蝦夷錦ー御門徒交流史に向けてー

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「西勝寺」は16ページ。県立郷土資料館(現在の石川歴史博物館)紀要。資料館は元四高(現在・近代文学館?)にあった


いつだったか、どういうときだったか、歴博学芸員さんと話していて「蝦夷錦」の話題になった。当寺の寄進札に「蝦夷錦」の文字があったのでそれを伝えておいたのが、ものはともかく寄進札だけでもと、その方面の専門の方とお二人で調査に来られた。

このような時とか、門徒さんなどにもお渡しできるように西勝寺年表の下書きを作っていたのを、今度の「真宗文化論」サイズに合わせてA5の持ちやすいのを作った。

 

当寺は

元暦元年(1184) 飯田城主を大旦那としていた光福庵開基慈寂が没したところから系譜(安永八年1779、圓意の記録を写しておいた記録)が始まり

宝暦10年(1760)ごろには12世住職圓祐の弟円空松前箱館浄玄寺を開き(箱館別院の前身)、

その頃、13世権律師圓旭が正親町三条家24代實同(さねとも)の猶子(猶子の如し=義理の親子)になっており、

文化頃には、初期の飯田郷代官で後、今石動の代官になった篠島頼太郎家(2500石)12代頼太郎の妹・添が嫁ぎ14世圓護および治を産み育てている。

このことはかなり早い時期に、歴博学芸員だった亀田康範さんが、紀要論文に篠島家文書をお書きになっていたらしく、当時の石川県立郷土資料館の研究室で、興奮したように篠島頼太郎の妹が西山さんのお寺にお嫁に行っている…、とおっしゃった。

この紀要(紀要第八号「加賀藩人持組篠島家文書」昭和51年6月刊)が出たのは私がまだ20代の時だから、初任校の羽咋工業時代の話だ。野球部部長時代で加賀藩???・・・のころだ。

大体が、父も養子、その前もその前もその前も跡継ぎがいなかったか早世しており、何か行事をやるにも椀まで御門徒宅から借りなければ出来なかった、と聞いていたから、耳に留まる話ではなかったのである。

ただ寺紋の連翹紋は珍しく、これは篠島家の紋をいただいたのだろうと民俗をかじっての「嫁の紋」説でそう考え、そう語っていた。

ところが、これは正親町三条家ゆかりの戸田家の紋だった(正親町三条は転法輪三条家と区別するため、後に嵯峨姓を名告る)。

というように・・・・・・、

なかなかのロマンのある歴史や法宝物を有している。

いつかちゃんとした「西勝寺史誌」のためにだ。

 

本堂の寄進札は何度か調べているが、打敷・七条類を核に見るのは初めて。

蝦夷錦」は3点の寄進があり、その他にも「猩猩緋」「緋羅紗」「赤地錦」などの高級な赤地錦打敷が寄進されている。

本山の紋刺繍もあるが、龍の図柄が多い。

山号の「臥龍山」からだと思うが、この分野の研究が進んでいるわけではない。

様々な仮説と背景を考えなければならないのだろう。

寄進なさっている地は、江指、室蘭、箱館、小樽、江戸、大坂、京都など。

年号が入っていて最も古いのも、享和2年(1802)江戸住亀屋からのもので、幕末の大変な時期の寄進でもあるのだ。

調査をなさりながら話しておられるお二人の見解を聞いていると、知らない世界が、次々に広がる。

 

頑張ってください、と頭を下げながら見送った。

 

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学びの人への一資料

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Dグループの3=「葬制」。10,5ポイントでは48ページになった。

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ほぼ十日前、中能登町で鵜祭について話した折、金沢大学の学生が論文を書いているので見解を聞きたいと、会場に来ておいでた。講演前のわずかな時間、調べている内容を的確に話され、私の聞き慣れない用語も使われたので、確かめつつ少し見解を述べ…講義に入った。

用事があって次の由谷氏の講演を聞かずに会場をあとにしたのだが、考えてみると、先ほどの学生さんはわざわざ能登まで出向いて質問に来られたのに、答えられる答えられないは別にして、

名前も聞かなければ、名刺を切らしていることもあって私の情報もお教えしないで別れたのだった。

なんだか、いつでも能登上布会館、飛翔で会えるような錯覚に陥っていた。

その人は留学生だとのことだったが、よどみのない日本語で対話をなさったので、留学生と聞こえたが聞き間違いだったのかな?と思いながら質問に対する対話をしたため、論文が卒論なのか、修論のようなものなのかさえ分からないままだった。

あまりに失礼な対応をしてしまったので、その人を紹介した方にこちらの情報を伝えた。

 

お名前とゼミ、卒論であることが分かった。これで必要十分条件を満たしている。私の書いた資料も受け取って下さるようなので、卒論と関係あるいくつかー今、整理している「真宗文化論」のDグループ3葬制ーを48頁の冊子にして今朝、送った。

 

真宗文化論」は現在Cの和歌までをプリントアウト出来る-ところまで来た。

鹿渡島~気多 鵜祭のコスモロジー

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放たれた鵜が向かうと伝承する能生白山神社と「鵜祭」を書いた『金春』月報2009年5月号

 

※能生白山神社は2008年4月21日撮影


今までの解説では、生け贄としての鵜を運ぶのが鵜様道中とされていたが、謡曲の詞章を分析すると、未来に仏となる、尊い思いを持つ鵜様のお伴をし、宿をする行事ととらえるべきだ。

何匹もの虎の子のために身を投げる仏前、月の兎同様、鵜を借りたもうひとつのジャータカ話(釈尊前世譚)と言ってもいいのかも知れない。

 

以下、詞章中のキーワードをならべておく。

 

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北國新聞1日。この新聞に「地域の催し欄」があるので、そこに紹介されているかも知れないと、2日朝新聞を見直した。前日には気づかなかったがこのように載っていた。

 

 

能「金春流 鵜祭」詞章のキーワード

海人の子

隔てはあらじ神慮憲法17条十「共に凡夫」、御文一帖-三「猟・すなどり」の御文)※和光同塵

勅使 桜町天皇(在位1735~1747)朝廷儀式の復興

「鵜祭規式」天明7(1787)年11月 復興より40年後

ゆのごう 崎山半島・湧浦(和倉)・湯川・角島(鹿渡島)

荒鵜 「みずから贄に供わり」→

最末尾(宣命)「贄に供わる結縁に、鳥類の身を転じ、仏果にいたれ」→「八尋玉殿の神たちより、かの鳥を抱き、海上に向かひて放ち給」ふ

 

鹿渡島龍灯・山灯があがる地=竜宮との接点

鹿渡島観音(能登国三十三観音、第4番)龍灯山華樹院観音自在寺

亀鶴蓬莱山(気多の青山 神隠れ)

蓬莱 東方海上の理想郷 亀の背の上に蓬莱山がある。

金沢城別名・蓬莱城、『亀の尾の記』

 

 

正像末和讃

1 釈迦如来隠れましまして二千余年になりたまふ

  釈迦の遺弟悲泣せよ

2 釈迦の遺法ことごとく竜宮に入りたまひにき

3 諸善竜宮に入りたまふ 

気多不思議大菩薩 本師・将軍地蔵、

地蔵山修験・天正期文書

縁日二十四日。 三夜 輪島重蔵(気多 気多神一説に舳倉→重蔵ヘクラ)

無仏世界度衆生

今世後世能引導」

竜宮から教えが戻る・龍にまもってもらわなくてもいいのは、弥勒下生時

正像末和讃

25 五十六7千万億七千万 弥勒菩薩は年をへん

26 等正覚にいたる人 すなわち弥勒におなじくて

 

鵜はみずから贄に供わり仏果をえる。

この構図は『今昔物語集』巻第五天竺附仏前の

第十三話「三つの獣菩薩の道を行じ、兎身を焼ける語」、すなわち月の兎話と同じである。

 

親鸞聖人・蓮如上人の大蛇済度

高僧の前世獣譚

 

長太ムジナの法要

猿鬼講(当目・行念寺)猿鬼縁起 最末尾「(猿鬼に)すがれ弥陀の本願」

 

道中の柳田付近は補陀落山。邑知潟の月光。観音の補陀落浄土(安永5年御詠歌)

 


 

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2008年4月21日 どうだ狛犬だぞ(能生白山)、



 

 

 

橋本弘明さんたちのコンサート-12月1日(日)


12月1日(日)橋本弘明さんを中心とする五組のコンサートがあった。

橋本さんは素晴らしい歌手で、私は彼のCDを8枚持っている。

何が素晴らしいかというと、歌声(声量・メリハリ)がやわらかく、やさしいのだ。

聞いていると、どんどん穏やな気持ちになっていく。

かつて、調査に同行してもらった人が、車に流れるCDを聞いていて、涙が出ますね、とおっしゃた。

 

その実物が、コンサートの場を設けるというのだから何を置いても聞きにいこうと思っていた。

念願叶って、今日ー途中からではあったがー、聞きに行くことが出来た。

ただただ 素晴らしかった。

 

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飯田高近くにコンサート会場がある。向こうに見えるのは北アルプス連峰。その山なみを、私たちは立山とよんでいる。今日は「立山」の麓まで見えた、という具合。

 ※間違い 飯田高→飯田港

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12月2日(月)北國新聞朝刊

 

私が彼の演奏を聞いたのは、初任校・羽咋工業に勤めていた頃だったろう。弾き語りを時折やっていた金沢の喫茶店で聞いた記憶がある。その店では、カウンター席で浅川マキが隣で話しているのに出あったことがあった。話し声も歌声と同様渋く、二水出身だな彼女は・・・とチラッと思い、近くの「うつのみや書店」で購入した本に眼を通したのだった、と思う。

その次は、確か、禄剛埼灯台での夕焼けコンサート?だった。

そして、昨日・・・。

かつて、CDを破棄したつまらない歌い手や、どうして思い出番組にでて歌うのだろう、と、1日の締めが情けなくなるようなプロ歌手が多くいる中で、

「橋本弘明」は、私の歌への思いをズーッと支え続けてくれている「プロ=本物」なのだ。

 

 

講演「能登の宗教風土と謡曲「鵜祭」」

 


午後は、中能登町能登部下カルチャーセンター「飛翔」で今年最後の講演「能登の宗教風土と謡曲「鵜祭」」。ウタイだから能登の歌を唄ってくる。

と張り切って出かけたのだが、一曲も歌わなかった。

どさくさ紛れに、時衆の節と関係あるのではないか?といわれている四反念仏(=路念仏)を調子外れにあげた。

恥ずかしい

今確かめてみると、六斎念仏の四遍と関わっているようだ。

 なんと、佐々木孝正先生の「本願寺の葬送」にそのことが載っていた。

 路念仏は念仏四反を一節として繰返すために、はやくから「四反返し」と呼ばれていたことが知られる。それとは全く別個に本願寺で実如の時より勤行に用いられた四反返念仏(六遍返念仏を短縮したもの)との名称上での混乱をさけるために、葬送に用いる四反返し念仏は区別して路(時)念仏と呼ばれたことが知られる。

 このように、本願寺の四反返念仏とは曲節が全く別個でかつ四反と呼ばれた葬送の念仏とあるのは、これが六斎念仏の「四遍」の曲に由来するものであったからと考えられる。
 すでに五来重教授によってあきらかにせられたごとく、葬送における「四遍」念仏とは、棺前で唱えられ、声明的要素と朗詠調がよく調和した六斎念仏の「四遍」の曲であり、南無阿弥陀仏四句を一節とするものである。

 さらにそれに下ろしがつき三拍子の行進曲風の曲が「白舞」の曲であり、葬式の門念仏や盆の棚経あるいは墓地までの葬送行進曲として用いられるとせられている。(『仏教民俗史の研究』佐々木孝正著、P181)

 

  自意識過剰と思われるかも知れないが、私が大谷の院に行ってなぜか五来ゼミに所属し、しばらくしてから五来先生から君は「六斎念仏」を調べないか、と言われたことがある。キョトンとしていると手を頭上で左右に振りながら、こうやって踊りながら唱える念仏ですよ、とおっしゃった。

調査に歩く電車賃が工面できるわけもなく、キョトン状態のまま、この話しは消えていったが、今日の講義に四反念仏を唱えてみようと準備していたらー思い出話だけで一時間ー大変なことになっていた。

 これからは、空也念仏の流れを汲む「四遍念仏」が、路念仏の元にあると言われています、と言える。

 「本願寺の葬送」話は、佐々木さんから直接聞いていたのだった。

 


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講演が始まる少し前、この後も席が埋まっていった。道端さんはじめ関係者の努力に感謝。不思議なご縁でお話しの場をいただいた。


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カルチャーセンタ飛翔前の円墳をイメージした丘で、近くのスーパーから買ったお寿司をいただく―至福

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北國新聞1日。この新聞に「地域の催し欄」があるので、そこに紹介されているかも知れないと、2日朝新聞を見直した。前日には気づかなかったがこのように載っていた。

人身受け難し


 

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「人身受け難し」には盲亀浮木のたとえ、一握りの砂などの喩えがあるが、身近なところで我身がこの世に存在する、そのことを語ることで、譬喩になるし、かろうじて身が引き締まる。

父が大谷大学の学生の時、学徒出陣で兵役に就いた(はず)。

配属先が戦車隊で、戦車そのものがなく戦地におもむかないまま、8月15日を迎えた。

祖母の関係で、すでに当寺の養子になっていた。

 

ここから「たられば・・・」

戦地に行っていたら、私はこの世に生を受けることがなかったかも知れない・・・・・・人身受け難しーとほぼ完結していた。

 

ところがこのところ、違う身近な話が浮かんで来る。

伯父が戦死していたら、父が七尾の実家を継いでおり、飯田へ養子にさえ来ていなかったのではないか・・・という思いである。

 

小さな頃、伯父がお説教に来ると、たいてい弟と一緒に3人で風呂へ入った。

伯父の体には、あちこちが引っ込んでおり、そこへちっちゃな指を入れては遊んでいた。

その穴が何であるのか聞かされた頃、私はその意味が理解出来る年になっていたのだろう・・・。

通信兵だった伯父は、大陸の浜辺を自転車をこいで別基地に伝達する仕事についていたそうで、ある日、一機のグラマン?があらわれ、伯父をめがけて爆弾(銃弾)を落して通り過ぎた。

伯父は、砂浜に身を投げ出して伏せ直撃は避けることが出来たが、爆弾の破片が何ヵ所かに刺さり、その後も体内に破片がいくつか残っているーとのことだった。

 

母の実家へ里帰りしていた時、輪島で進駐軍ジープを何度か見かけたが、伯父との出来ごとが、多分、私の最初の戦争と結びつく記憶だと思う。

 

こういうことを書き出したのは、昨日、旧制静高出身中曽根氏康弘氏が101歳で亡くなられ、あの人の人生に戦争の悲しみがあったとコメントされる方が多く、そこから、『地のさざめごと』(静岡高校戦没者遺稿集)を思い出し、いろいろ広がってきたのだ。

この本には中曽根氏が関わっている痕跡は見えなかったが、多くの同級生の顔写真・遺稿が載っているはずである。

タイトルは旧制高校の寮歌の出だし部分で、二番までの歌詞を本に書き込んでいた。さらに3番が別の字で書き加えてある。

仲良かった井出の字だ。

彼と一緒に呉服町を歩いていて、本屋・江崎書店?に寄った時、彼は1冊の本を示し、この本に「俺の名が載っている」と言った。

知人の名を普通の書店で見るという最初の出来事。目の前に本人がいる、たとえようのない不思議な時が流れた。

 

遺稿集へ戻って、「きけわだつみこえ」など手当たり次第に読んだが、最も影響を受けたのが『わがいのち月明に燃ゆ』(林尹夫)だった。

チボー家の人々』の翻訳本がなかった時代の学生だった林氏は、フランス語辞典片手に全て読み切るなど、膨大な読書生活を送っていた。学生になりたての私は、勝手にライバルに仕立て上げ、同じ本を読み尽くそうと思ったものだった。遺稿集のあちこちに出てくる、「慧眼がシャリニ生死無し」を、その頃、よく用いたりもした。

 ※なんとなく生死にこだわらない、という意味で使っていたが、確かめてみると「慧玄が這裏に生死なし」だった。

妙心寺開山無相大師関山慧玄禅師が生死の問題で悩む修行僧に向かって喝破した慧玄が這裏に生死無し。わしのところには、生だの死だのというものは一切ない

 

で、「人身受け難し」をいただいている私は、

これから、門徒さん宅報恩講

午後は、中能登町能登部下カルチャーセンター「飛翔」で今年最後の講演「能登の宗教風土と謡曲「鵜祭」」。

ウタイだから能登の歌を唄ってくる。

 

そろそろ動き出さなくては、しばしさらば「Les Thibault」(レ・チボー=チボー家の人々)・・・だ。

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「地のさざめごと」.この寮とは関係がなかったが、出だしの部分を歌える。曲と共に旧制高校生の袴に下駄、白だすき姿で太鼓を叩いているシーンが浮かぶ。大学祭か何かで何度か見たのだろう。

 

上戸小学校同窓会に、飯田・直小卒業生が混ぜて貰っての同窓会―11月20日(水)

8月5日(月)38度を超えた日。羽咋のお寺で大谷婦人会の講師を務めさせていただいた。翌6日はあまりにも永く勤めている珠洲市仏教会長を代わっていただくべく、関係者の会議を予定していた。

羽咋往復でへばり、夜は資料作りを進めていた7時過ぎに中学校の同級生から電話が入った。

滋賀県I市の警察署長にかなり若い時になっていた同級生が帰ってきたので小学校の同級生たちが数名集まって懇親会をはじめた。顔を出さないかという。

はじめ、明日○時ごろなら都合がつくので、その時会おうと答えたのだが、

―小学校は隣の上戸小(2クラス)で、私は飯田小(2クラス)を出た。その2校と直小学校(1クラス)が一緒になった春日中学校(後、緑丘中学校となって春日中学校は廃校)の同級生の何人かが集まっているのだ。あの頃は、どういう事情か分からないが、卒業写真も名簿も一切無く、誰が同級生なのか記憶だけが頼り状態。滋賀県の友とは前から機会があれば会いたいと思っていたこともあって…

懇親会をはじめているという店に電話をかけ直し、出向いた。ヘッチにホウサク、カンマにマサ、と57年ぶりや53年ぶりが一気に吹っ飛び、中学校時代の呼び名が飛び出てきた。

その時、上戸小では時々同窓会をやっており、今年もと考えていることもあり、最後の同窓会的雰囲気にもなってきたので、上戸小の同窓会に、飯田や直(=かの)の一部も混ぜてやろう…。と、本気か酔った勢いなのか分からない盛り上がり状態で、別れた。

 

それが、そこにいた4人が中心になってお世話をし、この20日(水)に同窓会が開かれたのだ。

上戸小以外の人選基準は分からないが、上戸小+ミニ春日中同窓会のような感じで集まった。

中学校は4クラスだったのでクラスが一緒にならなかった友もいるのだが、男子は全員仲がよかったし、皆、分かった。

女子の4名は名の記憶もなく、その人たちとは、同じクラスにならなかったのだろう。

 

200余名いた中学校同級生のうち、少なくとも40名が先に旅立っている。

 

先ほど小雨降る中、幹事をしていた元職安所長が写真を一枚届けてくれた。

申し訳なくて、ただ、頭がさがる。

 

そして、写真を見ていると泣けてきそうなので、ここにアップして、次の予定にうつる。

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11月20日(水)珠洲温泉のとじ荘。上戸地区男子20,女子10名計30名。飯田・直地区男子11,女子5名計16名、全46名

応援歌 「友よ立て」

1、

松風高く吹き渡り
東雲(しののめ)染むる朝ぼらけ
空にきらめく残(のこ)んの星は
まことに生きる我らが理想
春日 春日 春日 友よ立て

2、

山にこだまを返しつつ
登れば越の峰近く
若葉に映えて光る萱(いらか)は
伝統(つたえ)ゆかしき我らが母校
春日 春日 春日 友よ立て 

 

 資料に添付されていた応援歌。

校歌は誰一人歌えない。こちらは、たいてい歌える。

よく見つけてきたものだ。

ついでに、

飯田小学校校歌は赤本(『真宗大谷派勤行集』)72ページ「衆会」の作曲者・平井康三郎氏の作曲。こちらの校歌はおぼえており、歌える。

鵜祭と能登の海・風土

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鵜祭のスタート地・鹿渡島、一文を書いた「金春」


 

18日(月)四組合同坊守会研修(於能登教務所)を終え、今年の坊守会、門徒会、推進員、法話などを全て終えることが出来た。

昨日は、NHKの方々が話を聞きに来られた。90分能登の風土と海についてお話しした。

あとは、この30日(土)に、カルチャーセンター飛翔(中能登町能登部下)で「能登の宗教風土と謡曲「鵜祭」」と題して13時半から1時間お話しをする。

今、整理している真宗行事、文化論と鵜祭との間に隔たりがあって、かなり考えを切り換えなければならないと思っていたのだが、謡曲本を読み直してみると、舞台となる鹿渡島は竜宮・補陀落浄土に通じる地だし、「鵜」は猿鬼伝説の最後ーすがれ弥陀の本願!ーや釈尊前生譚の「月兎」、親鸞聖人や蓮如上人の大蛇済度説話とも通じる動物救済話の一つと捉えてよいことが見えてきた。

神は権現としても描かれており、隔たりどころかがっちり習合する。

となると、果たして1時間で話できるのかが問題になってくる。

なんとはなしに背景として考えていた能登の海と月、浄土、竜宮の世界を、NHKの方々にある程度語ったなかで、方向性が見えてきたような気がする。

鵜祭の鵜を、今までの研究者は全て供犠・生け贄として捉えているが、贄ととらえては読み間違える。

能生さらに諏訪へ、「鵜」は飛んでいくのである。

 

 

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近日中にレジメをお送りし、それが終われば、概論を立てながら「真宗文化論」を詰めることが出来そう。

在庫と、売り上げランキング

 
 
アマゾンで『妙好人千代尼』を見ると、在庫○点というのが出て、それが一点減ると売り上げ数十万台が一気に3万台ぐらいになる。この本はアマゾンでは和歌・俳諧分野に属していて先月の29日に25位、全体で30100位というのがあった。
その後、一、二ヶ月待ちになってしまい、ある方が出版社本屋に寄った時に無かったとおっしゃたので、その方が京都へ行くわけがないと思いつつも、手持ちの本を1冊おあげした。
在庫もちゃんとというべきかあるそうで、○点の日々が始まるかな…と思っていたら、昨日あたりから「一、二ヶ月待ち」も消えて、2200円より(定価より千円高い)の中古品、新品は4900円よりとなっている。この書店の表示の仕方からは、「もうありません」だ。
自分の著書だけに見ることが出来るちょっとした気分転換が、もう行えなくなってしまった、寂しさ。で、今日を見ると一昨日56万台だったのが、昨日19日は2万8千台になっているー不思議。
蓮如真宗行事―能登の宗教民俗―』『能登国三十三観音のたび』も在庫なし。
この本も「私の思い出」になっていきつつある。
 
 

真宗文化論―進捗状況―

 

ようやく、『蓮如上人と伝承』『蓮如真宗行事』と『妙好人千代尼』の間の20年間に書いた真宗関連の論文・エッセー、新聞記事など全てを取り込み、プリントアウトすることが出来た。

 昨年出版させていただいた『妙好人千代尼』は、父の死の年を迎える年になって区切りにするため、『蓮如真宗行事』以降書いたものをまとめるつもりだったのだが、身近な加賀の千代女が、妙好人千代尼といわれたり、信心深かった人だったと言われているにしては、どのあたりが妙好人なのかが明らかにされておらず、忸怩たる思いでいたのを、先ずそれをはっきりさせなければ、との思いが湧いてきて出させていただいた一冊である。

私なりの真宗入門をかねた、全文書きおろしの作である。

 

 何となく宿題のように残った、単行本の間に他で書いたものが、取り込んでみると、下の写真『蓮如真宗行事』から『妙好人千代尼』のあいだ分の量になっていた(A4判750枚、1500頁余)。

 そこには、書いたものを補完するはずの資料や、ほかの方が書かれた関連論文・報告書も何点か混じっている。

 何よりもこれはA4表だけプリントアウトしたものであるから裏も刷れば、半分の量になる。

 そこから分野ごとに代表的なものをピックアップしていけば、目標の500頁以内におさめられるだろう。

 とはいえ、ここにならべたものは、私にとってそれなりの大切な史・資料で、参考資料を本箱へ探しに行けばいいのだが、一冊にまとめて置けば使いやすい。それで、まず、数部分を分類・編集し、手作業で製本化しようと思っている。

 明日は久しぶりに一日自由なので、一気に作業を進めたい。

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左から

蓮如真宗行事』1990年・平成2年8月10日木耳社刊・オリエントブックス

 『蓮如上人と伝承』1998年・平成10年12月25日 真宗大谷派金沢別院刊。2刷後絶版

蓮如真宗行事―能登の宗教民俗』1998年・平成10年3月31日木耳社刊。『蓮如真宗行事』のほぼ再刊。

 

そしてその間のA5コピーが『真宗文化論』候補の執筆・参考分。

―今まで『真宗の習俗・民俗・文化』(仮題)など名で候補項目などをブログ上に書いて来たが、自分のデーター用でもあり、「俗」におさめてしまうには無理もあるので、あっさりと『真宗の文化論』で記していく。

 私が大谷で五来重先生に学び、佐々木孝正さんに親しくしてもらっていた時の所属が、「仏教文化」だった。―

仏教は広すぎるので、私の「真宗文化」論で進める。

 

 そして、昨年刊の『妙好人千代尼』2018年1月20日法藏館刊。2刷。

同書をアマゾンで見ると1~2ヶ月待ち状態。

蓮如真宗行事―能登の宗教民俗ー』も売っていない。