FB 2月13日(水)より  ほーっほーっほーたる来い

 

2月13日(水)

真宗習俗論」を補うために、「加能民俗」の元である「金澤民俗談話會報」(昭和12年~)から、さーっと見直した。
より具体的には、「ほーっほーっ蛍こい・・・・・・」がこちらへ来て法を聞きなさい、とどこかであったのと、押水あたりの「講」ラインが何種類にも交錯していて、膨大な「お講」があった、そのことを報告した文があり、それを参考として載せておこうと思ったからである。

2、3度見直して、ようやく2つの記事に出会えたが、他にも面白い報告に出会った。民話で力持ちの僧と相撲取り、あるいは侍たち数名とのもめ事ばなしがあって、他に怪力「しろく」話がいくつか紹介されている。そのゴボサン方が、いずれも有名な布教使の出た寺院の僧たちなのだ、この怪力話は、説教話から民話、炉辺話になって採取者に伝わり活字になったいきさつが分かる。
 さらに、仲のよかった布教僧たちが、一息入れる話の主人公に、御互いを利用し合ったほほえましい光景も浮かんで来る。

...

 この過程の、怪力モデルが布教僧であることを知っている人はもういない。となれば、知っているもの(私)が、そのことを語り部として書き残していかなけらばならない。

そこで、書き残すものに「民俗」「習俗」を入れれば、「俗」の対立語「聖」などをどうするか?となる。
真宗の生活は「聖俗」に分けられるものではないし、清濁合わせて、娑婆に、時代に揉まれながら消長を繰り返してきたものなのだ。ー例えば,町域のお寺では、戦後の主食配給時に「お斎」を続けることができなくなった・・・・・・、など。

俗を用いないとすれば、真宗「土着」、「風習論」、「と土徳論」、「~の世界」「~の生活」「平生論」「いきづく真宗」「消長論」・・・・・・。何がいいかな・・・・・・。

羽咋まで、ドライブしながら考えよう。

FB 2月11日(月)より   あすありとおもふこころの・・・碑文物語

2月11日(月)休日

明後日夕刻から、志賀町で「御崇敬」についてお話しすることになっている。対象は僧侶の方々。

御崇敬を担ってこられた同行の方々のお顔を思い浮かべていると、「明日ありと・・・・・・」の和歌が付かず離れずに浮かんできた。親鸞聖人出家時の歌として名高いこの歌については、『妙好人千代尼』においても、

 「多くの伝親鸞作の中でも名高いのが、九歳の出家の折に詠んだとされる...
  明日ありと 思ふこころの あだ桜
     夜半(よわ)に嵐の 吹かぬものかは
でしょう。

この場面を、『親鸞聖人御一代記図絵』(一八六〇)では、出家を決意した範宴(=親鸞、はんえん)が、伯父(おじ)・範綱(のりつな)に伴われて粟田口(あわたぐち)青蓮(しょうれん)院の慈鎮(じちん)の元をたずねたとき、慈鎮は、まず俗体で九カ年のあいだ学問に勤め、その上で学業試験を行います。よく出来て答えが速やかなときは官に申請し、出家得度の許可証である度牒(どちょう)を受け、その後、剃髪(ていはつ)することになっています。けれども、幼い身での殊勝な志に免じ、明日髪を剃り落としましょう、と得度を許可しました。

 範綱は、その厚意に深く感謝しますが、親鸞は「明日ありと…」の歌を懐紙(かいし)に認(したた)め、範綱の前に置いて、老少不定(ふじょう)、生死(しょうじ)無常の世の中ですので片時も早く剃髪(ていはつ)したいのです、と願います。

 慈鎮はこの和歌を見て感嘆し、その場で得度式が行われました。同書には、養和元年(一一八一)三月十五日のことです、と記しています。

この歌は、高田本「御文」(高田本誓寺十帖「御文」)第四帖第十三通、文明七年(一四七五)二月二十五日条に

  あすみんと おもふこころは さくら花
       よるはあらしの ふかぬものかは

と書き込まれているのが古く、

 『御絵伝教授鈔』(一七七三)、『御伝鈔演義』(一七七四~九)、『親鸞聖人絵詞伝』(一八〇一)などの諸本には、少しずつ違った和歌が紹介されています。『釈教玉林和歌集』には、

  あす迄と 思ふ心の あだざくら
      よるはあらし のふかぬものかは

とあって、和泉式部作となっています。

親鸞の先に生きた人で、無常を知り、明日ありと…と詠めるほどの歌人は、和泉式部をおいてほかにいない、とされていたのでしょう。」

と書いた。

 昨年珠洲にお越しになり、一緒に旅をした本願寺派勧学・林智康師からは、間もなく、林智康「蓮如上人と御詠歌」(「真宗学」93号)、土井順一親鸞聖人の出家得度時の詠歌」(「龍谷大学論集」第452号)、中路孝信「親鸞聖人出家得度時の詠歌の形成」(『日本浄土教の諸問題』)などの抜刷を送って下さった。こんなに立派な論が出ていることを知らなかったので、いつか私なりの問題意識でじっくり読みたいと思っているのだが、今、同行さんとの関わりで記すのは、

戦前、青蓮院にあった「明日ありと・・・・・・」碑文の数奇な運命である。

 結論から言えば、供出されて軍需品になるはずだった銅板歌碑が、中能登町高畠に聖人像と共に飾られているのである。http://d.hatena.ne.jp/umiyamabusi/20060713/1201088094=明日りと・・・・・・碑。

「あ寿阿りとおもふこゝ路の阿多佐くら
よ者にあらしの布かぬもの可は」

歌碑の由来(文) 

「宗祖親鸞聖人は 高倉天皇の承安三年四月一日 
藤原氏の一門日野有範卿とお后源氏の吉光女との長子としてこの世に世を受けられ
幼名を松若丸と称した 
然し 幼少にして父君とは生き別れ 
八歳の時に母君とも死別の憂き目に遭われるのであった 
遂に九歳の春出家得度を志し 
伯父範綱卿に導かれて粟田口の青蓮院の門を叩くこととなったのである 

時は将に春の夕刻であった
深く頷きつつも明日改めて出直してくるようにと諭された慈鎮和尚様に対して 
今を盛りと咲き誇る境内の桜を指さして詠まれたのが 
この歌だったのである

果てしなき無常の嵐が吹きすさぶ人生の荒野 
その荒野のただ中で真に安んじて生きることのできる道を開顕せられた
わが聖人の御教えは 
いつの世にも 
いかなる世にも 
光となって輝いていくことであろう 合掌

当碑は 御得度地を記念して
青蓮院の境内に建立されてあったが 
太平洋戦争末期にこの銘板が兵器製造に処せられることとなり 
国家に強制没収された
まもなく敗戦を迎え 
偶(たまたま)幸いにも難を免れて返還されたのであるが 
青蓮院には既に代りの碑が建立されてあった為に 
江州中郡詰所がこれを譲り受け今日まで護持するも 

今般故あり
同詰所の依頼によりこの地に移転 
安置する運びとなった次第である

 平成十四年十月
       真宗大谷派宗議会議員 壁屋一郎
       徳照寺住職 釋 欽恵 記述之」

壁屋さんがおなくなりになり、石見亮吉さんが、あとを継がれた。

 『妙好人千代尼』の後書きに、真継伸彦さんのことを書いたあとに、石見さんに触れている。

「同行の長老・石見(いしみ)亮吉」さんも平成二十六年にに帰って行かれました。門徒研修会の締めの挨拶に、「今日の午前中、初めてウグイスの声を聞きました。ホーホケと鳴いて、三度その声を聞きましたが、三度目もホーホケ・・・・・・で、ホーホケキョと鳴けないのです。

 それを聞いておりまして、私のお念仏も、南無阿弥陀、のままでとどまっておるのではないかと、思いました。この年になるまで、聞いても聞いてもホーホケ、南無阿弥・・・・・・。

 これからも・・・・・・陀仏とうなずけるよう、聞法して参りたいものと思っております。」といった挨拶を、柔らかな笑顔のままなさる方で、私は妙好人をこの方に見て来ました。」

もったいない出会いが、次々に浮かんで来る、父の命日の午後。

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FB 2月10日(日)より   宗祖聖人御旧跡巡拝 久乃木村豊四郎

2月10(日)

 

http://d.hatena.ne.jp/umiyamabusi/20180821/1534835284=宗祖聖人御旧跡」(豊四郎巡拝帳)
は、昭和59年に刊行された『鹿島町史』(通史・民俗編)調査時に発見された巡拝帳で、『蓮如さん―門徒が語る蓮如上人伝承集成ー』(昭和63年刊)と『蓮如真宗行事』(平成2年刊、平成10年に『蓮如真宗行事―能登の宗教民俗ー』で再刊)に4枚目の地図と八百字程度の解説、訪ねた由緒寺院一覧を載せた。
多くの門徒たちが巡拝に出向いており、一カ寺一カ寺の由緒や巡拝帳(一般の朱印帳)が多く残っているのに、その方面の紹介がなされていない。
この巡拝帳の持ち主さんも高齢で、この資料を扱ったのは私だけなので(表にの意。「読み」は当時町史編さん室長?だった桜井憲弘さんが原稿化しておいでる)、ちゃんとした形で残していかなかればならない。
コピー・写真に撮らせていただいたいきさつは、ブログ「能登のうみやまブシ」に書いた通りで、紹介文は昨年8月21日までに11回、55ヶ寺を載せた。豊四郎は231ヶ寺巡拝しており、腹を決めて時間を作ら...ないと、全体を紹介できないままになってしまう。
ともあれ、このような貴重な資料もあります・・・・・・だ。

話は変わるが、あるところに論文を出したら、との話があった。それは、2月中に論を持って京都まで持参しなければならない。今月末は当寺の「春勧化」(5日間)があり、たとえ論が認められても忙しくなるだけのようだ。

その前に、あまり知られていなくて論にしたものを『真宗習俗論』として一つにまとめ、伝えていかなけらばならない。そこに、何が今までの資料集に載らないままになっているのか、整理しなければならないだろう。

民俗は戦後。
それ以前の日常だった習俗。「習俗の語り部」に徹しなければ・・・・・・。

さて、6時半だ・・・・・・。雪かきにでよう。

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この四枚の出典は『才一同行』高木雪雄著。
才一は親鸞聖人の越後流罪、跡を訪ねた蓮如上人35才の年の明治17年に御旧跡巡拝に出ている。
見真大師御𦾔跡二十四輩巡拝」より。
読みはついていないが、三五頁136ヶ寺分の写真が載る。

FB 2月9日(土)より   春のあえのこと

 

2月9日(土)

今日は、多くの地域で「あえのこと」が行われる。かつて、農家では、名ばかりであってもほとんどが意識していたが、門徒宅のように、報恩講や斎(とき)始めがなく、また、親作が小作人と労働契約を結ぶ行事でもあるので(本来、こちらが重要だった)、真宗以外の農家に、しっかりした形で残ってきた行事である。
 昨日の8日(「こと八日」)は像法期の主仏・薬師如来の縁日で、真言檀家などは、仏事を営み今日を迎える。松も8日に山から求めてきたはず。

かつて書いた新聞記事で、今日の行事の一端を考える。

...

「舞台」2008年(平成20年)9月27日(金)
北國新聞夕刊記事。「あえのこと」「あいのこと」

[本文]
多くの方言資料を残した馬場宏さんが、
「あえのこと」をあいのことだ、とおっしゃたことがある。
実証的研究で定評のある坂下喜久次さんも「あいのこと」だとおっしゃっている。
 今年の北陸三県民俗学会の共通テーマーが田の神に関連し、発表の機会が与えられたので、それを機に、あらためて「あえ」「あい」の流れをたどってみた。
 昭和五十一年に「奥能登のあえのこと」として国の重要無形民俗文化財に選ばれ、ユネスコ無形民俗遺産登録も視野に入れているこの行事は、『七浦村志』(大正十年間)に「田の神様」として紹介されたのが初出である。
その二年後に刊行された『石川県鳳至郡誌』には「あえのこと」(大屋村)が載った、
[※西山註:「あえのことは間の事の転訛にして、秋季祭と正月の中間に行はるゝが故に名づく」とある。北陸はイとエの区別がはっきりしない4母音地帯と言われている。]

また行事の詳しい様子をはじめて全国に紹介した小寺廉吉さんは、「アイノコト」を用いておられる。
ところが『農村分類語彙』(昭和二十二年刊)にはじまる民俗辞典類は、すべて「あえのこと」が見出しとなっており、「あえ」を饗応(きようおう)の「饗(あえ)」であると説明する。
[※註:このことを決めたメンバーの1人から聞いた話では、その方は「新嘗祭研究会?」にも所属しており、そのメンバーが話し合って、「嘗」の字を当てることにしたのだという。]

一方の「あい」は、収穫祭と正月という大きな行事の「間(あい)」、神々の「会い」、実りをもたらす「アイ」の風が吹いて欲しいという願いをこめてなど、多様ないわれと共に伝承されていた。
 説明しやすい、「饗(あえ)」が研究者によって選ばれ定着したのだが、その名の奥に、多くの人びとの願い・報謝の思いを込めた言葉がある。そのことを心れず語り伝えていきたい.(珠洲市
西山郷史(にしやまさとし)
加能民俗の会副会長
[参照]
http://d.hatena.ne.jp/umiyamab…/…/1228653263=あえのこと・アエノコト基礎資料

馬場さんは、80歳を過ぎても原付バイクで、あちこちに調査にでかけられ、相当高齢になっても泉丘高校定時制生徒だった。汽車に乗り合わせたとき、学割をお見せになり、これで方言調査に出かけるのだ、と楽しそうに話されていた。

作詞・作家なかにし礼氏の母は、能登町恋路・坂下家の出、坂下喜久次さんはなかにし礼氏と従兄弟。研究・調査・執筆の合間に披露なさる三味線・民謡がお上手だった。ご夫婦で礼氏を○○ちゃんと呼んでおられたが、文才に音楽。似るものだと思っていた。

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FB 2月6日(水)7日(木)より    北西弘先生還帰なされる

北西先生が還帰なされた。1月25日。この日は、法然上人の祥月ご命日、蓮如上人のご命日、加賀藩前田利家の先祖と表している菅原道真のご命日、また、たぶん他地域ではいわない「寺正月」の日でもある。今朝の「北國新聞」。

私が、京都・大谷に行ったときの国史・仏教史、研究室の主任教授が五来重、藤島達郎、それに柏原祐泉、北西弘教授陣だったはず。当時は、歴史の問題以前に問題点が分からず
ーよく知っているメンバーの講義に、質問ありませんか?と聞くと、何を質問していいのかわかりませーん!、と返ってきて講義終了となるのだが、それに近いー
お話しすることもない遠い人だったが、昭和50年頃から始まった『珠洲市史』、『能都町史』などの専門委員になったため、謦咳に接することができた。最後にお会いしたのは、確か、先生90歳の時。聞きたいことがあって訪ねたのだった。合掌。...
http://d.hatena.ne.jp/umiyama…/20060409/1200987325=2006年4月9日
(赤字の日付が出て来るので、それをもう一度クリック)
2枚目の写真。2006年(平成18年)4月9日。80歳頃の先生(ご自宅で)。
 今、思い出した。
先生の古文書学の授業に出たことがある。最初の時間の最初に読みがあたった。そして、院生ですね、(たぶん、その時先生は「充分実力があるのに聞きに来ているのですね」と思われたのか、学部生対象の授業なのですよ、と思われたのか、こたえなくて)いいです、次、○○君と学部生に移っていった。1時間だけど、習っていたのだ…。

7日追加。写真3枚目
北陸中日新聞朝刊社会面。

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 2月7日(木)北陸中日新聞、朝刊社会面。
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FB 2月6日(水)より   講義:県選管委員対象に能登を語る

 

午後14時~15時30分。講義「能登の風土と文化ー能登国立国1300年の歴史・民俗ー」。対象:石川県内市長選挙管理委員会委員。会場:和倉温泉ゆけむりの宿 美湾荘。

○7日朝追記
私、一人のために「今現在説法」であり、一期一会。
お会いしたことはなかったが、平野修さんは、講義をするとき10日ほどかけてどのような方にお話しするのかを調べた上でお話しなさったということを聞いた。...
○写真2枚目。平野師のお寺ー明證寺(2018年3月23日撮影)
飯田高校100周年に講師に来ていただいた伊東乾さんも、生徒がどういう風土で生活しているのかを知るため2日間、一緒に能登を回り、月の半島の印象にふさわしく、講演舞台で「月光」のさわりを演奏なさった。
http://d.hatena.ne.jp/umiyama…/20121120/1353398726=飯田高校100周年
http://d.hatena.ne.jp/umiyamabusi/20171025/1508883187=伊東乾氏

 話し手は、聞く人の貴重な時をいただくのだ、偉そうだが、どこまでも聞く人に寄り添うべきだろう。
 しかし、選管委員という職業があるわけではないので、どういう人たちがお集まりになるかも分からない。昼食を「はいだるい」(『能登のくにー半島の風土と歴史ー』の「能登言葉ー東西文化の接点」でお店の看板を写真で使った)に摂りに入ったとき、飯田高校で同僚だった英語教師と出会った。委員の1人だという。会場では真宗寺院の住職がおいでた。○○さんがよろしく言っていましたと言いに来た役場職員、始まるまでに、それだけの情報がはいった。要するにあらゆる方々。

 ただ、講演の舞台は最高だと思っていた。能登島町史、中島町史、七尾市史で泊まり歩いたところだし、「能登はやさしや……」の舞台になり、白山と早くからつながった能登の御山・石動山も見えるはずだった……。
 まず、能登島と海を見ながら、能登島大橋になぜ片側しか灯りがついていないのかから話し始め、七尾湾・能登島を背景に、壮大な能登のドラマを想定していたのに
ーあのあたりに、加賀百万石を支え続けた、石垣田が……の、あのあたりが見えない。

海と山と島の大パノラマを背景に……が崩れたささやかな想定外を引きずり、休憩なしの90分……。

さぁー帰って勉強!!(と思ったのだが)
和倉往復ー(たちっぱなしの)講義で、充分疲れていた。

そろそろ、この分野で話すのは、卒業なのかな……と、一晩経った朝、そう思っている。

今、気づいた(7日9時半)。
海を眺めての講義は「能登空港」会場の時だった。何度か和倉で講演したが、講義室から海が見えたことはなかったなぁ……。

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FB 2月5日(火)より   真継伸彦さんとの想い出

 

2月5日(火)

 

先月31日、和倉「のと楽」で能登教区新年互例会があった。会が終わったあと、α1というビジネスホテルに泊まった。
かつて、真継伸彦さんと泊まったホテルである。学生時代、高橋和巳氏と共に『人間として』を代表する人として名だけ存じ上げていた人と、30年後に和倉までご一緒させていただいたのは、近くのお寺の「御崇敬」にお参りし、夜更けまで「御示談」を聞いたためだった。

そもそもの出会いは、2000年9月2日(土)、大聖寺教区蓮如上人500回御遠忌協賛シンポジューム「蓮如上人と加賀一向一揆」に、真継さんが基調講演、パネリストとして福井教区の伊香間祐学さんと能登の私が語り合った場だった。
その時、真継さんが、一度「御示談」に会いたいとおっしゃられ、口能登で御崇敬が営まれる時期に能登にお越しになり、我が家に一泊、和倉に一泊されたのだった。

...

真継さんは2016年8月22日にご逝去。22日は聖徳太子、乗如上人すなわち御崇敬の歓喜光院のご命日だ。淡路島に師匠寺・お墓がおありとのこと。一度、訪ねたいところは多い。
http://d.hatena.ne.jp/umiyamabusi/20160825/1472111254
=ブログ「能登のうみやまブシ」2016年8月25日

明日は、和倉「美湾荘」で、午後2時~「能登の風土と文化(能登立国1300年)」についてお話しする。
対象は県選管委員(約90名とのこと)。

 

 

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FB 2月4日(月)より  神仏判然令の頃

神仏判然令、神仏分離のころに、廃仏毀釈の動きから一時避難を試みた資料に気づきだしている。説教に語られた「長太むじな」話が、民謡「はいや」となって、神国を全面に出した歌詞に変えて残したりーほとぼりが冷めれば、元の「たのめ!彌陀の本願」に還るはずだし、加賀の方では「華和讃新羅源氏絵馬」が奉納されたりしている。もし寺がなくなっても、村堂で、浄瑠璃場面をみながら、「白骨の御文」場面を語ることが出来るように、後世に伝えようとしたのでは…と考えていくことが出来る。

30年前の一向一揆500年の頃、白山権現廃仏毀釈がよく話題になった。観音・彌陀浄土白山山頂付近の仏像は、下山仏として、白峰・尾添に安置されているが、野辺の地蔵などが破壊された。
それを理論として指導した人物、幕末期の著名な郷土史家の名が取りざたされたのである。...
そんななか、お孫さんかなにかに当たる女性の方が、たしか、家は真宗門徒で廃仏をすすめるような人ではなかったと訴えておられるー、とその方の身近においでる民俗研究者から聞かされた。

一向一揆を語るとき、廃仏に関わったとされる、その人物の名を知っていて、批判めいた口吻で語ることが、一種のステータスだった。
そういう風潮のなかで、声をあげることの出来ない、ご子孫がいる…。こわいと思った。

一方、徹底的に破壊したエリアがある。新政府になったところで、あるいは年号を変えては天災・飢饉を豊穣にしようと思っても、自然は自然の流れを変えるわけがない。
寺院合祀、修験の廃止から数十年で神社も合祀しなければならなく、海外にも開拓地を求めならない状況、言い換えれば、新たな為政者にとって一揆・打ち壊しのエネルギーが、いつ自分たちに向けられるか分からない状況が続く。
 そのおそれがカラダに感じられる地域ほど、目をそむけるために徹底的な廃仏を行った。ええじゃないか、ええじゃないか、ボレ、コワセ、ボレ、コワセ……。だったのだ、と、今は、そう考えている。

その典型の廃仏の地、隠岐へ、大谷へ行って最初の国史研修旅行でついて行ってきた。五来先生が国分寺の歴史などを語ってくださったはずだ。
そのときの仏像が、国分寺に残っていたのだが、2007年(平成19年)2月25日、本堂が焼失し、すべての仏像類、面なども焼失した。
そういえば、研修旅行で撮った写真があるはずだと探しだし、翌日のブログ「能登のうみやまブシ」に載せた。
以下は、その写真である。
私は、国史の先輩や学生たちが写真を撮っているのをまねて研修旅行はとは、こういう写真を撮るのか!と見ようみまねで撮ったので、焼失した仏像類の写真は、皆持っているのだろうけど、ブログで紹介した人はいない。

間もなく、学習研究社から写真を使わせてほしいと連絡が入り、国分寺近くの焼火神社宮司さんからは、神社にある像は見ていますが、写真に撮ったのを始めてみました。私も写真に撮りますとのコメントが、2007年2月26日のブログに入った。

今、ブログの更新が出来なくなって辞典代わりにメモしていた下書きが使えなくなってあせっているが、さらに、ある時に消える、という日が予定されていて、移動しておいてくださいと連絡があったのかも知れない。そのあたりが、分からないので、貴重だと思う写真を適宜こちらに移していく。

神像・脱衣婆は神社。
邪鬼は神社だったか?なんせ39年前のことなので…。

仁王像の次の写真は、学研が『天皇の秘教』(藤巻一保著、2009年2月刊、本体4200円)に用いたページ。写真説明には次のように書かれている。
「廃仏殿釈が激しかった地方のひとっ、隠岐国分寺の仏 像群。

明治2年、庄屋・神 官層によって寺が急襲され、 昨日まで信仰の対象だった当寺の仏像は、首や腕がもがれ、ゴミのように放置されたという。

写真はのちに その一部が回収され、寺院 内に安置されていた様子(昭和44年)。

この状態でそ の後も保存されていたが、2007年の本堂火災でこれら も灰燼に帰した。(撮影= 西山郷史)」

その次の表紙本、背表紙。本棚に、ちょっと異質な本がドーンとある。

+3
 
 
 

FB 2月3日(日)より  網野善彦・小沢昭一・市川市鼎談

2月3日(日)

 
1990年「月刊百科」11月号(平凡社)。29年前のこの雑誌に、節談説教を含む鼎談が載った。網野善彦小沢昭一・ビクタープロデュサー市川捷護氏によるもので、すごい内容で、面白い。『音と映像と文字による 体系「日本 歴史と芸能」』全14巻が発刊されることになったのを記念した鼎談である。
この14巻はvhsビデオと書籍がセットになっていた斬新な企画だったため、図書館の分類にはなかったのだろうー石川県、富山県の図書館には一冊も入っていない。
編集委員網野善彦大隅和雄小沢昭一服部幸雄宮田登山路興造錚々たる方々である。
本体が見ることが出来ない。まして、「月刊百科」に鼎談があることを知っている人は、もうほとんどいないのではないか?多くの人が帰され、昨年10月2日3日に、思い出の能登を訪ねられた網野善彦夫人真知子さんが、90歳になっておられた。付け加えると、「月刊百科」には義兄の倉本四郎が、パロパロパンチ名で書評を書いていた。最も身近な1人だったのだから、パロパロパンチが載っている「月刊百科」の文もまとめたい…と、次々、思いは広がっていく。
フェィスブックを開くと、今何してる?と、出て来る。
ほっといてくれ、とまず思うところからして、ブログと違うのだが、いまは、とりあえず、この鼎談を取り込み、論著の参考に使えるよう、作業を進めている。
鼎談の字数は、20339文字400字詰め原稿用紙51枚分。細かい字で、すごい量の文化情報を圧縮して提供していた時代のあったことに、あらためてうなずいている。
昨日載せた山門も、真宗文化史があるとして、山門の研究は進んでいないのでは…。あの写真を見て、二階建て山門は雪国特色かな?と考え、調べてみようという人が現れてくれれば、いい…との思いがある。
そこで、顔写真を見ると、そんなことばかり考えていそうな
人物がいる。だいぶ前の写真で、おだやかなのに変える。
書いているうちに。そこへ行き着いた。
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「月刊百科」表紙。以下『日本歴史と芸能』ー音と映像と文字による[大系日本歴史と芸能]第五巻民衆宗教の展開 踊る人々。
目次に私が書いた「節談説教の風土」がある。石川の図書館にはこの本がないことは知っていたが、富山県の方が、読みたいのだけど…といってきた。富山県の図書館にもないという。
ということもあって、この文章を企画している論著にまず載せる。字数15271字、400字詰め原稿用紙約40枚。
5枚目の写真は、ビデオケースの表紙。再生する機械が一般にはもう存在しない。
このセットは1991年発売時、一冊12000円していた。...
 前の文につなげようと書いてみたが、離れてしまった。錯誤は続く。
 
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  • 石橋義秀 素晴らしいですね。私も読みたいです。大谷大学の図書館にあるか、どうか調べてみます。ありがとうございます。石橋
     西山 郷史 私が大谷の仏教文化に入ったとき、五来という方から(前の大学でゼミと言う概念を持っていなかったので)、君はロクサイネンブツを調べませんか、と言われました。????…だったのが、六斎念佛はともあれ、すごい先生だと知るのはしばらくしてからでした。この本・ビデオに二カ所の六斎念仏、しかも、先生初期の代表論文「踊り念仏から念仏踊り」へ、が映像解説の項題に用いられています。サーッと当時のことを思い出しております。
 
 

FB 2月2日(土)より 真宗山門 楼門

 

2月2日(土)

真宗大谷派には、山門と鐘楼堂を兼ねる二層の建物を有する寺院がある。昨日、虫峰山正覚寺七尾市中島町)を外からお参りし、その建物を撮った。
今一枚は、かつて撮った茅葺きの風格ある山門。
一枚目、東山養覚寺(輪島市)の茅葺き山門。238年前の天明元年(1781)建立。2008年8月5日8組坊守会研修の折、撮影。昭和49年4月26日輪島市有形民俗文化財指定
二枚目は虫峰山正覚寺七尾市中島町)山門。2019年2月1日。

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