講凪 御崇敬 お取り越し コンゴウマイリ   斎 報恩講 蓮如
46 西山郷史門徒の暮らしと「民俗」ー民俗語彙は何を表現し得るのかー」レジメ                             165 
「いのち」に目覚める言葉-他力本願-北國新聞20040205     165 
「あう」「値う」「遇う」について                         167 
優れた語り部尊い一書 奥能登地方俗諺満語 百姓覚えた者はない』中瀬精一序に代えて                    168 
百姓覚えた者はない 用語 平成十七年七月 一部  おらの貰った日 二部  見んと知らぬが極楽や                   169 
三部 百姓覚えた者はない
53 鬼神に事えんか 『真宗聖典』(大谷派) 『論語』新釈漢文大系1論語 明治書院                           172 
53 儒者関係全、物忌み論 森龍吉氏 太宰春台の評価     174 
愚禿悲嘆述懐和讃   御自身六首
 真宗と民俗 門徒もの知らず 太宰春台  『蓮如』森龍吉 優婆夷・仏忌の御文 『聖学問答』孔子
荘子 老子 蟪蛄春秋を知らず
53 末法論 穆王(ぼくおう)  51年 53年 ○日本思想体系 親鸞 51歳                                                192 
53 125 残すべき用語                        193 
47 125 『日本民俗大辞典』上・下 項目 ア行 下巻タ行~ワ行                                                197 
柳田にもあった走り移民 中瀬精一  《走りと呼ばれた農業移民》                                               207 

目次 後編
54  口能登の伝説 今村充夫「加能民俗」4-2 昭和三十三年二月一日発行  怪僧伝など                   211 
54 長太狢記第序并ニ長太異形の事 貉長太をあざむき終に長太に伐殺さる事 聞書                           214  
長太ムジナ       採話・藤島秀隆                 227 
 はいや音頭(長太むじな) 『石川県の民謡』昭和四十二年五月十日 北陸放送刊                           228 
63 民間信仰と和歌丨関係者の歌                230 
64 親鸞聖人五百五十回忌  新史料を発掘 寄稿  北国新聞文化欄 二〇一三年十二月十九日(木)            253 
 親鸞五百五十回忌追慕五十首 二〇一三年(平成二十五年)十一月二十六日(火) 北國新聞
64 親鸞 五百五十回忌の和歌  二〇一三年(平成二十五年)北陸中日新聞 十一月二十六日(火)          255 
 親鸞聖人五百五十回忌追慕五十首倭?  文化八年(一八一一)年三月二十八日  大谷俊太氏翻刻
 開山親鸞聖人五百五十回忌 追慕五十首倭金偏+哥 

出題 冷泉入道前大納言等覚                       255 
65 201310月頃のメモか?  白山の歌
68 鹿島 七日盆                           258 
69 高梨氏関係・ブログ記事 「目連尊者」 二〇〇七年(平成十九年九月十二日)                           260 
 『東アジアの祭祀伝承と女性救済』高梨氏関わった本   二〇〇七年(平成十九年)九月十日     
70 孟蘭盆・目連尊者、それに安心数え歌丨十組推進員協議会丨二〇〇八年八月二十日                         262 
 能登の「目連尊者」丨七尾市 二〇〇七年(平成十九年九月十二日)
 盂蘭盆と目蓮尊者 能登島・野崎の伝承、その他二〇〇六年八月八日、二〇〇八年八月二十日               264 
70 元薬師寺-能登島の薬師-                                                264 
 目連尊者(『真宗聖典』)とお盆 東蟹谷ちょんがれ節      265 
 礪波市鷹栖チョンガレ 礪波市鷹栖チョンガレ 目蓮尊者 井波 目蓮尊者 地獄巡記
 越中チョンガレ節解説  さかた音頭  森本・八田  (目連尊者) ぼんぼらがい目蓮尊者地獄めぐり(熊淵町)
御本山くどき 『日本庶民生活史料集成』第十七巻 民間藝能  一九七二年十一月三十日刊                                                   289 
71 信後相續歓喜嘆 全 ※すべて振り仮名あり  刊本表紙荒井玉泉堂述、洗心書房刊[歓喜嘆一~二十五帖]
  信後相続 歓喜嘆目次 信後相續歓喜嘆 ○茶飲み咄の意味 ○御寺参り小言の辨 御當流伊呂波歌序
71 信後相續歓喜嘆 全                                                  291 
 蓮如踊り(しゃしゃむしゃ)坂井郡金津町吉崎  あさがえし 石崎
 萬歳・チョンガレ節・口説 解題   部分  五来重編著 越中チョンガレ節 解説    p547~
 口説 伊勢三日市の「おんない」念佛                           326 
 ちょんがれの由来 綾子願念坊踊り唄 じょんころ 坂井郡丸岡町竹田 
71 さんごろちょうべい 三国町崎 ちょうちょう踊り吉田郡上志比村藤巻 しんき(歓喜嘆)江沼郡山中町荒谷
信後相続歓喜嘆 盆踊り・祭礼 野々市河内村 ジョンカラ節        金沢市東長江町                       334 
72 南無阿弥陀仏の唄・長い迷いの 南無とせ節  戸水 鞍月校下 後生願い のりさげ 坂井郡金津町吉崎 
72 あさんがえし・後世願いなど              340 
○仏教数え唄  湯川町 御當流いろはうた  歓喜嘆        343 
弥陀の誓願 (部分 数え唄)   広陵兼純師 節談説教
73 旧表道場  数え唄  江戸時代末期      349 
花づくし 
数え歌  尾口村『石川県の民謡』昭和五十六年三月 石川県教育委員会編集・加能民俗の会発行                 350 
草刈り唄    竹又町
76 門徒衆 松原一秀     石川郡館開村安養寺 農業     352 
 木やり
77  わらべ唄の真宗 今度ひとたび〔説教唄〕 相撲甚句         追分・大黒舞                           355 
80 法宝物 絹本着色十二光仏十字名号 方便法身尊像文明十四年                           363      
86 葬儀     中島 第三章 年中行事と信仰生活     364 
能登に見る真宗以前古代葬制継ぐ四門額 昭和五十六(一九八一)年五月二十一日北國新聞                   365 
水と信仰 『コミュニティジャーナルいしかわ』No三十、一九七九(昭和五十四)年七月五日              365 
参考 水と信仰ー能登川滋賀県)へー2016年6月10日、11日                                  366 
水と信仰丨能登川滋賀県)へ丨6月10日、11日
90 しんじりゅう 進士流                             367 
91 律令 『日本思想体系』3 p475  雑令(ぞうりょう)  第卅                                                       368 
真宗と精進・お斎料理・行事 資料 一切経御校合の事、『真宗聖典』(大谷派)口伝鈔8 覚如上人    369 
貞永年中(一二三二~三三)「貞永年中二十一箇条掟」                                             371 
文明十二年(一四八〇)「山科十七箇条」
明応八年(一四九九)「蓮如上人御遺言(兄弟中申定條々)」 [出典]『蓮如上人行実』稲葉昌丸編 法藏館
  可二停止一条々之事。
進士流 しんじりゅう  大永六年(一五二六)畠山義尭 畠山流響御膳および膳部のゆらい、仕立て方、包丁式、
永禄二年(一五五九)  十二月一五日 本願寺門跡寺院顕如、門跡に補せらる。正親町
天正八年(一五八〇)『實悟記』の斎・精進 [出典]『真宗聖教全書』三歴代部 大八木興文堂  904頁~
御本山御代々制条
享保七年(一七二二)九月 六条 掟                                                           380 
寛文八年(一六六八) 諸国末寺僧徒可守之掟
天和三年(一六八三)  三箇条                                                              380 
文化三年(一八〇六) 本願寺条制 西
天保二年(一八三一)本願寺条制
享保七年(一七二三) 寺法品節 西
延宝四年(一六七六) 御寺法御掟
 御斎・非時配膳之御掟書                                                                   381 
寛文八年(一六六八) 御寺法御掟
安永三年(一七七四) 考信録  巻一  考信録   巻二    382 
明和二年(一七六五) 真宗故実伝来鈔
真宗故実伝来追加    定衆役述懐    報恩講御斎非時之事                               383 
年中行事                                                                                   385 
ほうおんこう 報恩講                                                             386 
真宗における精進料理について  資料・レジメ(若坊守会)                                                   387 
関連語(キーワード)  うろこ 鱗 いろこ→うろこ 
精進 しょうじん 六波羅蜜  ①心をもっぱら(精)にして、道に進むという義にして
鈴木大拙 英訳教行信証  食事を抑える                           389 
心に枠のない世界丨鈴木大拙館をたずねて丨鈴木大拙館名誉館長 岡村美穂子さんに聞く。ききて金光寿郎
敏達天皇十三年(五八四) 斎・設斎(おがみ)  『日本書紀』下(岩波古典文学大系)
敏達天皇十四年(五八五)二月十五日                               390  
推古天皇十四年(六〇六)
天武六年(六七八)
持統五年(六九一)
養老二年(七一八)「僧尼令(そうにりやう)」第七  『律令』(日本思想体系3・岩波書店)。能登国                   391  
天平七年(七三六)十月五日『続日本紀』二・巻第十二・聖武天皇(岩波「新日本古典文学大系」13)
天平九年(七三八)
天平十三年(七四二)三月二十四日 巻一四 金光明四天王護国之寺、法華滅罪之寺とせよ。
いろくず  『法然上人絵伝』下・第卅四(岩波文庫・大橋俊雄校注)                                         392 
 階級    能登教区・若坊守会  二〇〇九(平成二十一)年六月八日(月)、三条教務所         
しょうじん 精進    とき 齋  『真宗大辞典』(永田文昌堂)                              394 
 「連理の杖」「略暦」(真宗唱導資料)真宗の生活(習俗・資料) | 18:03
愚禿・和歌 「壬申歳 略暦」                                         396 
95 第一〇番 小田中観音堂  鹿島郡中能登町小田中            398 
第十七畜  柳田光泉寺                       (羽咋市柳田町)
第二十一番   高田橋詰め           (鹿島郡田鶴浜町字高田)
 能登の古習俗ー当屋のことなど(部分) 小倉学     404

99 真宗の文芸世界と絵馬  戸澗幹夫 『華和讃新羅源氏』翻刻が『大系真宗史料伝記編4 52』          405 
省略部・註
99 冠省  抜き刷り有り難うございました。
99 20170824  戸澗論文を戸澗氏より送付してもらった返事・塩谷菊美氏                                                                           427 
99 2017530***「真宗の文芸世界と絵馬文化」
○「済度される鬼神ー続き因縁話の世界ー」(『説話論集』第16集 静文堂平成19年7月刊)                                                       430 
世に出た長太ムジナ
行事関係                                                                                  434 
 1、「御国政ニ付き申上候帳冊」2、文政三年・天保五年 村松標左右衛門上書 3、「小林家年中行事」4、「末世目覚草」
キリコ、山車関係
石動山                                                                                    437 
蓮能尼の手紙                                                                              438 
111 五来重先生の真宗
能登の海と五来先生……西山郷史
***仏教文学概論                                                                        443 
**真宗関係著書
五来重編『歎異抄』(『鑑賞日本古典文学』第20巻仏教文学、角川書店、昭和52年刊)                                                            445 
 【善人】この一条の文では「自力作善の人」のことである。
善人と悪人
仏教文学概論 
高野山における親鸞聖人像 五来重 親鸞聖人七百回忌御遠忌記念出版 大谷大学 一九六一年三月刊  448 
115 分析 病院緊張空間 家 長生きする
123 「妙好人を生きるー千代尼」  『花すみれ』  2019年7月号                             459 
125 百姓ノ持タルヤウナ国、百姓ノ持タル国、門徒の持ちたる国     2018年-11月-06日-Tue        461 
白山・石動夫婦説も-実悟上人『拾塵記』に載っている。
百姓=農民に非ず 『続日本の歴史をよみなおす』八~九頁
実悟上人
125 侍能工商之事 185=百姓                                                                 465 
125 祖師・蓮師に会うということ                                                             466 
◇寛政四年  越中国  御旧跡 廿四輩順拝記  子壬  砺波郡久戸村(115p)                      467 
豊四郎巡拝  文化5年(一八0八)    二三一ヶ寺    ( )は疑問読み                         472 
125 真宗御旧跡巡拝・論   蓮如上人御旧跡巡拝                                                483 
   1、「御旧跡 廿四輩順拝記」  蓮如関係は◎、その他は○。
   2、豊四郎の巡拝

恵贈本・論ー『岩倉寺文書目録』、『仏教寺院の地域における役割に関する考察ー奥能登を事例としてー』(卒論)

 

◎『岩倉寺文書目録』石川県鳳至郡岩倉村(輪島市町野町西時国)神奈川大学日本常民文化研究所さんより。f:id:umiyamabusi:20200123070034j:plain

網野善彦先生が所長だった頃に始まった時国家文書(県指定)調査の流れである。

現在所長は佐野賢治氏。

岩倉寺に関しては『能登国三十三観音のたび』(西山著 北國新聞社刊)より

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今だから、と言うわけでもないが、揚浜塩田を守ってこられた故・角花菊太郎さんの名付け親が当時の岩倉寺住職で、9月9日に生まれたので「菊」太郎とつけてくださったのだと、菊太郎さんから聞いたことがある。

umiyamabusi.hatenadiary.com

 

 

 

 

◎『仏教寺院の地域における役割に関する考察ー奥能登を事例としてー』(卒論)

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昨年、知人であるこの大学の卒業生を通して聞き取り調査依頼があり、問われるままにお話ししたことがあった。

執筆なさった山崎さんから、卒業論文を書き上げたと送ってこられた。

たいてい卒論が長い文を書く最初になり、苦労する。

ご苦労様・・・。

修練の師ー木村映了師

 

私が真宗を学んだ方は、教師修練の前期・後期宿泊研修で指導なさった方々が最たるものだ。

修練は2回あって、前期は木村映了師、後期は伊勢谷師。

伊勢谷氏の動向を最近のFBで知ることができた。ずいぶんおやせになっておいでる。

思いは飛ぶ。

かつて入院暮らしをしたという九州の後輩は、どうしているだろう?

FBに便りを書いた。

 

ほとんど唯一と言っていい、師のお二人なのだから、先に出した『妙好人千代尼』を書きました・・・、と、送ればいいのだろうけど、送っても返事が来ない人が何人かいた。

 

理由は様々だろうが、

伊瀨谷師の場合、若くして教師修練の教導をなさるだけあって、厳しさを秘めておいでのようで、「こんなこと教えてはいない」と思われるのではないか?があって、送っていなかった。

 

前にお会いした時、修練で教えていただいた旨を話したような気がするのだが、ピンときておいでないようでもあるし、

修練の教師だけに真宗を学ぶしかない学生がいる・・・、

そのことにピンときておいでなかったのかも知れない。

 

などなど・・・考えていたら、後輩の九州つながりで、もう一人前期の先生が九州の方だった、に思いが移っていった?

何という人だったろう・・・、当派の名簿では分からないし・・・

ヒョント、木村・・・映了師、だ。と名が出てきた。

 

次々たどっていくと、2017年4月21日、82歳で還帰なさっておいでた。

木村さんなら喜んでいただけたのになぁーの思いがつのる。

 

一昨年1月、出版した時、いろんな方々を思い浮かべていたのに、48年間連絡をとらなかった静大の人々ばかりに思いがいって、それも、どんどん連絡が取れだし舞い上がっていて、

木村さんまでたどりつかなかったのだ。

でも、そのときはもうこの世にはおいでにならなかったのだなぁ・・・。

 

過去のブログ記事(2014年6月28日)に木村師に触れている。

この時の記事も、28日、親鸞聖人御命日。

 

そのころに木村師と同級生と聞いていたお説教の権威・広陵兼純師にお電話した。

広陵師はご存じで、お寂しそうだった。

 

2014-06-28真宗の本

 

今日は親鸞聖人ご命日。
晨朝、お日中のお勤めを終え、真宗本に。
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『九州真宗の源流と水脈』遠藤一、中川正法、緒方知美編。法藏館刊。
筑紫女学園大学
金竜静氏から。

 

編者の中では、遠藤氏とかつて近世仏教史研究会合宿で顔を合わせている。
九州というと数人の名が浮かんでくる。
相当親しい人たちなのだが、「九州真宗」という感じではまとまってこない。
前期教師修練の担当だった木村映了師、塩谷、江口、大城…。
私にとっては大切で、強力な個性。

 

修練一週間の担当で、真宗最初の師となる木村さんとは、『蓮如上人と伝承』を出した折、電話で話す機会があった。
そこで、派が違っておられることを知った。そして、修練(24歳)の時の、私の質問をずーーと考えておいでる、と電話口でおっしゃった。
「九州真宗」を見たとき、誠実だった木村師を思いだし、あらためて宿題が残っているなぁ…という思いー長続きはしないーになっている。

 

そして、一方で、いつも本を送って下さる金竜氏に対して、何か書かなくては…とも、思う。

 

二島が一つ島に。月見島~見附島(見付島)


5年近く前に引用文を書いた。

 

その時

そのうち、もう一つ島があって、二島と言った時代があった,
それさえ忘れさられるときが来るのだろう。

と書いたが、昨年秋の大風のあと、左の島が無くなり、

もう前半の状態になってしまった。

このブログの写真を並べて、見附の変遷を知るコーナーなどがあればいいのに・・・とふと思った。

近くにあるのかも知れない・・・。

このことを書いたのも、FBに見附を表紙にしている『伝説とロマンの里』が載っていて、いつも見附島を見ており二島の一つがなくなったことを、珠洲にいる者として載せておかなければと思ったから…

である。

相変わらず雪は0㌢。

2015-06-12

タイトル 

見附島ー二島の変遷-、そして、明治25年(123年前、今年は128年前)の鵜飼塩田作業図

編集

右見附島、左に小島があり、さらにその左に鳥居がある。
見附島までは遠浅。
石を積みあげた道がついていて、島のすぐそば行くことが出来る。
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この写真は、平成21年、6年前(9年前)。
変遷の注目は左の島、そして石道。

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平成14年以前
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昭和37年。約50(60)年前。
左の島はかなり大きい。
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昭和10年代。
かなり大きい。二島(ふたしま)と呼ばれていたのも納得できる。
石の道がない。

『写真アルバム昭和の能登半島』より。
石が積まれたのは、昭和23(1948)年。

二島図

相当前から、見附島近くの旧家に、左の島(どちらも見附島なのだそうだ)が大きき描かれている屏風があると聞いていた。
6月1日、そのお宅へ寄る用事が出来たので、見せてもらい撮影してきた、
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横67.5㌢、縦38㌢
屏風ではなく、普通の絵だったが、
なるほど、この時代のものはまずないだろう。
能州珠洲郡鵜飼村見付嶋之真景之圖
明治廿五年秋十月上旬
江南人豊写(印)(印)」
とある。
明治25年は1892年、123(20020年からは、128)年前だ。
120年余で、こんなに小さくなった。
そのうち、もう一つ島があって、二島と言った時代があった,
それさえ忘れさられるときが来るのだろう。
この画は、極めて貴重なものである。

明治中期の塩田光景

そして、当時の塩田が描かれている。
これは、もう、をつけよう、もう極めて貴重な絵だ。

 

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黒峰城址からの見附島。直線距離で約5キロメートル。東南(辰巳)の方角。県下最高所(445.45メートルル)にある中世山城で城主は伝説の阿部判官。判官も月光の冴える海に浮かぶように見える見月島を眺めたことがあったのだろうか?

 

 

説教から民話ー千浦又次、本多先生と『能登早春紀行』(昭和58年、森崎和江著)

真宗文化論の御説教から民話への流れの中で、異質なものに白比丘尼伝承がある。なぜ、それを取り上げているのかを書いている時、さんにょもんなどまとめた本の紹介があればいいと思い、また。猿鬼の書写本翻刻があったはずだと探すが見つからない。

何度も何度も書棚を目で追っていると、先月27日に書いた本多さんの指導した版画集のなかで見当たらなかった「千ノ浦又次」が出てきた。

直接関係はないが、書棚にあった『能登早春紀行』(森崎和江著、花曜社、昭和58年8月刊)の目次を開くと、「第四章千浦の又次 富来町赤崎」とある。

読んでいくと湖月館・畑中幸子夫人、清水隆久さん、本多先生、(村松)標左衛門などが登場する。標左衛門は藩政期の人物だが、その他は懐かしい方々だ。

森崎さんは本多さんの家を訪ねていろいろ話をなさっており、私が訪ねたときと、同じ囲炉裏の様子などが描かれている。

ちょうど、版画集「又次」が出来て間もなくのころ。

 「千浦又次」の最後の部分は以下。以下版画集だけでなく、劇にしておいでたことをこの文で知ることができた。教師の鏡、よく使われる言葉だが、まさに本多さんは鏡だったのだ。

次々に今まで知らなかったことを知る。不思議な年ごろだ、としみじみ思う・・・。

 

「ニシン漬けをベン潰けといいます。北海道で覚えたのかもしれませんね。昔、北海道まで船が通っていましたから。大根の貝やきもこのあたりの料理で、おいしいですね。

 大根をホタテ貝の大ぎな殻の中で、フグの子の塩漬けや小糠いわしとかのイシリでたいたものですけど。ホタテ貝も北海道から持って来たものです」
 座敷には北海道の熊の毛皮が敷いてある。北海道は近いのだ。
 千浦の又次の話を聞いた。版画の話も。
 この又次を、子どもたちは版画に描いてたのしんだぽかりでなく、児童劇にして地元の人びとに演じてみせたのだった。
 それぞれの場で庶民が伝えた文化を噛みしめている人に出会うのはたのしい。

 本多先生にもさまざまな仲間がおられるのだろう、アトリエには船員の航路を思わせるような世界各地の仮面や、自作の面、製作中の油絵が、次作の児童劇の脚本とともに部屋いっばいに雪もようの光を受けていた。  

能登早春紀行』 69頁

 

本多さんが43歳頃の話。

そうと知った時、私が教員を辞めた年が43歳だったことと重なり、

あらためてしみじみとした気分になっている。

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筆者がもう一度赤崎の夕景と町並みを見たい・・・と訪ねた赤崎ー左が海・夕陽。

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