木村至宏氏の琵琶湖―24日NHK「ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!」
珠洲焼講座&学芸員による作品解説10月20日(日)「珠洲古陶の時代―若山荘」
昨日は珠洲焼資料館で講演。
懐かしい人、知らない人(富山からもお越しになっていたそうだ)いろんな人がおいでになっていて、どういう人なのだろうと思いながらお話しをした。
終わってまもなく作品解説がはじまり、いろんな人と話したかったのだが、七尾から、石川考古学研究会の元副会長で蓮能尼の里・西谷内城の復元、男鹿へ渡った椿のふるさと海士崎付近の発掘、高爪山界隈報告書の中心になって成果をおあげになった唐川氏も来ておられたので、ずいぶん久しぶりでもあり、つい話し込んでしまい、一枚の写真も撮らずに館をあとにした。
私が話したのは、「歴代、現館長に珠洲焼の魅力を聞く」枠。
以下は、ブックリウムさんが、ツィッターで書いておられたので、転載。
昨日は珠洲焼資料館で歴代館長が語る講座がありました。『珠洲古陶の時代ー若山荘』西山郷史氏。珠洲焼も歴史の上に成り立ってる。崇徳天皇の皇后の荘園。親鸞。平家物語の成立。熊野、珠洲、四国の順で梁塵秘抄に残された修験地。末法の世に珠洲焼。そして特別展示もすごくよかったで
レジメの行間を詰めたため、振り仮名振ったり、メモが出来るように机を用意していただいたのだが、ブックリウムさんは机のないところで聞いておられはず。それにしては要点をとらえ、よくまとめておいでる。
今から思えば、振り仮名をふるようなレジメの使い方はしなかったなぁ…
泉鏡花市民文学賞ー岩田崇氏
(公財)石川県埋蔵文化財センター 評議員・理事・監事発掘調査現地視察―10月16日(水)
いつものことながら、写真の貼り付け位置がわからず、時系列では下から見ることになる。
16日現地視察に行ってきた。
新幹線は終わったのではなく、その周辺部発掘もあるのだという。ただただ忙しそうだった昨年に比べ、少し周りを見渡しながらの発掘調査になっていると思えたが、調査の切り換え時期であったためそう感じたのかも知れない。
翌日、お会いした弁護士さんが、梯川下流小松天満宮の浮島保存に関わっておられたそうで、偶然に驚いた。
法縁でもあるのだ。
訂正(弓波の解説)このすぐむこう左→右
報恩講ー引上会―11日・12日
報恩講シーズン。
伝承では、11月の御正当に末寺住職は本山オシッチャ(御七昼夜)に必ずお参りすることになっており、自坊で予め報恩講を営む。
それを引上会(いんじょうえ)報恩講といい、その日取りが決まっている(ちなみに、本山から100里以内だそうで、私の所は圏外であるため、オシッッチャの名の下、7日間の報恩講を営んできた.現在は5日間)。
能登・加賀境の従兄のお寺では、この11日・12日が報恩講で、近在・親戚寺院などが参り合わせをする。
―車時代だから、お互い数少ない親戚寺院なので参り合わせをすればいいのでは、そう思ったのは、今朝のこと・・・。この従兄弟に初めて会ったのが、お互い高校生の時。それくらい飯田と押水は遠かった。ー
今年は、台風最中に、御法話に出向いた。
2日間で参り合わせの僧は延べ20人おいでた。単純に計算すればこのあたりの住職さんたちは、毎年40日ずつ近在、親戚のお寺で報恩講の厳粛なお勤めをしておいでになることになる。
御法話は、11日の日中、大逮夜、午後七時からの御伝鈔拝読(お初夜)に合わせて3座、12日は、午後の満日中後の1座。
夜の御伝鈔は、今となっては珍しい。
御法話を終えたのが夜9時。
最近、祇樹給孤獨園(祇園・阿弥陀経、平家物語)を考えていることもあり、源平ゆかりの倶利伽羅塾に宿を取っていた。
チエックインを夜9時にしていたので、遅くなる旨を伝え、ナビによる最短距離を走った。
坪山から八野、黒川、箕内、元女、どうもそのあと上太田までいってから、興津と案内板があり、突然、山道に入った。
加越能3国の境界の能登側が太田の先の下河合、加賀側が興津なので、三国山付近を走っていることになる。
そのうち「小熊」という地名がありしばらくして「大熊」を通る。
一応片側一車線なのだが、枝が道に出ていて真ん中を走らなくてはならない、クマ・クマ・クマ・・・台風接近ざわざわしている。
22時頃倶利伽羅塾に辿りついた。
12日は満日中。雨風激しき中、午後4時に御話を終え、恩徳讃と共に、2日間の法縁を胸に家へ帰った。
台風が最も接近している時間帯で、激しい雨、時には風にあおられ、ライトを全点灯にし、車間距離に気をつけながら帰った。
お参りは、プリント30枚用意して行ったのが、20枚ほど追加印刷。2日間に亘って不審(というより、「知」の方)を持ってお訪ねに来られた方がおいでたり、よき、法縁をいただけた。
「2020 令和2年法語カレンダー」と『月々のことば』
先日、林智康師から「2020 令和2年法語カレンダー」と『月々のことば』が恵贈されてきた(こういう言い回しでいいのだろうか?。~を頂いた)。
今朝、お礼状を出そうと、林氏のお書きになった文を読み出すと、去年、お伴したことが書いてある。
林師は表紙(瓜生津隆真師、以下師は省略)、1月(榎本栄一)、2月(清沢満之)、3月(安田理深)を担当なさったそうで、以下もきら星のごとく、著名な方々が名を連ねている。
「来年真宗教団連合結成50周年を迎えるにあたり、歩みを振り返る意味も含め、これまでの法語から、お念仏を称え、人生を生きぬかれた先師の言葉を選定致しました」(カレンダー裏)とある。
尊い法縁をいただいている。
「ひとにぎりの塩」DVD発売
目覚めの時、何種類かの揃っていない企画本のことをおもった。
下巻が先に出て、著者が亡くなられ多分永久に上巻が出ない本。
どうして次が出ないのだ、と思われる本(オレでも出せそうなのに・・・)。
シリーズで完結していないもの―この手は、あとで誰かに貸したのかな?と思ったりするので、やっかいだ。
などと、思いながら朝刊を見ると、懐かしい写真があった。
記事を読むと、2011年石井かほり監督で公開され、高い評価を得た「ひとにぎりの塩」のDVDが出来たとのこと。慶賀。
もうと言うべきか、まだというべきか8年前の出来事。
揚浜塩田には、それまでにかなり関わっており、どこかで撮影スタッフと出会って(大谷の塩の道だったはず)、知ることを話していたら、はずかしながら、いつの間にか監修者の一人として紹介されていた、との記憶がある。
石井さんから、この写真を用いた名刺をいただき、その素晴らしさに一時期、机の前に飾っていたことがあった。
あの頃は、外へ出たので出会いがあった。
今は・・・・・・仕事以外のぶらりが全くなく、部屋の片隅で根が生えている。
行か、信かー聖人のよき同朋、熊谷次郎直実の一の谷・・・。祇王の母、「とじ」の語る「五逆罪」と仏御前
坊守会での講義は、『真宗聖典』をフルに活用してになる。一方門徒さん対象では、用いても赤本までとなる。
となれば、真宗聖典をかみくだいてレジメにあらわさなければならない。
報恩講近し。
『御伝鈔』(本願寺聖人伝絵)の一つの要、信不退と行不退(上巻第6段)を取り上げることにした。
祇園精舎、祇王(小松市原町・仏御前の故郷)からの自然の流れである。
諸行無常であり、今様であり、女人往生、澄み渡る秋の月の「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」など、どこから入ってもいい、
「祇王」(『平家物語』巻一、母とじの「五逆罪」の叫びが載る)、「敦盛」(巻九、直実の武士たる家に生まれた嘆き、発心、そして、唱歌「青葉の笛」)・・・・・・
なんだかんだで、作った資料。
能登島・野崎墓地の板碑・五輪
23日お彼岸、25日8組坊守会、27日10組同朋会推進員協議会、29日12組門徒会、30日8組門徒会と講義が続く。
29日は会所が中能登町なので、午後の講義前に能登島を回った。
過去記事を整理している中で、野崎の墓地で五輪塔を見たと書いている(下の記事参照)。
五輪塔の記憶が全くないので、講義に像法薬師期に触れることもあって、像法期の薬師寺が前身だったという野崎のお寺へも顔出したり、墓地も訪ねようと思って寄った。
墓地は彼岸花が咲き、2基の5輪は、1基の5輪と2基の板碑だった。あの時、五輪はバラバラにあり、板碑を見落としていた、とすれば話が合うが、記憶が無いのだからどうしようもない。
前に寄った時はお通夜直前だったので記憶は場所のみ。
こんなに綺麗な墓地だったかどうかも、記憶から抜けている。
あの時は、相当苦労して苦労して野崎へ行ったとの思いがあったが、今回はスーッと行くことが出来た。
遠いと思っていたところが、身近に感じることもある
思い出の不思議さ・・・。